第3話 Rainbow

【花屋 Michele-rose】

 その店があるシカトリスには、風変りな宗教概念がいくつかある。

 その宗教観念から、こんな祈りの言葉がある。

「《亡き者と神へ、わたしは祈りを捧げます》」

 亡き者に重きをおき、強く信仰する。

 その祈りの言葉を口にしながら、ミシェルは朝日の中、花たちの世話をする。

「《遺志こころを尊び、遺言ことばに法り、亡き者と神を崇めます》」

 シカトリスの住人たちは今でも、それらの信仰の中生きている。ある者は遺志を尊ぶことで救われ、ある者は遺言に法り絶望しながら。

「《我の祈りを受け入れてください。我の命を見守ってください。どうか、この祈りが届きますよう、願います》」

 しゃきん。花切狭の刃が打ち鳴らされて、花束の茎がそろえられる。手早く防水性の高い包装紙に移して包み、露出させた根本だけを水につけた。

「よし、これで今日の分は揃ったな。なら、そろそろ――」

 ミシェルが顔を上げると同時に、仕事の依頼を告げる軽快なノックの音が店内に転がった。

「ミシェルさん、イヴェールです」

「あいよ。待ってな」

 応えたミシェルは作業用のエプロンを解いて流しに放り、イヴェールの待つドアの外へ看板を片手に出ていった。

 まもなく、午前九時の鐘が鳴る――



「よっ、ミシェルさん。やってるかい」

 恰幅の良い口髭の男性が、ミシェルに片手を上げながら挨拶をした。

 小脇にはクラッチバックとともに、何かが入った封筒が抱えられている。

「どうも、マルスさん。今日は特によく売れますよ」

「そりゃあそうだろうよ。なんたって期待の新人、女優エトワール・ヴェニュスの晴れ舞台だ。みんなこぞって花を贈りにいくだろう」

「そうみたいですね。彼女が好きだっていう向日葵をたくさん仕入れていた甲斐がありました」

 夏の風は暑い。それまで軒下の向日葵の棚を整理していたミシェルの白いシャツもべたべたになってしまっている。ミシェルは首にかけていたタオルで、銀の髪が張り付いてしまった、汗にまみれた額を拭った。

