3.混濁
嵐は振り返り、眉をひそめた。
ぼんやりとした霧の向こう側に、ここまでやってきた経路、石段、眼下の街並みがかろうじて見える。だがその手前に見えるべき同行者たちが視認できない。気配すら。
踵を返し、一度霧から頭を出す。クリアな視界に惰眠を貪る安らかな街並みが見える。半身を出し、霧の中を覗き見る。いる。三人が霧の中にいる。だが、霧の中に戻った瞬間、その視界、いや、五感から三人を感じ取れなくなる。嵐は急ぎ、完全に霧の中から這い出ると、大声で呼びかけた。
「止まって!振り向きなさい!」
しかし、三者はすでにその声を感知することもできず、霧の中へ進んでいく。霧の中は多層空間となっていて、四人はそれぞれが別の層へ入り込んだ。嵐はそう仮定し、考えた。応援を呼ぶ?何人?そのすべてが別の層に囚われたなら被害はいやますばかりだ。
考えろ。果子はこれを認知し、嵐らに応援を求めた。行方不明者が出たという情報もない。危険性は薄い?そして果子が言っていた、嵐の現状を打破する鍵になる可能性。果子は何を知っていた?何を感じ取っていた?
霧の中で果子が振り向いた。しばし沈思黙考し、嵐と同じ結論にたどり着いたようだ。嵐が声を発する前に、果子は手招きし、霧の中へ消えていく。
「危険はない、って?どんな保証があるっていうのよ」
嵐はふぅ、とため息を境内に残し、一歩踏み出した。
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「手を放さないで」
梟は千佐希の手をしっかりと握りしめ、眼前の白昼夢を歩み続けた。やがて本殿が見えてくるはずだ。梟は以前ここを訪れた際の記憶をたどり、足元の砂利と記憶の地図を示し合わせる。
「恐ろしく濃い霧だ。どこまで広がっているのかわからないけど、足元には十分注意して―――」
心細くなるばかりの心を奮い立たせるべく、勇気を分けてほしくて、握り返してきた手の先、千佐希の顔を見ようとした梟は凍り付く。
「千佐希…?」
それは広藤千佐希なのだろうか?いや、間違いない、彼は千佐希だ。間違いない。梟は自分に言い聞かせる。その顔は波打ち、渦巻き、曖昧な輪郭を霧に溶かしていた。違う、千佐希の顔はこんな顔じゃない。
思い出せ。千佐希の顔を。記憶を手繰ると、目の前の歪んだ人相がそれを反映して静まり、ざわめきながら人の顔をなしていく。まるで水面に移った顔へ石を投げ込んだような、内心の反映か。梟は跳ね上がる鼓動と細く狭くなる気管を押して呼吸を整える。落ち着いて、千佐希の顔を思い出し、投影する。
「千佐希、答えて、千佐希」
千佐希の顔は一定の形にとどまることなく、ゆがみ、揺蕩い、微笑みかけてくる。梟の手を両手でやさしく包み、くいと軽く引っ張る。
梟は愕然として立ち尽くした。千佐希の顔がわからないのだ。まるで頭の中の一部が抜き取られたかのように、本来そこにあるべき顔が思い出せない。千佐希の顔が、声が、霧に溶けて行ってしまったかのように。
「千佐希」
震える声で自身を引く両手にもう一つの手を重ねる。
千佐希と、そう呼んでいた。そんな名前だったか?疑念が背筋を登っていく。大切な人だったか?味方か?梟が何度も死に、生き返った元凶だぞ?梟から安らかな死を奪った男だぞ?
悪魔のささやきが聞こえる。本当に耳元で囁かれているかのようだ。だがそれは梟の内心から聞こえてくる。恐ろしい。自分がこんなことを考えていると信じたくなかった。だって自分は、■■■に助けられて、大切に思っているのだから。
「■■■」
頼むから。強く祈る。
「声を聞かせて、顔を見せて」
膝をつき、縋り付く。
「名前を、呼んで。呼ばせて」
名前を呼んでどうするのか。
「■■■の声が聞きたい」
声を聞いて何になるのか。
「私を一人にしないで」
嘆かわしい。お前は見積の
「私は…」
梟は縋り付いていた男の顔を仰ぎ見る。
皺の刻まれた、厳格な顔。無精子症と診断され、見積の後継者をはぐくむことができなかった老人。見積梟の戸籍上の父親。見積
「夢を見るのはもうやめるのだ。お前の双肩には私たちの未来がかかっている」
立て。一人歩め。見積の男として後継せよ。自分の中からそんな声が聞こえてくる。
「梟、頼む」
低く、いかめしく、そして冷たく、優しい声だ。
梟は顧みる。自分は彼をどう思っていたかと。間違いなく尊敬していた。水術の行使において里で彼に抜きんでる者はおらず、智者として里長を支え、UGNとの接触においてもブレインとして暗躍した。
だが彼に子はおらず、すなわち親としては未熟であると、子として感じていた。因習と責務に縛られ、子を歪めたと、冷静に分析する。ここまで自分と父を客観視したのは初めてで、己がそんなことを分析していることに意外さを感じてもいた。
かつては
「私は、女です」
ああ、するりと言えてしまうのか、なんて親不孝なのだろう。
「私は、見積の家に引き取られた
「私は、千佐希が好きです」
「私は、あなたの思う男子にはなれません」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい…」
「ごめんなさい………!」
内心の叱責と、何も言わず見下ろす父と、ぽろぽろあふれてくる涙と、冷たい砂利の感覚。打ちひしがれて忘我のまま彷徨う梟の首根っこを、しなやかな細い五指がつかみ上げた。
「何してんの。千佐希ちゃんと眠木支部長探すわよ」
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