獣の詩。それと無垢と経験についての考察
OkabeHK (校閲:花鶏イトヨ)
始まりの詩
1話:どんな名前が良いだろう
何がどうして、こうなったのだろうか。
双つの太陽が地平線の先に消え、三つ子の月が夜空を遊びまわる頃。
粗末な吹きさらしの馬車の上。
海から吹く冷たい風に煽られながら、私、サイ・ツイードは自由の利かない両手で頭を抱えていた。
ガラガラとした音が重なり、木の葉に似た私の耳に届く。
私達の重みを頼りない四つの車輪が、ならした地面に薄く轍を作っていた。
「ンなに悩ンでも仕方ねえさ。なる様になるだけよな」
目の前の、年若い、まるで
甚だ場違いな格好をした、赤髪の少年がそう呟いた。
少年は、自由の利かない両手を胸にやり、可憐な仕草で言葉を続ける。
「祈ってンのか悩ンでンのかわかンねえな。その恰好じゃ」
御者を除いた馬車に揺られる全員が、両手をキツく縄で縛られている。
太く固いそれは安物のようで、手首のチクチクとした感触が気に障って仕方がない。
少し腕に力を入れてみるが、繊維の伸びる音がしただけだった。
ここにいるヒトの中で、私だけが
何重にも重ねられたこの布のせいで、愚痴を吐くこともできない。
唾液が口の端から流れ、顎を濡らすのがなんとも不快だ。
僅かに粘り気をもったそれは顎先から垂れて、私の白い服に灰色の点を作った。
「まぁ、ンなンじゃ祈りもできねえか。ついでにアンタらお得意の魔術もな」
皮肉気に言う彼の表情は、顔の下半分を覆う深緑の布に隠されている。
向こう側が透けそうな位薄いそれは、地面の凹凸に合わせて揺れ動いていた。
それでも、彼が嫌らしい笑顔をしているのは想像がついた。
よくも眉と眼だけで、ヒトを馬鹿にする表情を作れるものだと感心する。
自分の顔が険しく皺を作るのが、鏡を見なくてもよく分かった。
苛立ちを隠すために、下を向いて誤魔化す。
名も知らない周りの人達は、目を固く瞑って眉間に大きな刻みをつけていた。
不安や恐怖、絶望に支配されたヒトは、皆同じ顔をするものだ。
そんな中、目前の少年だけは飄々とした有り様で、鼻歌まで歌っている。
「あぁああぁあぁ! 俺はトウモロコシを三つか四つパクっただけだぞ!?こんなことで死刑なんてバカげてる!」
一人の人相の悪い、不健康そうな男が突然叫んだ。
御者は我関せずとでも言う様に、一切の反応をしない。
本当に、本当にバカげている。
私は再度、何故こうなってしまったのだろうと、そう遠くない過去を思い浮かべた。
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私は海が嫌いだ。
一昨日の、空よりも青い穏やかな水平線は確かに美しいと思った。
昨日見た、三つ子の月がうっすらと見える赤色の蒼海は、恋人たちにとって忘れられない風景になる事だろう。
今頭上に誇らしげに輝く双子の太陽の下、忙しなく動く周りの水夫達は元気よく働いている。
だが、海とは眺めるものである。
白く波立つ海面の下。
そこにはどんな化け物が潜んでいるのか分かったものではない。
直接入らなくても、近くにいるだけで体がべたついてくるし、離れても塩がパラパラとうざったい事この上ない。
何より、波に揺れる中、船に乗るなんて以ての外だ。
海の機嫌一つに自身の体を預けるなんて、正気の沙汰とは思えない。
今この瞬間も、悪戯する少年を思わせる動きで、私の体を揺らしている。
何度も何度も上下左右に振られれば、どんな強靭な肉体であっても耐えることはできないだろう。
つまり私は今、猛烈に酔っていた。
片手で口を抑え、湿った木板を踏んで甲板を歩く。
猛烈な吐き気に襲われて、固い甲板の端に手をかけながら、海面に顔を向けた。
水を弾く音と共に、大きな魚が見物客の様に頭を出しているのが目に入った。
大陸から来る海流に逆らいながら、そう見えない位にゆったりと余裕気に泳いでいる。
「うお゛えぇえぇぇぇ……」
うら若き乙女には相応しくないあえぎ方。
淑女たれとうるさい母が見たらなんと言うだろうか。
