梨木吾郎 -堕ちる-
ドアノブを乱暴に捻り、体重を乗せるようにして男が入室してきた。擦れた茶色のコートが翻る。壮年の皺。シェブロン状の無精ひげ。清潔なシャツとネクタイ。懐の拳銃と警察手帳。
「ノック…」
白衣の若い女がそれを見とがめる。だが男の顔を見て、二の句を一度飲み込んだ。
「あら珍しい。特調さんがこんなところに何の御用?ノックどころかアポなしなのは相変わらずとして、誰にここを聞いたのかしらね。一応極秘の拠点なんだけど?」
女―――
「相変わらずキーキーうるさい女だ」
「わかった。舞ね。あの子から聞いたんでしょ。何杯奢ったの?」
「あの酒乱に酒なんてやらねえよ」
男は嵐の胸元を見やる。男を挑発するかのように開かれたシャツ越しに、豊満な左胸がかすかに輝いた。愚者の黄金。彼女の胸部に心臓はない。摘出され、代替として彼女自身の作品であるレネゲイド結晶が埋め込まれている。
「ケッ、お前も人間辞めちまったのか」
「不本意だけどね」
「ミイラ取りがミイラってな。化け物取りが―――ゥッ!」
男の憎まれ口を遮るように、自身の手が口をふさぐ。嵐がエフェクトを使用して男の顎に舌を噛ませようとする寸前のことだった。せき込む男の口から、押さえる指をすり抜けて鮮血が溢れ出た。
「肺癌だ」
「何年持つ?」
「さあな。健康にしてれば一年だそうだが」
「止める気ないのね」
煙草を取り出した男の手が不自然に止まる。
「禁煙よ。外で吸って」
「本格的に化け物になっちまったってわけだ」
嵐のエフェクトは、その気になれば男の一挙一動を支配できる。それでも嵐は男を追い出さず、取り出した煙草の紙箱を懐に押し戻すにとどめた。
「で?私別に弁護士じゃないし司法試験なんて受けるつもりもないんだけど」
「遺書なんて書くかよ。ましてお前に預けやしない」
「死ぬ前に大嫌いなオーヴァードに言い残したこと洗いざらいぶちまけておきたい?耳栓しておくから終わったら言って…」
「俺を化け物にしろ」
嵐は数秒、ポカンと口を開けた。
「R担ならともかく、特調さんがそんなこと言うとは思わなかったわ」
警視庁公安部、公安警察特殊犯罪調査室。通称、特調。
UGNとの“冷え込んだ”協力関係を持つ対レネゲイド機関。男はそこの刑事であり、特調の多分に漏れずUGNを嫌っている。そして、その構成員であり自身が追う特別な犯罪者、オーヴァードたちのこともまた、蛇蝎のごとく。
「いいの?特調でいじめられるでしょ」
「死ぬよりマシだ。辞めるつもりでもいる」
「娘さん高校生だっけ」
「金の心配はいらない。あいつは自分で稼いでるしな」
男はベッドの上で拘束され、天井を見つめていた。やがて、白衣を着た男が覗き込んでくる。分厚い眼鏡。隈で縁取られた目。柔和な、あるいは気弱そうな顔。
「
「ここで飲んだら窒息するな」
烏丸はビーカーに注いだインスタントコーヒーを揺らしながら書類を確認する。
「特調さんをオーヴァードにしたなんて外にばれたら
「さっさとやるわよ。記録とセキュリティは私がいじっておくから」
「そうしてくれ」
「と言っても、失敗すればあなた死ぬか、ジャームですからね。僕ジャームには対抗できませんから」
「私が責任もって殺すわ。死体は焼却しちゃえばいい」
「ここに来たってことが知れたら破綻するじゃないですか」
「じゃあこうしましょう。ジャームになったら死体の皮をはいであなたが被って適当に街をうろつき、適当な監視カメラに映ってから川に飛び込む。で死体も放り込む」
「発想が物騒すぎるんだよなぁ」
「痕跡は消してきた。あんたら以外にゃ俺の居所はわからない。心配いらないよ」
「ああそう」
「助かりますよ。自殺ほう助でしょっ引かれたら研究続けられないですから」
嵐の細い指が男の無精ひげに重なる。
「これは私らの間じゃ“堕ちる絶望”って呼ばれてる。抵抗しないで、受け入れて。といってもあなたの抵抗でどうにかなるものじゃないけれど」
指先から男の頭の中に、薄気味悪い、まるで薬物の禁断症状めいた何かが潜り込む。言葉が虫のようにその一画一画を使って這い上ってくる。
「エナヴェイト、もっとちょうだい!」
嵐自身も点滴チューブに繋がれている。使用者自身も高度な負荷を要するエフェクトなのだ。烏丸が点滴量を慎重に調整する。
「ウッ…アァ!!」
「さぁ人間の暮らしにさようならよ。ようこそ梨木警部。まあ化け物の生活も捨てたもんじゃないわ」
実験室内にレネゲイドが充満していく。
ビリビリと、男を拘束していた革のベルトが千切れていく。パツン、と音を立ててそれが破断する。男の両腕がシャツのボタンを千切り、自らの胸を貫く。肋骨の隙間に指先を潜らせる。嵐が制止する暇もなく、男は手を胸から引き出す。自らの肺の一部を握りしめながら。シュウシュウと音を立てて、傷口が塞がっていく。
「……気分はどう?腐った肺と、真っ当な人生を捨てた気分は」
「あぁ…生き返った、いや、生まれ直した気分だね。最低だ」
男―――
ビーカーに入ったコーヒーを固辞しながら。
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