「はっはっは! やっぱりミシェルさんは街のことを良く知ってるよ。なんたって、エトワールちゃんの好きな花まで知ってるんだからなぁ」

「彼女とは、ミセス・ファンヌとの付き合いで何度かお会いしたことがありますから。そのときに、花のことを」

「そうか、そりゃあ良い。ミセス・ファンヌもまだまだ魅力的になりやがる。二人が揃うこの舞台は、本当に見ものだ。ってことで、ほれ」

 言って、マルスは小脇に抱えていた封筒をミシェルに差し出した。

「これが映画小屋の特権だな。彼女の舞台のチケットだ、一枚あんたにやるよ」

「ありがたい。忙しくてチケットを取れなかったので……」

「いいってことよ。彼女にとびっきりの花束を用意してくれりゃ、それ以上の礼にはならんからな」

「わかりました。それなら、俺から飛び切りの花束を、彼女に」

「おう、任せたぜ花屋の旦那。じゃっ、俺はこの辺で」

 ひとり、客が来店したのを切り目に、マルスはさっぱりと挨拶を済ませ、鼻歌を歌いながら川の下流へ歩いて行った。

 それを見ていた客、やや年老いた女性が苦笑しながら言う。

「まったく、あの人も調子いいんだから。ああ、ミシェルちゃん、この向日葵を五本ほど包んでちょうだいな」

「はい、ミセス」

 彼女が頼んだ花束もまた、女優エトワール・ヴェニュスへのメッセージカードが添えられた。



 日も落ちたころ、渚にあるオペラハウスに、着飾った紳士淑女が集まりだす。

 ミシェルにとって見知った顔も多く見られたが、それだけでなく、他所の街から来たのであろう知らない人間もいた。

 濃紺の燕尾服に身を包み、白銀の髪にハットを乗せたミシェルはエトワールへの花束、そしてミセス・ファンヌへの花束を抱えていた。

「やあ、ミシェルさん。ミセス・ファンヌへお花ですか?」

「ええ。ミス・エトワールにも」

「そうですか! どうぞ、開場までにはお戻りください」

 警備の者に一礼して、エトワールとファンヌの控室に入ると、艶やかな花束と女優たちがミシェルを出迎えた。

「ああ、ミシェル! 来てくれたのね、会いたかったわ」

「どうも、ミセス・ファンヌ。こちらの花束を貴女に」

 ミシェルは、深紅の薔薇をメインに使い、赤でまとめ上げた花束をファンヌに渡した。

「そしてこちらの花束をミス・エトワール、に……」

 鏡の前に立つエトワールの姿に、ミシェルは思わず、言葉を失った。

 黄金の向日葵に囲まれた彼女の衣装もまた黄金に輝き、彼女のしなやかな身体を包んでいる。

 細く長い手足は天へ伸びようとする若木のごとく美しく、力強い。深く入ったスリットから覗く肌はきらきらと輝くようだ。

 頭頂でまとめたプラチナブロンドの髪が垂れ、背中のほうで揺れる。鏡に映るエトワールの顔には幼さの残る美貌が宿っていた。

「あら、ミシェルさんでしたよね」

 ミシェルの方に気が付くと、エトワールはぱっと表情を輝かせてミシェルの方を向いた。まるで太陽のようなその笑顔は、眩しさを感じるほどだ。

「お久しぶりです、ミス・エトワール。今日はまた、一段とお美しい」

「いやだわ、そんな。メイクのせいです」

「そうだとしても、お美しいですよ。さ、俺からも花束をどうぞ」

「ありがとう。今日の舞台は頑張ります」

「もちろん、あたしも頑張っちゃうんだから。見ていてね、ミシェル」

「ええ、それでは」

 会場に、開演を告げるブザーが鳴る。騒めいていた人々が一斉に声を潜める。

 そして――輝く星の名に相応しい、夢のような舞台が幕を開けた。



「ああ……良い舞台だった」

 ミシェルは、人々の熱気から逃れるように、岸壁にせり出したテラスの柵に身を預けていた。

 このあと、初公演を記念した簡単なパーティーがあり、今日の夜が締めくくられる。

 モヒートと氷の入ったロンググラスが、ミシェルの左手の中で涼し気な音を立てる。

 海風が白銀の髪をなびかせて、開け放たれたホールの中へ流れ込み、会場に飾られた、ミシェルが用意した多くの花々を揺らした。

 そのさざめきに、歓声が重なる。

「ああ、ミス・エトワール!」

「エトワール……!」

 歓声は徐々に大きくなり、ホールを包んだ。エトワールがその場に来たようだ。

 その姿はきっと、重なる多くの人影のせいでミシェルの目には入らないだろう。そう思ったが、それでも一目見たい思いでミシェルはホールの方を向いた。

 すると、一段高い壇上があったのだろう。エトワールのきらきらした笑顔がミシェルにもわずかに見えた。

「皆さま、今日はわたしの初めての舞台にお越しいただき、本当にありがとうございます!」

 ひときわ、歓声が大きくなる。客たちは皆エトワールの名を呼び、彼女を称える。

「それでは、遅まきながらわたしからも乾杯をプレゼントしたいと思います」

 そしてエトワールはあたりをぐるりと見渡すと、グラスを高々と掲げた。


「わたしの初舞台に、そしてこの素晴らしい夜に、乾ぱ……――――か、はっ!」


 ざわ、とどよめきが起こる。ミシェルからは、苦痛に顔を歪めるエトワールが一瞬見えて、すぐに人ごみに紛れて見えなくなった。

「ひっ、きゃああああああっ!!」

「おい、誰か医者を、医者を!」

「ああ、ああ、なんてことなの!?」

 恐慌に陥った客たちは半分ほどが逃げ出して、滅茶苦茶になった会場に残りの半分の客が放心したり騒いだりしながらエトワールを囲んでいた。

 ミシェルも、グラスを放り出してエトワールの元へ急ぐ。

「ミス・エトワール!」

 その場には鬼のような形相をした蒼いドレスの、妙齢の女性が居た。手には、赤く濡れたナイフが握られている。その赤は――エトワールのものだ。

 蒼いドレスの女性は、ぐったりと倒れ込むエトワールのことを嘲笑しながら言葉を吐き捨てる。

「あんたみたいな、若いだけでもてはやされるような女優が――大嫌いなのよっ!! 死んじまえ、あんたなんか惨めに死ぬのがお似合いだわ! あっははははははは!!」

