第33話【雨とにっこーちゃん】
「くそっ、降ってきやがった」忌々しげに天を睨みながら写真部長が吐き捨てた。
ここまでかろうじてもっていた天気が崩れ始めた。やっぱりレインコートを用意してきて良かった。
「また雨か……」にっこーちゃんがつぶやいた。
写真部長は傘を差し、にっこーちゃんはスクールバッグの中からレインコートを取り出し着始めていた。むろん僕もレインコートを着る。ただ、カメラが防水じゃないからそこは気をつけないといけない。
にっこーちゃんが一番最初に撮った、というか僕に見せてくれたあの一枚目の鉄道写真があの雨中の313系だった。にっこーちゃんは名前が『日光』だけど雨女なのかな……
「オイ。これくらい撮りゃいいだろ」写真部長がもう切り上げるよう促してきた。
気に食わない人間だがその気分だけは解る。ひとつの列車が通り過ぎた後、次の列車が来るまでのなんとも言えない〝なにも無い時間〟。ひたすらバカみたく待ちぼうけている。無駄に時を浪費しているような気がしてくる。
しかしにっこーちゃんは言った。
「まだ。わたしはもっと撮る。何本撮ったら終わりっていう数のルールは造ってないよ」
チャッ、っと写真部長が舌打ちをする。明らかに『飽きた』といった風。
「今ここでもう結果が分かるんじゃないか?」
写真部長、やけに自信たっぷりだな。そんなに上手く撮れたってのか?
「分からないよ。3・0程度の液晶モニターじゃ。写真は紙に焼いて伸ばさないと分からない」にっこーちゃんが言った。
「デジタルで撮ってるのにずいぶんアナログじゃないか」写真部長が嫌味で返す。
「写真のキホンは紙焼きだから」
「3・0の液晶モニターじゃ分からなくてもパソコンのモニターで分かるだろ」
「それは細部の確認に使うもの。パソコン画面に映した写真がRAWデータなら簡単にいじって変えられる。厳密な意味でオリジナル(原板)が無いのがデジタル。でも紙焼きなら、その写真が決定稿になるから」
にっこーちゃんとの写真談義にイライラしてきたのか写真部長は話題を切り替えた。
「いつまでこんなトコにいるんだよ?」
「わたしはまだ撮るから帰りたければ帰っていいよ」にっこーちゃんが言った。
「バーカ。俺が帰っちゃったらその後の写真誰が撮ったか分からなくなるだろ」
僕が代わりにシャッターを押すとでも思っているんだろうか? 正直僕とにっこーちゃんでは僕の方が写真が上手いという確証が無いのだが。
その時だった。にっこーちゃんは無言のまま縦に構えた。
縦だって? カメラ縦で横に流すの?
構図で勝負する気だ。けっこう無茶な勝負をする。どうせ紙に焼くなら横構図で撮ってトリミングで縦に——いや、それをAPS—Cでやれば画素数が実質大幅減になる。また全紙大に伸ばすんだとしたら、できた写真にアラが出てくるかも。
幸いにっこーちゃんのカメラにはバッテリーグリップが付いている。縦位置レリーズがあるからシャッターを切りにくいということは少なくとも無い。にっこーちゃんは討って出たんだ。
写真部長の方をチラと見た。にっこーちゃんの方は見ていない。だから僕は何も言わない。言えば写真部長にカメラをどう構えているか気づかれる。真似されたら引き分けになってしまう。
僕も試しにさりげなくカメラを縦に構えてみる。上手く撮れる気がしない。ファインダーから目を離す。実像とのタイムラグは極めて短いはずだが気分的なものかEVF(電子ファインダー)では……しかしOVF(光学ファインダー)であっても……
その時下り列車接近を報せる踏切の音が彼方から聞こえてきた。
来た!
鳴り響く連写音。通り過ぎる列車。そして撮ったばかりの写真を液晶画面で確認するにっこーちゃん。
その表情を横からうかがう。察するにあまりできはよくなかったみたいだ。
遂ににっこーちゃんはレインコートのフードを頭の後ろに除けてしまった。レインコートに付いた水滴のせいだと言わんばかりに。
やっぱりダメだったんだな。
「あの、ちょっと確認したいんですけど」にっこーちゃんが写真部長に声を掛けた。
「いい加減帰ろうぜ」写真部長がにっこーちゃんの用件を聞く前に再び自分の希望を口にした。
写真部長は片手で傘など差していた。カメラをカメラバッグにしまってはいなかったが首から提げたままで構える様子が無い。そう言えばさっきシャッター音が一台分しか聞こえなかったような気がする。しかしにっこーちゃんは怯まない。
「富士彦くんにアドバイス訊いていいですか?」
え? 僕?
「お前、写真を自分の感性で撮らないの?」
蔑むような物言いで写真部長が言った。
「いいのか悪いのかお願いします」とにっこーちゃん。
「別にいーよ。どーでもさ」完全に写真部長のスイッチは切れてしまっていた。夕方の雨ってのは本当に嫌なものだからな。
『粘りたい』と言ってるのがにっこーちゃんじゃなかったら僕も同じ台詞を言っていたところだ。
「ちょっといい?」と、唐突ににっこーちゃんに小声で話しかけられた。
返事もしないうちに袖口を掴まれ引っ張られる。「どこへ?」と言う間も無く僕はにっこーちゃんに堤防の端の水道管パイプ(?)の近くまで引きずられた。
そこですぐさまこう訊かれた。
「ピンはどこにあればいいの?」と、囁くような音量で。
言われた瞬間その真意を図りかねたがすぐピンと来た。にっこーちゃんの言う『ピン』とはピントのこと。即座に313系の顔を思い浮かべる。流し撮り、どこにシンクロさせたらいいかを訊かれてるんだ。
「なぜ僕に?」と逆に訊き返してしまった。
「この写真だけは自分の感性だけに任せるわけにはいかないから」
「向日町さんなら、ってこと?」
にっこーちゃんはわずかに肯いた。
自分の感性と他人の感性はいっしょじゃない。だけどたぶんあそこなら通じるんじゃないかな、向日町さん、いや撮り鉄には。
僕は僕の考えをにっこーちゃんに伝えた。もちろん小声で。にっこーちゃんは短く、
「分かった」とのみ言った。
にっこーちゃんは元の立ち位置に戻る。
本当に僕のアドバイスを容れて撮るつもりなのか? ただの傍観者だったつもりがずしりと責任という
決して激しく雨は降っていないけどフードを取っ払ってしまったにっこーちゃんの髪は雨ですっかり湿りきっていた。おでこにも髪が張り付いてしまっている。
にっこーちゃんは縦に持ったカメラを胸の前に、目の前の鉄橋をただじっと見つめている。
僕はその場をそっと離れながらカメラの電源を入れる。既にメカニカルシャッターから電子シャッターへと設定は変更してある。
遠くから踏切の鳴る音が聞こえ始めた。僕はカメラを構える——
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