今や故郷は水平線のはるか向こう。
母の得意技である、理知的で反論の余地のない説教を思い返す。
それに顔をしかめる間もなく、今日何度目かわからない吐き気に襲われる。
近くで談笑していた乗客達の目線が痛い。
何故彼らは平気なのだろうか。
先程まで彼らは、遠くに見え始めた陸を前にして、真昼間から祝いの酒宴をしていたハズだ。
他人に不幸な目にあって欲しいとは思わないが、自分だけが辛いのもまた、釈然としない。
ヒトの生理と、オトメの矜持。
両者が胃袋を戦場に、熾烈な争いを繰り広げる最中、
「大丈夫かい、嬢ちゃん」
見るからに屈強そうな水夫が話しかけてきた。
色黒で筋肉質な体つき。
頭を覆う赤色の布が、風に吹かれて揺らめいている。
彼は乱雑に髭を生やしていて、どこか野性的なな雰囲気を漂わせていた。
よく見ると、ロープの束を持つその手は、指がいくつか欠けている。
「慣れてないと船はキツいだろう。特にコリアム船は細長でかなり揺れるからな」
彼の言う通り、この船は酷く揺れる。
なんでも最新鋭の高速船だそうで、今までであれば一月はかかる航路を十日程で進めると、乗船前に説明された覚えがある。
その代償がこの凶悪な揺れなのだと知っていれば、絶対に乗らなかったが。
色黒の水夫は、抱えていたロープを甲板に、腰を茶けた樽の上に下ろす。
そのまま私の背中に手を置いて、ゆっくりとさすりはじめた。
私の体を覆う白の外套が、彼の手に合わせて皺を伸ばす。
背中の感触に気を取られ、強い潮の香りが薄くなった気がした。
そのおかげか、ほんの少し気分が良くなった。
「……ありがとう」
礼を言うと、彼は気持ちの良い笑顔を返してくれた。
その笑顔の隙間から、ちらりと覗く歯のいくつかは欠けている。
歯抜けは、船乗りとして経験を積んでいる証左だ。
「でも、僕は嬢ちゃんじゃないよ。きっと、君よりもずっと年上さ」
一つ、そう訂正する。
私が彼と同じ種だったなら、私はお婆ちゃんと言って良いだろう。
彼は私の言葉を聞いて、肩を竦めた。
「実際の歳なんて関係ないさ。
中々立派な志である。
そう言いながらも、彼は私の背から手を離さない。
下心に満ちた獣の様な眼差しを隠せていれば、惚れていたかもしれない。
残念ながらその台詞は、野性味あふれる外見には全く似つかわしくなかったが。
「……僕の半分も生きてないだろうに、良い心がけだね」
「そりゃどうも」
「ただ口説く時には、異性の体に触れない方がいい」
「おおっと、こりゃ失礼」
彼は空き歯から空気を漏らしながら、私の背から手を離した。
樹皮を思わせる固い手の平の感触が消え、潮の香りが強くなる。
べたつく空気の中、紛れていた吐き気が息を吹き返した。
胃の辺りに刺す様な痛みが襲う。
「う、えぇ……」
他人が居るからだろうか、先程よりも気持ちお淑やかなえずきが口から出てきた。
これからは、吐き気が酷い時は誰かを傍に置いておこう。
そうすれば、母に叱られずに済むだろうから。
「嬢ちゃん、ホントに大丈夫かよ。部屋まで運んでやろうか?」
「遠慮する」
自分で考えたよりも、ずっと低い声が出た。
正直、かなり余裕がない。
新緑の様な自慢の髪が、枯れ木の様になっていないか心配になる。
「ホントに辛そうだな。誰か若いの呼んでくるか? ってあー、サブムは
私はそれに目で答える。
この手の男は言ったところで引かないのだ。
もう、口に出して答えるのすら億劫だった。
「最近じゃ革命の影響で、あっちにこっちで大忙しでな。海賊も多いし、中々気も抜けないんだ。この一年で陸に上がったのなんて一月もないんじゃねえかな」
それは大変なことだ。
私の胃の中も大変なことになっているが。
「どこも戦争やら独立やらで忙しい。俺らだけじゃないのは分かってるんだがな。どっちの大陸もゴタゴタしてやがる」
船が一度、大きく揺れる。
木に波が叩きつけられる音が響き、客の驚いた声が、その中から微かに聞こえた。
どうやら風が強くなってきたようだ。
