羊頭の詩
1話:月を起こして
何がどうして、こうなったのだろうか。
星の無い曇りの夜空の中。
街灯が世界を照らし、闇に包まれる街の一部を、僅かに黄色く染める頃。
平野から来る強い風と、夜の静寂を切り裂きながら。
私、バムク・ミオチェは街を走り回っていた。
警鐘と笛、それから固く丈夫な軍靴の音が、街中に響き渡る。
松脂を燃やす、独特の匂いが強くなって来た。
私は走る。
大通りに憲兵の姿を認めれば、暗い路地を。
その先にヒトの匂いがすれば、壁を駆けあがり屋根の上を。
兵士が私を灯を投げつければ、ヒトの多い大通りを。
「いたぞ! こっちだ!」
本日何度目か分からない台詞を聞き流して、私は駆ける。
先刻と比べて、どんどんと追手が増えている。
追跡を振り切るのに、何人かブチのめしたのだが、それが彼らの怒りの火に油を注いだ様だ。
汗が毛皮を湿らせて、束を作る。
いくらなんでも、これだけ長い時間走り続けていると、疲れも溜まってくる。
よく効く私の鼻が、自分の汗臭さで曲がりそうだ。
一息ついたら、水浴びをしなければ。
水に浸かるのは嫌いだが、この際仕方がない。
水浴びの後には、豆の汁物をたらふくかきこもう。
いっぱい塩を放り込んで、辛く煮たモノを。
そんな事を考えていたせいで、集中力を欠いていた様だ。
ゴミが散らばった、貧民窟の迷路の様な路地。
その中に数多ある、袋小路へと迷い込んでしまった。
目の前には見えるのは、さび付いた排管と大きな壁だ。
横幅はヒト一人半といったところで、すれ違うのも難しそうな程の路地。
散らばったガラクタのせいで、それすらも難しいかもしれない。
「ハァ……、ハァ……。追い、詰めたぞ……」
背の低い若い憲兵が、私の背後に立った。
彼は糊の効いた、青と白を基調とした軍服を着ていて、背中には長銃を携えている。
その姿は、晴れの場に出た子供。という表現が適切だろう。
服に着られているという言葉がふさわしい位、その恰好は幼げな容姿に合っていない。
暗い青に染まった夜の影の中でも、彼の細やかな金髪はハッキリと見えた。
憲兵はぜぇぜぇと息を切らし、体を大きく上下させていた。
私のモノとは違う、甘い果実に似た濃い汗の匂いが漂ってくる。
人間の身で
遠く離れたところから、野太い兵士たちの声が聞こえてくる。
彼は大きく息を吸い、同じだけの時間をかけて吐く。
そうやって呼吸を整えてから、憲兵は低くなり始めの独特な声調で、言葉を続ける。
「いい加減にしろ、ミグドピア。もう逃がさないぞ」
「……」
すっかり顔馴染みになってしまった少年が、私を呼んだ。
苛立ちが、心の奥から湧き上がってくる。
一度目は、許してやる事にした。
彼は革張りの軍靴を鳴らし、一歩ずつゆっくりと近づいきて、言葉を続けた。
「ミグドピア……。さっきのは許してやる。だから……」
二度目。
「……じゃない」
「は?」
私の心は神の子の様に、広くはないのだ。
「アタシの名前はバムクだっ! 何度も言わせるなっ!」
「ぐぉっ!?」
兵士が、吹き飛んだ。
暗い路地裏を抜け、物乞いが座り込む汚い大通りへと。
彼はそのまま、廃材で組まれた小屋の壁にぶち当たる。
金属的な高く乾いた響きが鳴る。
遅れて路地に捨て置かれた雑多なゴミが、ガラガラと音を立てて崩れていった。
ほんの僅かに差し込んだ月光が、舞った埃を映し出す。
埃に混じって、黒い羽の意匠が私の首元から姿を現す。
蒼白色の薄い煙の中、兵士たちのざわめきが聞こえてくる。
すっかりボサボサになった私の尾。
それを掴みかけた兵士に、後ろ蹴りをかましてやったのだ。
「うお!? なんだ急に……。ってトロッツ!?」
「おい! しっかりしろ!」
低いざわめきが近づいてきた。
松明や
あまりよろしくない状況だ。
私は傍にあったボロボロの棚を手にかけ、それを引き倒す。
先程と同じ様に埃をあげて、道が塞がれる。
それを幾度か繰り返してから、私は目の前の壁へと向かった。
「おい! いたぞ!」
「待て!
