第9話 糸の国・3

 沙良が目を覚ますと見慣れた……と思えるようになってしまっていた塔の部屋の天井が目に入った。傍らには落ち込んだ様子の璃衣夜、その頭を抱き寄せて低く囁くライレーリアがいる。

 「ごめん……配慮、足りなかった」

 「……いえ」

 気にしないでと頭を振って、その目に涙が滲む。ガタンと音を立てて璃衣夜が立ち上がった。

 「……お師匠様、もう少し……ここキープできる?」

 「誰に聞いておる。……帰るのか?」

 「どういうわけか同じ能力者だからって単純に一緒に帰ることはできないけど、私が戻って沙良さんの情報を探すことはできるから」

 「あまり無理はするでないぞ」

 「無理しなきゃいけない時があります!」

 「リイヤ」

 ライレーリアはそっと璃衣夜の手を掴んであやすように揺らした。

 「冷静で在れ。急いては事を仕損じる。どうせ、止めても無駄であろう。だから、我がちゃんとここで待っているゆえ」

 ぐずっとすすりあげた璃衣夜がこくりと頷いた。ベッドから起き上がって凝視していた沙良に一生懸命な笑みを浮かべる。

 「連れて行ってあげられなくてごめんね。ちゃんと戻ってくるから」


 次の瞬間、璃衣夜の姿は忽然と消えていた。何の兆候も、変調もないまま本当に唐突に、その存在を消したのだった。ライレーリアはその空間に手を伸ばし、目を伏せる。祈るように。

 「ライレーリア様、璃衣夜さんは」

 「人間界へ」

 「こんな、簡単、に?」

 「……そう、あっけない。リイヤの本来の世界はあちらだということなのだと、我は思っている。なれど、今は己の意思で何度も世界を渡る幼子。……せめて我のもとでは守ってやりたいものよ」

 そこに籠められた深い愛情に知らず沙良は微笑んでいた。もちろん不安や恐怖ああるけれど、少なくとも良い人には会えたと思えたから。

 「幼子、ですか?」

 「40など、やっと卵の殻を割って歩き出すかであろう」

 今更のようにライレーリアの年齢に恐怖を覚えた沙良を振り向き、にんまりと人の悪い笑みを浮かべる。

 「我は年寄りぞ」


 

 月光色の空間に閉ざされているから時間の感覚がわからない。ライレーリアが沙良を気遣い、話し相手になっていることも大きい。それでも数時間は経ったと感じる頃、ライレーリアがハッとしたように立ち上がり、片手に糸を生み出した。虚空を見上げ、凛と響く声を放つ。

 「リイヤ、おいで!」

 糸が勢いよく宙に伸び、しゅるりと何かに巻き付いたと思ったら璃衣夜が糸に引かれて落ちてきた。ライレーリアがしっかりと抱き留める。気を失っていたのだろうか。「お師匠様?」と自信なさげな声が弱弱しい。

 「この方向音痴め、世話をかけおって」

 「ごめん、なさい。お師匠様……」

 沙良も手伝い璃衣夜をベッドに横たえた。ライレーリアは薄い緑の糸を生み出し璃衣夜の腕に絡めた。浮いている糸玉が淡く点滅し、光が璃衣夜に流れていく。点滴のようだ。

 「だから無理はするなと、冷静で在れと言うた」

 「ごめんなさい、でも、お師匠様が絶対助けてくれると、思いましたから」

 「このバカ者。もう少し回復するまで次の行動を禁じる。糸で縛るか?」

 「……おとなしく休みます。縛るに及びません」

 「当然じゃ」

 沙良に謝るように視線を向け、静かに瞳を閉じた。疲れの色が濃い。ライレーリアはベッドの傍らに置いた椅子に腰かけ璃衣夜をじっと見つめていた。僅かに表情が緩んだのを見計らって沙良は声を潜めて状態を問うた。

