第15話 ただ「またね」を聞きたいだけ


 凪がいなくなって、時計の音だけが響いていた。腕の中にあるぬくもりを感じながら悩ましげな顔をじわじわと深め、柚野は天井を睨んでいた。

 ほぼその場の空気に流されるように彼女が好きだと言ってしまった。その気持ちに嘘はない。ただし、その気持ちが厳密に恋情なのかは実はわからないのだ。

 柚野は苛立ちと遅れて来た照れ隠しを紛らわせるように抱きしめていた腕を緩めて璃衣夜の様子を窺う。ちゃんとぬくもりが戻ったからか頬に微かな赤味が戻っていた。首に痣が残っていないか、呼吸が乱れていないか確かめてほーっとため息をついて今度は覆い被さるようにもう一度抱きしめた。自分は割と勢い任せなのだ。カッとなりやすく、衝動的で、動いてしまってから後で困る。

 「ごめんね」

 殺したくなんてない。弱っている璃衣夜を絞め落とすなんてことも、一緒に住んでいる凪との関係を悪くする気だってなかった。彼女が起きた時どういう顔をすればいいかわからない。でも、どんな話をしたとしても璃衣夜は静かに真面目に聴いてくれる、そんな気がしていた。

 「真面目な璃衣夜さんは怒るかもしれないけれど、仕事は休む気満々だから。ついでに璃衣夜さんも休ませる気満々だから」

 声を潜めて断言する。そもそも、安否確認依頼を見つけて部屋着のまま飛び出してきてしまったのだ。マンションの鍵はかけてきたと信じたいところだが、それだって自信がない。タクシーの運転手もさぞ内心訝しんでいたことだろう。理性が戻れば戻るほどやらかした様々なことが重く降ってくるようだ。

 「嫌われることしかやらかしていない気がしてきた……」

 ちょっと泣きそうだ。璃衣夜の手を探し出し、指を絡めて持ち上げる。柚野の体温が馴染んで違和感が消えていくことに慰められた気分で小さく何度目かのため息をついた。璃衣夜の右足に手を伸ばす。異世界で死に至る損傷をした体の無事を確かめたくて。触れて見ればまだ少し冷えている気がしてそっと摩る。上腕の小さな赤い三日月の傷が視界に入り、引き寄せられるように、舐めた。……湿った錆びの味。三日月が薄くなったのに気づいて、何度も舌を這わせた。

 「……ぅ……」

 沁みたのか小さな呻き声が漏れ、我に返って身を離し様子を窺う。僅かに寄せられた眉、少しだけ乱れた呼吸。それを色っぽく感じてしまう自分は重傷だと半ば無理やり視線を逸らした。居た堪れない、けど……

 「どうしよう、好きなことを思い知るばかりだ……」


 ただ、最初はちょっと気になる人だった。外見と年齢の差に驚いて興味が湧いた。弄ると反応がいいから楽しいなという程度。何度か異世界で風斗と共に話したり、活動したりする内に普段の様子からは想像できないくらいヘビィな体験をしていることを知って、今までにないくらい気に掛けるようになった。

 元気に会えると嬉しくて、暫く顔を合わせない日はどうしているかと思いを馳せ、どんどん気になる人に。そして、風斗の死をきっかけに人間界で会うようになって……少しだけあの悲劇に感謝してしまった罪悪感と自己嫌悪もずっと燻ぶっている。

 今宵、抱きしめてみたら離したくないと感じた。冷たくなっていたら温めたいと願った。消せるなら傷を消したいととった衝動的な行動は冷静になればドン引きものだ。なのに、薄くなった傷跡にホッとしている。自分が怖い。

 「……また逢えたらいいね、じゃなくて、またねって言ってよ」

 考え過ぎかもしれないが、未来をどこか諦めたような別れ際の儚い希望のように聞こえる挨拶が不安を掻き立てる。璃衣夜にしてほしいことの一番は未来への約束かもしれない。


 眉間の皺を伸ばすように撫ぜながら、見つめる穏やかな寝顔に睡魔を催す。時計を見れば4時だった。認識してしまえば一気に眠たくなる。寝る体勢を整えようとして……衝動的に璃衣夜の唇に口づけた。