 尚も女性はナイフを振り上げ、エトワールに襲い掛かる。制止する警備員たちを次々と切り付け、エトワールのもとにたどり着くとざくっ、ざくっ、と肉にナイフを刺し込んだ。

 エトワールは既に、息をしていない。呆然としているようにも、驚愕しているようにも見えるその表情からは生気が消え、美貌は血に濡れてしまっている。

 ミシェルは悟った。もう、エトワールは助からないということを。

 蒼いドレスの女性は嬌声を上げてエトワールの死体を踏みつける。

 その凶行は、警察が来るまで――かなりの長い時間、行われた。





『黄金の新人女優、エトワール・ヴェニュス刺殺!!』

『恨みのジョリ・メテリオットの凶行! エトワール・ヴェニュスの悲しい死』


 そんな見出しが躍る新聞が、駅前や本屋など街のあちこちで売られ、飛ぶように売れていった。

 ミシェルの店の地下に横たえられたエトワールの死体は、すでに傷口を縫い合わせ防腐処理を行ってある。

 ミシェルは、いつもの仕事着である闇に消え入りそうなほど黒いロングジャケットに、歪んだシルクハットを身に着けた姿で、エトワールの前に立った。

 薄手の黒い皮手袋越しに、冷たくなったエトワールの左手を触る。

「ご愁傷さまです、ミス・エトワール。葬儀の方はまもなく」

 そして軽くキスをすると、エトワールの死体を優しく抱き上げ、地上への階段を上る。

 店の表に止めてあった霊柩馬車の中、硝子でできた棺――花は一本も入っていない――そこに、エトワールを横たえた。

 御者に合図をし、霊園へと馬車を走らせた。


 からぁん――……


 遠くで、午後三時を告げる鐘が鳴る。霊園には、灰色や茶、黒など喪に服す色の意匠を身に纏った老若男女が大勢集まっていた。

 皆、エトワールの死を悼みに訪れたものだ。

 あちこちですすり泣く声が聞こえ、人々は晴れ渡る空に似合わない、陰気な雰囲気にとらわれてしまっている。

 そこに、喪主のミセス・ファンヌが現れた。エトワールの棺の前に立ちうやうやしく礼をすると、皆の視線も自然とそちらに集まった。

「お集りの皆さま――後輩であるミス・エトワールの葬送の喪主を務めさせていただきます、ファンヌ・マチエールでございます。……葬送を執り行うのは、わが街に誇るミシェル・アンダーグラウンドです」

 そういうと、ファンヌは一歩下がりミシェルに場所を開けた。

「皆さま、ミス・エトワールの最後の舞台にお集りいただき、誠にありがとうございます。彼女に、俺からたくさんの思いを伝えたいと思いました。ミセス・ファンヌにも同じく、伝えました」

 そう、ミシェルがスピーチをしている後ろで、神父が二人がかりで大きな台をひとつ、ふたつと出してきた。

「彼女は生前、向日葵が好きだった。でもそれ以上に、向日葵のように笑う皆さまの姿が好きだった。だから、今度は――」

 ばさり、と。ふたつの台に掛けられていた白い、大きな布がはがされる。


 鮮やかな、色彩。


 赤い薔薇、金の向日葵、銀の白百合、桃色の金魚草、薄紫の勿忘草――

 色とりどりの花がたくさん、ふたつの台の上に広がっていた。

「今度は、彼女に花を、笑顔を贈ってお別れにしたいと、そう思います」

 ミシェルは、一本の花を手に取る。小ぶりの向日葵で、その茎に小さなタグがついていた。

 そのタグには『あなただけを見つめる』と書いてある。

「花に、言葉をこめて。笑顔と共に棺に詰めて、彼女と離別れましょう。これが、彼女に贈る、俺からの精一杯の葬送です」

 そうして、ある婦人は桃色のカーネーションを選んだ。

「ミス・エトワール。あなたを小さいころから見てきたわ。ちっちゃくて、元気で、素敵なあなたはとても愛おしかった。だから、私からはこの花を」

 その花言葉は『決して忘れない』、『母の愛』。そっと、棺に納める。

「ああ、エトワール! エトワール、エトワール! 悲しくてならない、僕は君を愛していた、ちっぽけな愛かもしれないけれど、確かに君を愛していたんだ!」

 そう言いながら、男性は『愛しています』のタグがついた、八重に咲く深紅の菊を棺に

納めた。

 何人もが、それをくりかえした。どんどんとふたつの台は空になっていって、エトワールの眠る棺が色彩で溢れていった。

「エトワール……静かに、眠って頂戴ね」

「また、必ず会いましょう。待っていてください」

 スターチスが、アイビーが。

「憎たらしいほど、美しかったわね、あなたは。私なんて、目に入っていないはずなのに、それでも優しくしてくれた。皮肉ね。でも、だからこそ、この花を」

 黄金色の薔薇が。

「夢で……夢でもいい。あなたのことを、信じて待っている。絶対に、再び会えることを」

 紫色のアネモネが。

 数々の花が、棺に納められた。その中で静かに眠るエトワールは、まるで花に護られた眠り姫のようだ。

「それでは、埋葬へ移ります。皆さま、こちらへ――おっと」


さぁ――――――


 風が、吹いた。つむじ風のような、誰かがくるりと踊ったかのような、そんな悪戯な風。

 それはほとんど空になっていたふたつの台から、花弁を舞い上げた。

「まぁ……」

「綺麗」

「ママ、きれい、エトワールの衣装みたい!」

「本当ね……」

 蒼い空に舞った色とりどりの花びらは、白い雲を飾りひらひらと踊る。

「……ミス・エトワールの最後の挨拶かもしれないわね」

 そう、ミシェルの隣にいたファンヌが口を開いた。

「あの子、意外と悪戯好きだったもの。今日も、びっくりさせようとしたんだわ」

「そうかも、しれませんね」

 ミシェルが、人々が空を見上げる。

 太陽に向かって穏やかな笑顔を作るその姿たちは、まるで向日葵のようだった。




【あなたを幸福にする――fin】

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