 「このバカ弟子は、こちらに戻る目測を誤ったのじゃ。よりにもよって異世界人を狩る過激派の領域に落ちおって」

 「それって……」

 「おそらく早く情報を持ち帰ろうと焦った結果、渡る世界は選べたが座標をうまくつなぐ集中が足らなかった。疲労した身で追われて糸を紡ぐ余力もないなど言語道断。どうしようもないバカ弟子よ」

 それに気付いたライレーリアが糸を使って寸でのところで璃衣夜を回収したということだった。

 「自分のせいと思うでないぞ」

 「え?」

 「これはリイヤの落ち度。生きるためには用心深く冷静でなければならない。誰かを助けたいならなおのこと」

 「でも……」

 「同族を助けたいと無茶をするのがこれの悪い癖。そこに理由があるのかもしれぬが、周囲を傷つける方法は自己満足ぞ。何度注意しても直らん。だから、バカ弟子ぞ」

 厳しい言葉と表情と裏腹に璃衣夜の手を握るライレーリアの手は慈愛に満ちている。沙良は小さく呟く。「周囲を傷つける方法は自己満足……」どきりと心臓が跳ねた。


 「……目覚めたか」

 「お師匠様……」

 「反省したなら良い」

 「はい」

 「首尾は?」

 「朝風沙良さん、帰り道途中で倒れているところを発見されて救急搬送。発見が早かったお陰で余計なダメージは負っていない。ただし意識が戻らないまま8日間が経過。医療が発達しているからフォローはできている。此方でダメージを負わない限り最悪の事態は回避できると思う」

 沙良はいつの間にか詰めていた息をほーっと吐いた。心なしか2人の顔も安堵している。とりあえずは一番マシな状態とわかったのだ。ずいぶん心持が違う。

 「沙良さんは……ずいぶんと慕われているね」

 「そう、ですか?」

 「うん。お酒をずいぶん飲んでいたみたいだけど、いつもと様子が違うと気にした同じ会社の人が家に帰った後、戻って発見したんだって。お見舞いも途切れないし、仕事も一丸となってやっているって聞いた。それと」

 言い淀むように口を鈍らせたのを視線で促した。

 「職場のひとりがぶん殴られたって。頼れる強い女はひとりで大丈夫的なことを言って、他の子とくっ付いた最低野郎と結構な炎上になってる……それが、こっちに来ちゃった原因かなー……と」

 「あちゃー……それは、戻ったら平謝りしなきゃ……」

 ぼろりと涙が零れた。意外だったのだ。いつも頼れる存在でいようとしていた。だから、人に弱みなんて見せない。気付かれることもないと思っていた。よくある二股、失恋は笑い話にこそなって、怒ってもらうなど思いもよらなかったから。

 いつの間にか起き上がった璃衣夜がよしよしと沙良の頭を撫ぜた。

 「私が言うのもなんだけどね? 頑張り過ぎて頼らないのって、役に立ちたい、一緒にやりたい人は寂しいよ。つらい時には頼ってもらった方がうれしいと思う。……失恋、しちゃったの?」

 優しい声音に沙良はこくりと素直に頷いた。そうしたら一気に悲しくなって、悔しくなってワッと声をあげて泣き出していた。頼れる格好良いところに惹かれたと告白されてうれしくて、仕事でもプライベートでもなんでもできるように頑張っていた。頑張っている意識なんてなかった。彼の自慢の彼女でいたかったから。なのに、8日前に言われたのだ。頼ってくれる子、守ってあげたい子の場所に行く。強い人だから僕がいなくてもいいでしょう。傷ついたりもしないよね、と。

 悔しいから、泣いたら幻滅されそうだと酷いことを言われたのに格好をつけて「誰かを守りたいと思うくらい成長したのね。相談にはいつでも乗ってあげるわ」と笑って見送った。傷つかない人間なんているもんか。悔し過ぎて、泣くに泣けなくて浴びるように飲んで……気が付けばここにいたのだ。


 「つらかったねぇ……でもね、皆わかってるから大丈夫。沙良さんが頼れる格好良い人なのは頑張り屋だからってこと、格好良いけど当たり前に傷つくひとりの女性だってこと。そんな沙良さんが皆大好きなんだ」

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