 ぼっと自分の顔が赤くなるのがわかった。色々とセーブが利かないと慌て、せめてもの抑止に璃衣夜に背を向けて寝転がる。暫く悶えていたが、それもいつの間にか寝息へと変わっていった。


                  * *


 気が付けば明け方だった。凪は考え過ぎて痛む頭を押さえ、緩慢に部屋を出た。気まずいがずっと部屋にいるわけにもいかないし、どうせ出るなら拗らせる前に動いたほうが良いと考えたからだ。あわよくば、まだ2人が眠っている内にというのが正直なところではあるが。

 「!」

 何気なく視線を向けてびくりと立ち止まる。赤い顔で憮然と起き上がっている璃衣夜がいた。どうしようかと動けずにいると視線が向いて、

 「喉、渇いた」

 ほとんど口の動きだけの言葉だったが聞き取った凪は頷いて台所に行き、白湯を手にして近寄った。ん、と伸ばされる手に渡せばあっという間に飲み干し、おかわりを要求される。3杯目で満足げなため息が漏れた。

 「……ねぇ、凪」

 何を言われるかと身を固くする凪に気付いた様子もなく、璃衣夜は眠っている柚野の髪を弄んでいた。

 「なんで、私みたいのを好きになっちゃったんだろうねぇ……?」

 「……聞いて、いたんですか……?」

 「ううん。わかっちゃっただけ。……キスは目覚めの魔法」

 後半は聞き取れず目で問いかけるとなんでもないというように首を振る。目線で近くに座るように促され、璃衣夜の横顔が見える位置の椅子に座った。彼女があまりにもいつも通りだから意識している自分がこれ以上惨めにならないようにいつも通りを装う。それが今の凪にできる精一杯の虚勢。ふぅっとため息が落ちた。

 「たぶん、応えてあげられない。余裕がない。これ以上、人間界で生きることを難しくしないでって思っちゃってる自分もいるの」

 「柚野さんの気持ち、嫌ですか?」

 璃衣夜はゆっくりと首を横に振った。

 「……ちゃんと考えようと思う。私なりの想いの返し方を」

 彼女らしい、と凪は思った。


 「あのね、凪」

 「はい」

 「凪は私のことで悩んじゃダメよ? 私自身が意識から外れるように振舞っていたんだから」

 「そんな、どうして」

 「風斗を守れなかった私は凪にだけは救われたくないの。それは自己満足だというのもわかっている。その距離が傷つけるだろうこともね。それでも……そうじゃなきゃ、少なくとも今はまだ凪の前で立っているのがキツイ」

 「!」

 初めて見た苦しそうな笑み。この人は自分よりずっと年上で、異世界での経験も含めて簡単に弱みを見せたりしない。隠し事が上手な大人なのだ。全然至らないもどかしさを堪えて笑えたなら少しは近付けるだろうか。

 「……それでも僕は、貴女も助けたい。聞き分けが良い大人なんかじゃないから、子ども、だから……僕も譲りません」

 「……困った子ね」

 「嫌いになりますか?」

 「好きか嫌いかで言うなら、好きなことに間違いはないよ。厄介なことに。凪も、柚野さんのことも」

 それは紛れもない本心だろう。璃衣夜は声を潜めたまま少し苛立った顔で思わず頬を緩めた凪と気持ち良さそうな寝息を立てている柚野を睨んだ。

 「どいつもこいつも、好き勝手に言うんだから……!」

 「あ」

 乱暴な口調と裏腹、とても静かに優しく璃衣夜は柚野の唇を啄んで離れた。平和な寝息は乱れない。人差し指を唇の前に立て、少し頬を染めた人の悪い笑み。


 「内緒だよ」

 

 

 

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