三本マストに張られた大きな帆が、先ほどよりも膨らみ、船の速度を上げる。
縄梯子を上っていた水夫が風に煽られ、縄索ごと体を揺らす。
僅かに見えるその表情からは一切の恐れや狼狽えは感じ取れず、陸に上がれない彼らはなるほど、熟達した職人たちなのだと思わせられた。
見上げた先の空は青かったが、進む先の雲は黒く厚い、
もしかしたら一雨降るかもしれない。
「ったく危ねえな。最近じゃマナ機関を動力にする船も作ってるらしいが……。嬢ちゃん、ホントに大丈夫か?」
落ちても魚は助けてくれないぞ。と彼が言った。
そんな見当はずれの助言を聞き流す。
鏡を見なくても、自分の顔が青ざめているのが分かる。
もう彼の話を聞いている余裕はなかった。
オトメの矜持に勝利したヒトの生理が、醜悪な音楽と共に、海に向けて凱旋を始めた。
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『革命』。
その単語は、五十年前と現在では意味合いが異なる。
本来は王朝の変遷を指す言葉であったそれは、今ではある技術そのものを指す言語へと変化した。
『魔学革命』や『産業革命』、『技術躍進』でもなんでも良いが、とにかくヒトの社会を大きく変えたそれは、正にヒトという種を飛躍させた。
戦場の矢の風切り音と、剣のかち合う金属音。
それらは重く響く、火薬の音に。
まじない師の呟く美しき声と、魔術師達の熟練の技。
それらはギチギチとした不快な駆動音と、白痴でも扱える一冊の本に。
穏やかで暖かな街の風景。
それらは時に蒸気を吹き荒らし、時に植物に侵食され。
篤く、確固たる神聖な信仰。静謐で、愛を求める祈りの言葉。
それらは、泥濘の底の様な血だまり。狂騒と、怨嗟を伝える呪詛の声へと。
『革命』は世界を一変させた。
幼い頃に見た、今では変わってしまった故郷の姿を思い浮かべながら、そんなことを考える。
その頃だって、決して平和とは言えなかったし、病や飢えで死ぬ者は今よりずっと多かった。
ただ、今ほど騒がしくはなかったはずだ。
あの水夫の言う通り、どこもかしこも騒がしい。
丁度、周囲の怒声の様に。
「……なんだいなんだい、さっきから」
昼食をひとしきり魚の餌にしたあと、結局例の水夫に抱えられて、下層にあるこの部屋に運ばれた。
しばらく横になっていたから、外は既に暗くなっているだろう。
横になり、多少は楽になってきていた私の耳に、歓迎できない目覚ましの音が届く。
上層、つまり甲板の方が騒がしい。
水夫たちの走り回る足音。
何か怒鳴りつけるように張り上げる声が、かしこから聞こえる。
声に混じって重い音がいくつか聞こえるが、きっと忙しなく物を運びまわっているのだろう。
それに加え、中々強い雨も降っているようで、風音も暴れまわっている。
甲板や船の横腹、海を打ち付ける雨音が激しく、上で何が起きているのかよくわからない。
「あぁ、嫌だなぁ」
こういう時というのは、大抵ろくでもないことだ。
六十年余りの人生で学んだ、全く役に立たない教訓を胸にして、客室の扉を静かに開ける。
扉の蝶番は油が足りていないのか、ゆっくりと開けたハズなのに、金属の軋む音が辺りに響いた。
上は相変わらず騒がしいが、この区画は不気味なほど静かだ。
壁に等間隔で並んだ
一歩一歩、慎重に歩みを進める。
死ぬほど行きたくないが、どうにも嫌な予感が止まらない。
ドン。
と、遠くで何かが爆ぜる音。
私はその場で、獣の様に四つ這いになり、身構える。
考えるよりも先に動いた数瞬後。
船内に、何かが砕け散る音が鳴り響いた。
それと同時に、足場が大きく傾き、体が投げ出される。
体を客室の外壁に強か打ち付け、左肩に重く鈍い痛みが走る。
「うえぇぇぇえ゛ぇ……」
また吐いた。
床に付いた手の甲に、胃液が跳ねた。
黄色いそれが汚濁に塗れた音を鳴らし、汚れた木の床を更に汚した。
痛みは我慢できるが、流石に散々揺らされた体に、この攪拌は効く。
オトメとして大事な物を色々と失いつつある事に、絶望を覚えずにいられようか?