不名誉なあだ名に、怒鳴り返してしまいそうになる。
なんとか声を無視して、今にも折れそうな排管を上る。
銅か何かで出来た、赤土に似た色のそれは所々に穴が開いていて、酸っぱい錆の匂いがした。
腕に力を入れて体を持ち上げるたびに、ギシギシと危なげな音が鳴る。
今にも折れそうなそれに、必死にしがみついた。
声は厚みを増し、下を見る事すら躊躇ってしまう。
私や私達の目は、宵闇の中でも明確にモノを見てしまうから。
少しずつ慎重に手足を動かし、なんとか排管を登り切った。
そして今日何度もやった様に、屋根の上を走って、幾度も跳ねる。
何がどうして、こうなったのだろう。
これも全て、数週間前の出来事が原因だろう。
すっかりツキに見放された自分の運命を呪うしかない。
私はもう一度そんな事を思いながら、夜の帳の中を跳び回った。
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「……何だって?」
「だから、お前はクビだと、そう言ったんだよバムク」
新大陸東にある港街、カイハイグ。
東向きに突き出した半島の、更に東の果て。
大きな港と、穏やかな大河を領有しているこの町は、正しく新大陸の入口だ。
そんな地で、私は呆然と立ち尽くす。
高い秋の空、双つの太陽が燦々と街の大部分を照らしている。
だがその日の光は、ここには届かない。
濃く黒々とした影に覆われた、この路地裏には。
錆びた、薄い金属の天井。
穴からは日の光が直線状に覗いていて、汚れた空気を僅かに清らかなモノにする。
上を見れば、黄ばんだ作業着が所狭しと干されていた。
あちこちにある排気管から蒸気が上がり、その煙が洗濯物を煽る。
これではいつまで経っても乾くことは無いだろう。
この大陸へと渡って来てから、早数年。
私は、死刑宣告にも近いソレを聞かされていた。
「ど、どうして!? アタシはちゃんと……」
「お前はな、やりすぎなんだよ」
雑然とした貧民窟と、やせ細ったヒトビト。
彼らはボロボロの擦り切れた服を着ていて、体も垢と泥に塗れていた。
目の前には一つの座椅子。
その両隣に、汚い身なりの男達が立っている。
彼らだけでなく、この部屋全体を囲む様に、同じ様な格好をした男達が居た。
とは言っても、同じなのは身に着けた服の品位くらいのモノだ。
彼らの種は様々で、私と同じ
椅子には肥え太った男が座り込んでいて、彼だけは高級感のある外套を羽織っていた。
脂肪に包まれた男は、整えられた口ひげを指で弄びながらも、その目は鋭い。
瞳の在り方から、一種の威厳まで感じた。
この場所に似つかわしくない、その男が言葉を続ける。
「俺は言ったハズだぞ。踊るのは、こっちが指定したヤツとだけにしろってな」
「で、でもさダン。アイツらは……」
そう私が言いかけた時、豚に似た男は鷹揚に手を挙げてそれを遮る。
自慢の尾が、しゅんと下を向いた。
「これで忠告は何度目だ? 十回から先は数えてないが」
「うっ……」
「俺の息のかかった連中ばっかりじゃないんだ。お前のために、俺がどれだけ労を割いてやったと思ってる?」
彼はそう言うと、深くため息をついた。
突き出た腹が一度大きく膨らんでから、同じだけ凹む。
額から汗が一条、たらりと垂れる。
叱られた子供の様に、目を伏せてしまった。
尾と同じ様に背を丸め、傍から見れば酷く情けない姿だろう。
いつの間にか、窪んだ眼をした男が私の隣にいた。
それに驚く間もなく、『乞食の王』ダン・ガムディは話を続ける。
「だからもう一度だけ言ってやる。お前はクビだ、バムク。とっととこの盗賊組合《
ギルド》から出て行け」
一人の男が、毛皮に包まれた私を担ぎ上げた。
私は高くなった視点も気にせず、彼に慈悲を乞う。
「ま、待ってよダン! もう一度、もう一度だけ機会を……」
「連れて行け」
にべもなく彼がそう言うと、私を肩に抱えた男が歩き始めた。
湿気に満ちた空気の中、扉の向こうへと運ばれるのだろう。
「お、おい! ニンディニル! 同じ
私を担いだ、熊の様な頭と固い毛皮に包まれた男に呼びかける。
だが彼は、一切口を開かない。
「ゾニール! お前あの時飯を奢ってやったじゃん!? だから……」
ダンの傍に侍ったくすんだ茶色い頭髪の男。
彼はやせ細ったその姿に似合わない程の眼光で、私を睨め付ける。
