第10話 糸の国・4

 沙良は一生分泣いた気がした。泣き過ぎて頭は痛いし、かみすぎた鼻も擦った目もひりひりする。虚脱したようにぼーっとしていて目の前に温かい飲み物を差し出されるまで自分以外の人がいたことを忘れていたほどだ。小さくお礼を言って一口啜るととても良い香りがした。花がたくさん詰め込まれた紅茶のような。少しだけ頭がクリアになる。お茶の色は真っ青だ。空を思い出す。日暮れ間近の透きとおる青。夏の仕事帰りに見るのが好きだった。

 「……私、こんなに泣いたことないです」

 「うん」

 「みっともないですよね」

 「いいんじゃない? 大人は泣かないから壊れやすいんだよ。泣けて、良かったじゃない」

 「璃衣夜さんが言うと、良い気がしてきます」

 「じゃ、良いことにしちゃって?」

 「……はい」

 ようやく少し笑えた。リイヤもそれをも見て安堵したように微笑った。

 「落ち着いたか?」

 「お師匠様……って、何してるんですか」

 「冷めたら勿体ないではないか」

 「それ、沙良さんのご飯でしょう? というか、私の分も食べましたよね。3人分全部食べます?」

 「菓子はまだあるぞ」

 「ごめん、沙良さん……お師匠様、見た目にそぐわぬ大食いで、欲望に忠実なんだ」

 璃衣夜はがっくりと項垂れた。いつの間にか空間はそのままに食事を調達していたらしいのだがライレーリアは沙良が落ち着くまで時間がかかると判断してちゃっかり自分の腹に収めていたという次第。璃衣夜のボヤキに何が悪いといった顔で最後の一口を収めたライレーリアに思わず噴き出す。

 「ほれ、笑わせることができたから良いではないか」

 「うう、納得させられそうな感じが嫌だ……」

 「大丈夫ですよ。まだあまりお腹も減っていませんし、お菓子はあるということですし、その、あまり凹まないでください」

 「沙良さんが、良い人過ぎる」

 

 その後、菓子を璃衣夜が回収し――文句は言いつつライレーリアにも2つ渡して――残りの菓子で腹を満たした。疲れた時は甘いもの。それはどこの世界でも変わらないらしい。


 「さて、これからどうしようか……沙良さん、ストレートに聞くけれど人間界に帰りたくないとか、思ってる?」

 軽い口調と裏腹、目は真剣に、でも気遣わし気な労わりに満ちて、本当の気持ちが知りたいと言っていたから。沙良は大きく深呼吸をして気持ちを鎮めることができた。静かに自身の両手の指を絡めて僅かに目を伏せる。

 「正直、気まずいとか、8日も意識がないとか不安はあります。……でも、帰りたいと思います。思い切り泣いたらあれほどつらかった失恋の痛みは意外なほど軽くなっているんです。

 璃衣夜さんが職場の人達にどれだけ私が大事に思ってもらっていたか教えてくれた。今までのキャラじゃないって格好付けたい自分もいるけれど……ありがとうって言いたいんです」

 「……そっか」

 「はい。それに考えたんです。格好付けてばかりの自分は誰かを傷つけていたんじゃないかって。自分は満足です。けれど、さっき璃衣夜さんが言ってくれたように寂しいと悲しい思いをさせて続けていたとするなら――」

 「修正してみようって感じ?」

 「はい」

 「良き考えじゃな。バカ弟子とは大違いじゃ」

 「どーせ出来が悪い弟子ですよ」

 「すぐに不貞腐れるのも悪い癖と言いたいが、可愛いから良し」

 「お師匠様の可愛いの基準ってわからないです」

 「修行が足りん」

 「何の修行ですか⁉」

 「師匠愛じゃ。好きだけでは足りんぞ」

 きっぱりと言い放ち、親指と人差し指で作った鉄砲で撃つ真似をしたライレーリア。璃衣夜は撃ち抜かれたようにその場にへたり込んだ。

 「その先、言わないでください……」

 「その先って?」

 好奇心を抑えきれずに問いかけると当然の答えといった口調とげんなりとした口調が綺麗にはもった。

 「「もっと私を愛すがよい」」

 沙良はあっけにとられ、すごい言葉だという思いが笑いに変換されて押さえられなくなり、酸欠になるほど笑い転げた。笑われたと文句を言う弟子を軽くあしらって遊んでいる師匠のやり取りが微笑ましい。確かなのは2人の師弟関係はとても素敵だということだ。


 だいぶ経って仕切り直しとなった「これから」の話。

 人間界に帰ることに関しては本人の意思が何よりの道しるべになるという。忽然と姿が消えたら責めが2人に及ばないかと心配するも偽装は何よりも得意だから心配いらないと一蹴された。

 今回の霊体接触型異世界干渉がきっかけで霊体が異世界へ抜けやすくはなるから注意が必要と璃衣夜は告げる。本当に千差万別なので人間界に戻ったら此方の記憶がないこともありうるし、うっかり異能を持ってしまうこともあり得るし、此方での疲労で回復が遅いことも起こりうる。と、悩まし気に語る様子を見る限り、本当に璃衣夜は熟練なのだろう。

