水上遼と中之条香穂 -相違-

蝉の声がうるさい。以前はただの雑音でしかなかったが、今は聴覚を潰す強烈な騒音に感じる。いつか風情が勝る日が来るのか。そうは思えなかった。蝉は蝉だ。

水上みなかみりょうは黒いパーカーのフードをかぶり、可能な限り騒音を防いだ。ベンチに座り、俯いて感覚を研ぎ澄ませる。黒地の布が木漏れ日から熱を吸って汗が噴き出す。今年も変わらず夏が来る。陽射しの強さは警邏けいらを止める理由にはならない。ジャームやオーヴァードは天候や季節やその他雑多な理由を押しのけて現れる。そして喧嘩し、町を、人を踏み荒らす。

遼は自警団ティンダロスのメンバーであり、キュマイラシンドロームを発現したオーヴァードであった。オーヴァードたちの争いで家族と記憶を失い、血だまりの中で獣の爪を生やしている自分に気づいた。あの日から日常は変わった。快活だった(とクラスメイトや担任は言う)青年が不良の道に落ち、留年ギリギリの出席日数で日がな街をうろつきまわり、鋭い眼光を飛ばす。親の遺産を食いつぶし、自由気ままに生きている。実際は不労所得と資産運用を相続し、先細らないように努力しているのだが。

高校は出ておこうと思うが、そのあとの人生設計はほとんど白紙だった。自警団のリーダーに拾われてからはこの無謀な警邏にも計画性を持たせられるようになったが、いつまで連中が自分を飼ってくれるかなど誰にもわかることではない。ティンダロスの構成員の多くは非オーヴァードであり、連中はオーヴァードを、そして秘密主義のUGNを敵視している。

UGN。ユニバーサルガーディアンズネットワーク。正体不明の秘密結社。遼を目覚めさせてしまったあの抗争の、片棒を担いでいた連中。憎んではいない。憎悪の柱となるべき、死んだ家族の記憶がないからだ。そうだ。自分には何もない。身に余る力と金だけがぽつんを手の中にある。普通の人間は狂喜するのかもしれない。だが遼は持て余した。そしてそれを誰かのために使うことにした。やがれそれも使い切れば、本当に何も―――


高速で接近する小さな円筒形金属をノールックで受け止める。炭酸飲料。しかも強め。投げる奴があるか。

「なーいすきゃーっち」

悪態をつく気力も陽射が奪う。

「そんなかっこでぼーっと座ってたら干からびるぞミナリョー」

「るっせぇ」

中之条なかのじょう香穂かほが自分の缶ジュースを景気よく煽りながら近寄り、遼の隣にどかっと腰を下ろす。高校の制服を着崩してアレンジした服装。ボリュームのある長髪を膨らんだポニーテールにし、スマホを熱心にいじっている。同学年の女だ。

「暇なのか」

「いや、忙しいから本体だけ抜け出してきた」

受け取った炭酸の缶をできるだけ慎重に開ける。幸いにしてあふれ出ることなく、冷たい刺激物を口内に押し込む。目の奥がすうっと醒めていくようだ。

「便利だな」

香穂は体から発するレネゲイトの霧を操作し、複数人の幻影を具現化、操作できる。自分の仕事を自動化し、本人はスマホでゲームをやっているのが常らしい。

らしい、というのはその現場を見たことがないからだ。香穂はUGNでこの地区の支部長をやっている。謎めいた組織の謎めいた中間管理職だ。


「見回りご苦労様。ほんとは私らがやれればいいんだけどね」

「UGN様は何かと忙しいんだろ?下々の連中にやらせとけばいいんだよ」

「そういういい方はよくないと思うな。ミナリョーにはめっちゃ感謝してるんだよ」

「ティンダロスには?」

「ま、仲良くできたらいいよね」

ティンダロスとUGNの隔絶は根深い。そもそもUGNの内情を深く知る方法がないからだ。ティンダロスは独力でジャームから人々を護ろうとし、UGNはその遥か高みから別次元で人々を護ろうとしている。それも遼が香穂から断片的に得た情報だ。個人的コネがなければ、遼はそのような概要すら知りえなかった。

「ジャームが出たらミナリョーがあっという間に潰してくれる。立場は違えどすげー助かるんだって」

「お前の仕事が減るからだろ?」

「あたり」

「なら、空いた手で俺にできないことやっとけよ」

「えー」

「しばくぞ」

「ミナリョーにしばかれたら冗談じゃすまないからさァ」

蝉の声が一瞬、止んだ。


遼が立ち上がる。

「匂う」

「やだ、現役女子高生の汗のにおいだぞ。金取っていいレベルの」

「もう行くぞ」

遼は香穂の冗談を聞き流し、全感覚を鋭敏に尖らせた。気配を感じ取った。ジャームかはわからないが、不穏な第六感だ。

「あ、ミナリョー、ごめん、本題だけ伝えさせて」

「最初に言え」

「悪かったって。連絡先教えて。ちょっと思いついたことがあってさ」

「端的に」

空のアルミ缶を放り投げる。キュマイラの怪力により粘った空気を押しのけて缶はゴミ箱へ突き刺さった。

「あのときの生き残りのみんなで互助会作ろうって思ったの」

「お前にしちゃ悪くねえ話だ」

「でしょ。それでミナリョーに幹事とかやってもらいたくてさ」

「言い出しっぺがやれよ」

「ジュースの分」

遼は鼻白みつつ歩き出した。

「俺の家は知ってるんだろ?直接来い」

「やだー家に誘うなんてー」

遼はもはや反応しなかった。


数分して、ワーディングの気配。UGNのエージェントが到着するまでに遼が問題の根源を潰すだろう。


香穂はスマホに目を落とした。

香穂、遼、そして数名の、所属や立場の違うオーヴァード数名。

共通点は、一年前、爆発事故があったショッピングモールにいた生き残り。

爆発事故。UGNがよく使うカバーストーリーだ。そこにはオーヴァードがいて、別のオーヴァードと戦って、一般市民が巻き添えを食らった。

そうして香穂の妹や、遼の家族や、たくさんの人が命を落として、そして幾人かが目覚めてしまった。

香穂はあの日を忘れない。UGNが、FHが、すべてを薙ぎ払ったあの日を。それでも香穂はUGNの支部長であり続ける。誰かがやらなきゃいけない役目だから。妹の死をコラテラルダメージにしてしまった方が気楽だから。憎悪でUGNに歯向かっても、即座に駆除されるだけだから。

こんな自分が提案してもみんな素直に乗ってはくれないだろう。遼が適任なのだ。面倒見がよくて自立している。遼ならきっとみんな繋がってくれる。私たちは遺された。けれど孤独じゃない。そう感じさせてくれる。


「私が世界守っとくから、皆を守るのは任せたぞ」

届かない。届けるつもりもないつぶやきは蝉しぐれに消されていく。

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