皆私が暴れるのを警戒しているのか、それぞれが持ちやすそうな廃材を手に、こちらを見据えていた。
もう、ここに味方はいない。
彼らの目に宿る
私を抱えた男、ニンディニルはそんな私の絶望も気にせず、重い石の扉を開ける。
重厚なその音は、今の心情にぴたりと嵌る。
「さようなら、バムク。達者でな」
「痛ッ!?」
ダンがそう言葉を紡ぐのを聞きながら、私は外へと放り出された。
固い地面と抱擁を果たすと同時に、無慈悲に扉は閉まる。
空き家に偽装した、あえて汚れをそのままにした扉。
それが
「ね、ねえマジで言ってるの!?」
私は両手を扉に叩きつける。
何度叩いても、扉は何の文句も言わない。
蹴りをかましてみるも、その態度は変わらなかった。
ガチャガチャと取っ手を回してみたが、結果は同じだ。
本気を出せば蹴り破れるかもしれないが、そんな事をすればこの貧民窟では生きていけないだろう。
それをよく分かっていたから、私は扉の前で
眼から水が流れそうだ。
一瞬、恥の感情が湧き立つが、結局は悲しみの方が勝った。
どうせ、こんな薄汚い路地の奥に来るヒトなんてそうそういないのだから。
「ぅっ……うぅ……」
こんな酷い事があってよいモノだろうか。
財布をちょろまかした相手が、高官だなんて知らなかったのだ。
確かに似た様な事を何度かやったが、ダンは友人だ。許してくれても良いと思う。
涙が洪水の様に、ドンドンと溢れてくる。
我ながら非常に手前勝手な事を考えていると、ある事を思いついた。
ここでメソメソと泣き続けていたら、許してくれるかも。
そんな計算を頭の中で組み立てる。
もし失敗しても、誰かしらが今日の宿位は提供してくれるかもしれない。
「ウ……ウゥ……うわああああん!!」
いっそ大声で泣き喚いてやろう。
決めてからは早いモノで、自分で思ったよりも大きな声が出た。
これは一種の勝負だ。
どちらが先に根負けするかどうかの。
「うわああぁぁん!」
真上から照らす太陽が落ちて、西から光を運び始めても、勝負は続いていた。
「うあ゛ああ゛ああ」
その光が消え、月達が顔を覗かせても、戦いは終わらない。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
そうやって数刻の間、遠吠えの様に泣き続けた結果。
私は負けた。
「ウオん……ゲホッ! ア゛オォオ゛ン……ゲホッ! ゲホッ!」
喉が灼ける様に痛い。
こんなの、珍しい赤い実を盗み食いして以来だ。
その値段の高さから、さぞ美味い食い物なのだろうと踏んで、酷い目にあったのを思い出す。
ささくれ立った心に似た、毛に覆われた私の耳は市民の生活音を捉えている。
だがそれは遠くの大通りからのモノ。
私の哭き声が消えた路地は、痛い位の静けさに包まれている。
だが、いくらなんでもおかしい。
これだけの時間大声で喚いていれば、誰かしらが見に来るだろうに。
私がここに居る間、ヒトっ子一人近づいてこなかった。
となると、理由は一つしかない。
「あ、あの豚ぁ!!」
私がこの街にやってきてすぐからだから、ダンとはもう数年の付き合いになる。
彼は私がこういう手段を取る事を、予想していたのだろう。
事前に、この辺りを縄張りにしている者達に通告した上で。
「あぁクソクソクソ! 禿げ豚っ! 死ね守銭奴!」
いくら喚いても、先程と同じ様に何の反応もない。
荒い息が、揃った牙の隙間から流れていく。
これでは幾らやっても無駄だろう。
頭を振って、努めて冷静さを取り戻す。
怒りの炎はこの程度では消えなかったが、それでもやらないよりはマシだ。
事ここに至っては仕方がない。
気を取り直して、自分の頬を叩く。
パンという音と共に、熱のある痛みが来た。
「ふぅ……」
とりあえず、気を取り直して今後を考える。
食べ物はいつもその日に適当に見繕うし、住処にしていた場所はこの扉の先だ。
だからまずは、寝る所と食べるモノを探さなければ。
そうして、手を付いて立ち上がろうとした時、
「何をしている?」
声が、聞こえた。
その声は喉仏が出始めた頃の、高さと低さが混じり合ったモノ。
驚いてそちらに目をやると、金髪碧眼の少年が立っていた。
触り心地の悪そうな青い外套と、白い麻の肌着。
それらに身を包み、手には長い銃を持っている。
それらを目に映してから、彼が兵士であることが分かった。