実際に失ったのは、矜持ではなく胃液なのだが。
ぐるぐると回る視界の端に、甲板への扉が映る。
今の衝撃で留め具が飛んだようで、死にかけの羽虫の様に、パタパタと開いたり閉じたりを繰り返している。
その影響か、甲板での騒ぎが鮮明に聞こえてきた。
「あいつら、マジで撃ってきやがった!」
「帆破られてんぞ! 死ぬ気で貼りなおせ!」
「敵襲! 敵襲だ! 『教国』の船だ!」
ドン。
先ほどよりもずっと近くで、重い爆音が響く。
一瞬後、更に強く、船が揺れ、木片が飛び散る。
平衡感覚をどこに置いてきたのだろうか、もうどちらが上でどちらが下なのかもわからない。
胃液は海と船内にあらかた置いてきたため、これ以上吐かないで済んだのは僥倖だ。
これ以上自尊心を傷つけられては、とっさに死を選びかねない。
あちこちで悲鳴が聞こえる。
飛んできた砲弾に潰されたか、吹き飛んだ木材に体を貫かれたのだろう。
怒声の中に、包帯を持ってこいだの、医務室へ連れて行け等の声が混じっている。
三度、ドン。と音がした。
これまでで最も近く、臓腑を揺らす重低音。
ただ、それは今までのものとは明らかに違う。
船の揺れもそれまでよりもずっと小さいし、何より船の材木が砕ける乾いた音は聞こえない。
これは爆発音ではない。
これは、重い何かと何かが、ぶつかり合う衝撃音――。
「全員抜刀! 乗り込まれるぞ!」
いくつかの金属音と、火薬の弾ける銃声。
悲鳴と戦叫が周囲を包む、
それに紛れ、僅かながら、剣戟の火花と火薬の煙が開いた扉の向こうで見える。
音が少しずつ遠くなり、視界が少しずつ狭まり始めた。
「あー……これ、まずいかも……」
いくら何でも、この状況で気をやるのはマズい。
僅かに残った思考を回転させるが、意思に反して呼吸は浅くなりはじめ、瞼はだんだんと重くなってくる。
流石に、一日中吐きまくって体力をもっていかれた。
瞼が完全に落ちる頃。
木板が軋む音で、誰かが近づいて来るのが分かった。
複数の足音から、数人が階段を下りてきているようだ。
甘い、香水か何かの匂いが鼻につく。
その匂いが頭痛をもたらす位に濃くなり、声が聞こえた。
「……これは。
「いや待てアルフォル。こいつ気ぃ失ってんぞ」
「……これは僥倖だ。アルフォル、ゴラーズ。この女を縛り上げろ。島に送る。」
その顔を見たくとも、閉じられた瞼は力が入らず、開けることはかなわない。
威厳と自身に満ちた声が、耳に残った。
「は……。島に、ですか?」
「そうだ。ここで殺すのは易いが、こいつも貴種の一人だろう。我らは新大陸の蛮族ではないのだ。規律は守る必要がある。そして……」
抑揚のないその声は低く、地を這う蛇を思わせる。
「『緑林の王国』に、首を塩漬けにして送ってやろうじゃないか」
あぁ、やっぱり。
この教訓は役に立たないなと、私は胸中でため息をついた。
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