 色々不安要素はあれど、いざ帰るとなれば少しだけこの降って湧いた出来事に名残惜しさを感じるから不思議だ。せめて何か記念になることがあればと考える自分はかなり楽観的かもしれない。

 「糸」

 「ん?」

 「そういえば、私も糸が紡げるんですよね」

 「ああ、そういえばそういう名目できてたんだっけ……うん、できると思う」

 「せっかくここに来たのだから、紡いでいかないということもなかろう」

 「んー、でもね? 糸を紡ぐと王都に収められるからこことの縁が固定されちゃう可能性もあるよ」

 「それなら確実に私はおふたりを忘れないで済むじゃないですか」

 望むところと頷いた沙良に2人が目を丸くした。

 「あ、彼方此方行くのは御免ですよ? でも、私は……ここにきて色々気付けたから、おふたりに会いたいから……ダメでしょうか」

 「ちゃんとお師匠様のところに来てね?」

 困った人だと言いたげな笑みを浮かべて返された言葉に沙良は破顔した。

 「私、迷ったことないからきっと大丈夫です」

 「くくっ、バカ弟子、負けそうじゃの?」

 「負けません」

 「弟子の成長にも良さそうじゃ、歓迎する、サラ」

 「はい!」

 「じゃ、紡ぐがよい」

 最初の試験だというような緊張を感じて胸に手をやる。鼓動が早い。糸は願いや想いで作られると言っていた。ならば、感謝を籠めれば紡げるだろうか。見つめる手のひら。オレンジ色の光が浮かび、濃い緋色の糸が短く花火のように吹きあがる。雨のように降って消えていく中、30cmほどのものが1本、璃衣夜の手首に巻き付いて消えた。

 「え、あれ? 失敗!?」

 慌てふためく沙良は短い糸を掴まえたライレーリアが楽しそうに笑ったのを見て窺うように首を傾げた。璃衣夜は不思議そうに糸が消えた手首をためつすがめつしている。

 「迷子札か」

 「はい?」

 「リイヤに巻き付いたであろう。糸は必要な者がいなければ、術者がイメージを固定しなければ伸びぬのよ。居場所を知らせる、迷子を呼び寄せる標の糸。良い糸じゃな、サラ。これのお陰でリイヤがここで迷子になってもすぐに見つけられる」

 「私、そこまで迷子になりませんけど」

 「ほう?」

 「……ごめんなさい、なります……」

 やり取りをゆっくり咀嚼して、じわじわと沸きあがってきた喜びに両手を握り締めた。できた。褒められた。この歳で褒められることはあまりないからか妙に気恥しくて、でも、うれしい。

 籠めたのは2人への感謝。弟子を心配しているライレーリアと無理をしてうまく辿り着けないことがある璃衣夜。少しでも心配や無理が減る助けになるならこんなにうれしいことはない。


 人間界に戻った後、困ったことがあればと、あるサイトの名前を告げられた。同じ能力者達のたくさんの情報が集まっていると。名残惜しくなかなか帰ることに集中ができない沙良に仕方なさげにため息をついた。

 「サイトの裏掲示板に、戻ったよでも、糸の国から生還でも書き込んで」

 「?」

 「お返事するから」

 「それって……。はい、絶対に書きます」

 璃衣夜は人間界でも接触する約束をくれたのだった。



               * *



 後日談として――

 結果的にいえば私、朝風沙良は10日後に目覚めた。肉体には9日目には戻っていたはずなのだが、感覚的には夢も見ずに爆睡して起きたような。異世界から戻る時も、ものすごく眠たくなってきたと感じたのと同時に視界がぼやけたことしか覚えていない。すぐに教えてもらっていたサイトにアクセスしたかったのだが、診察と検査と見舞い客への応対と会社への連絡などに忙殺され、3日が経過した。

 体への異常はなく、意識不明の原因も心因性と診断されまた方々に心配をかけることにはなったが本当の理由なんて言えるわけがない。失恋のショックで幽体離脱して異世界で過ごしていました、なんて。


 サイトへアクセスして無事に戻ったこと、何故か目覚めにずれがあったことを書き込んだ。名前はわかってもらえるように『沙良』として。一晩経ってついたレスは名前は付いていなかったけれど――――ずっと私の御守りだ。


『おかえりなさい。

 何の異常もないとのこと安心しました。ただし、無理はしないこと。

 目覚めが1日ずれたのは、おそらく霊体が肉体に馴染み直すためと単純に疲れを癒すためかと思います。異世界干渉はかなり疲れますから。正直、異世界干渉はしないで済むなら、その方が良い。と言っても……選ぶのは貴女です。何を選んでも貴女が貴女らしく元気で在りますように


 追伸

 貴女のくれた糸は、どういうわけか人間界でも迷った時に助けを呼び寄せてくれている気がします。だとすれば、私の糸も少しは作用してくれると信じて、もう1度願っておきます。


 沙良が守られますように。私はそれを望む』 

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