固い服に少し動き辛そうにしているから、きっと訓練を上がったばかりの新兵だ。
新しい服特有の、お香の匂いを漂わせながら、彼がこちらへと歩いてくる。
「そこの
声は真剣そのもので、表情は険しいモノだったが、愛らしいとも言えるその顔貌では迫力がない。
黒い鉄がはめ込まれた軍靴が、小気味よい音を立てた。
固まっている間に、少年は
「あ、ちょちょっと待って!」
私は後ずさって彼から距離を取った。
少年は見たところ、
顔を照らされるのだけは避けたい。
「……おい、何故逃げる」
「え、あー……」
「……怪しいなお前。こちらへ来てもら……」
私は彼が言い切るのを待たず、全力で駆けだした。
走りながら振り返ると、彼が呆然としているのが見える。
「ま、待て! 待たないか!」
「……フッ、スゥー、フッ、フッ」
彼の制止を無視して、呼吸を調節する。
一種の律を刻む息が、私の体に力を与える。
全身に、魔力が行き渡る感覚が伝わってきた。
私が脚を回す度、太ももの筋肉が少しずつ膨隆し始める。
そしてそれがはち切れんばかりの大きさになった頃。
音が僅かに遅れて聞こえる程の速さで、私は走っていた。
どんどんと距離が開いていく。
この辺りは正しく、私の庭だ。
上品な雰囲気が抜けない、坊ちゃんなどに遅れは取らない。
どこをどう通れば、どの道に出るのか。
その全てを私は把握していた。
空き家は道に。
汚れた路地は身を隠す影へ。
ボロ小屋の天井は、自分の寝台と同じだ。
勝手知ったる街の中を、私は巡る。
そうして半刻、一刻と時間は周り、数刻が経った。
月は地平線へと向かい、あと少しで東が白み始める。
そこで初めて、あることに気が付いた。
「ぜぇ……ぜぇ……ウッ……」
何かがおかしい。
私の眼に捉えられない位の距離を離しても、一息ついている間に、彼の瑞々しい匂いが濃くなってくる。
随分と走ったから、私の体力も尽きかけだ。
汗が、体を覆う布切れを重くする。
両手を膝について、大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
自分の口内に香ばしい匂いが立ち込め、胃がひっくり返りかけた。
そうして吐き気と格闘していると、後ろから声をかけられた。
「ハァ……ハァ……やっと、追い、ついたぞ……」
嫌な予感と共に後ろを振り返ると、先程の少年がいた。
息を切らし、滝の様に汗を流しながら、それでも彼はついてきたのだ。
「お、まえ……どうや、って……」
「知恵と、たゆまぬ、訓練の、お陰だ」
馬鹿真面目に、彼はそう答える。
根性と努力で、種族の差を埋めたのだと。
呆れて見ていると、彼は私よりも早く息を整え始めた。
阿呆丸出しだが、嘘は言っていない様だ。
「しかし、やるね、軍人さん。フツー、怪しいって、だけで、ここまで、する?」
荒れる呼吸の中、それだけを絞り出す。
始め、侮ってしまった事を心の中で小さく詫びた。
私の称賛に近い言葉に彼は、
「何、『太陽の王国』軍人として、当然の、務めだ」
照れるわけでもなく、驕るわけでもなく。
彼はすえた空気の中、微笑みと共に、言い淀む事もなくそう言ってのけた。
手に持つ
その顔は歳不相応に凛々しく、歳相応に可憐だった。
つい、見とれてしまったのかもしれない。
彼が数歩距離を詰めた事に、反応が遅れた。
「とりあえず、詰所まで来てもらうぞ。話はそこで……!?」
「……あ」
深夜の影を、早朝の光が破る頃。
穏やかな熱が、私の顔を照らした。
ほんの一瞬だけ、時が止まる。
「お前、
「せいやぁっ!!」
反射的に、彼の胴体に拳を叩きこんだ。
鳩尾を捉えた一撃を受けて、少年は音もなく崩れ落ちる。
当たり前だが、盗賊組合は非合法な組織である。
組合を統べる『乞食の王』ダン・ガムディの手によって、半ば公然の存在になっているとはいえ、大っぴらに声に出してよいモノではない。
更に私は、既にその庇護すらない。
残ったのは、悪名と罪業、それから街中に広まった手配書。
言うなれば、ただの有名なこそ泥である。
「あー……どうしよ、コレ……」
白い泡を吹きながら倒れている少年を見て、私はつい独り言ちる。
こうして、私の運命は狂い始めた。
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