シルバーバレット


 ――――ガシャッ、と。踵を返す黒甲冑。


「逃げないで、耕太郎」

「我輩が身を引けば済む話だ。芥川君に余計な物を背負わせたくない」

「それを逃げてるって言うんだよ」

「……キミこそ必死だな、わんこ君。……今の話で大方理解できたよ。キミの組織は、我輩というサンプルに興味があるのだろう? そのために虎の子の薬まで放出した。それを無駄にしたとあっては、キミとて懲罰なしでは済まされまい」

 メイは息を呑み、何も言わない。


「……そうなんですか? メイさん」

「ボクの話はいいでしょ。考慮に入れないで」

「でも……」

「照子には後悔して欲しくないんだよ。目先の情に流されて、大切な物を失うなんて事は――――」

「――――優し過ぎるんです、メイさんは。……他人のためなら、心を氷にできてしまう。本当は誰より熱いものを持ってる癖に、平気なフリして。……目先の情に流されちゃいけない、なんて。あなたの言えたセリフじゃないですよ?」

「……」

「私、決めました。――――やっぱり二人とも助けます」

「それは……」口籠もるメイ。


「……耕太郎さん。ちょっと屈んでください」

 黒甲冑を見上げて言った。

 彼の頬を抓りたい時に発する、いつものフレーズ。

 しかし今夜は優しく撫でるだけ。

 フードローブに覆われた素顔に近付いて。

 そっと唇を重ねた。


 野獣の呪いを解くならば、真実のキス以外にはありえない。

 妙な小細工は全く不要。

 ――――これがお伽話なら。


 永遠にも似た沈黙を経て。

 唇の柔らかさと、互いの熱だけを感じる時間が過ぎた。



 瞼を開ければ、獣は獣のまま。

 少女の瞳は溢れんばかりに潤んだ。

 ――――あぁ、よかった。オカルト狂いの『運命の人』だなんて、こっちから願い下げですもの。全く一安心です。せいせいしました。ふんだ。

 そんな強がりは浮かぶ端から消えてしまう。

 小さく開いた唇は、一度だけ閉じられた。

 全て飲み込むように鼻を啜って。


「……お願いが、あります」

「…………」

「私を信じて、待ってて貰えませんか?」

 少女は泣き出しそうな声を堪えて、続ける。

「あなたを助けられない。……今は、まだ。……けど他に、方法があるはず。……それを探す時間を稼いで欲しいのです」


 答えは返ってこない。

 ただ煌々と、瘴気が星空の如く輝いている。

「――――そんな瘴気に巻かれて、きっとすごく辛いはず。更に耐えろだなんて、酷いことを言ってます。それでもどうか……」



 黒甲冑が幽かに揺れた。

 くつくつと笑っているのだ。

「……報酬を前払いされては、敵わないな。我輩とて男だ」

「ごめんなさい。私――――」

「謝るな。……元より誰かを見殺しにしてまで、楽になろうとは思わん」

「……部長」

「――――それに、割と気に入っているのだよ、この体は」

「……はい?」

「それでも我輩を人に戻したいと言うなら、抵抗させてもらおう。全力で」

「ちょっと、なにいってるんですか……!?」

「まあ、諦めることだな。またすっぽんぽんにされたくなければ」

「はぁっ?! の、望むところですっ! 今度は私がひん剥いてあげますよ、その悪趣味な鎧!」


 顔を真っ赤にして軽口を叩き返す照子。

 両方救うと言えば聞こえは良いが、こんなものは単なる悲劇の先延ばしに過ぎない。

 悪い吸血鬼を見捨てるだけで全て円満に収まるというのに。

 ――――擦れた合理性を蹴飛ばして、メイも氷の剣を納めた。


「もう、キミ達といると調子が狂うよ……」


   ◇


 そうして薬瓶がアナの前に差し出される。


「――――いや待て。私とて飲まんぞ」

「……えっ」

「『えっ』じゃない……! 当たり前だ! 今のやりとりを見せられて、『はいそうですか、ありがとう』と施しを受けるほど、私も耄碌してないぞ!」

 薬瓶を押し返す。


「施しじゃないですっ! 飲まなきゃ死んじゃうんですよ!?」

「その憐れみを施しと言うんだ! 全く! 『一品物』って話だけじゃない。……お前、それを作るの大変だったんだろ? そこの唐変木を助けるために。……だったらそいつに使ってやれよ。愛情の塊を横から掻っ攫うような真似は死んでもごめんだ」

「あっ、愛?! い、いえ、そういうのでは……」

「…………」

「え、ちょっと……? ほんとに……?」

「…………」


 アナは口を真一文字に結ぶ。照子が開けた薬瓶を近づけるが、貝のように閉ざされて開かない。桜色の唇がプニプニするだけ。

 呼び掛けて隙を作ろうとする照子だったが、ツーンとそっぽを向かれてしまう。


「こ、この頑固者……!」

「いつもボクが思ってることだね」「奇遇だな。我輩も思ってた」

「……うっせー外野ですね」


 誰かの噂話には振り返らず、アナの口と格闘する。

 ――――そもそもあなたがチューしたら治るっていうからやったんですよ!? どーしてくれるんですか、話と違うじゃないですか! なあ、コラ!

 などと心の中で抗議を重ねて。



 遂に痺れを切らし、照子は薬瓶をグイッと呷った。

 ギョッとする吸血鬼、その真っ白な頬を両手で固定して、ぶちゅっ、と。

 艶やかな唇が触れ合った。

 貝は抉じ開けられ、トロみのある生温かな液体がびゅーっ、と注がれていく。


「――――ん゛っ、んん゛、んむ゛ーっ?!」


 パチッと目を見開き、赤面していく吸血鬼。瞼をぎゅっと閉じた照子の顔が目の前に。驚きの余り、5秒、6秒、息さえ止まってしまった。

 ハッと我に返り、胸に抱いたジャケットが落ちるのも厭わずに暴れ出す。

 そうして真っ裸で押しのけた拍子に、ゴクンッ、と。

 二人は同時に「けほ、けほっ」と咳き込んだ。



「――――きゃんっ?!」

 アナの素肌に紫電が迸った。

 裸体を手で隠そうとすると、またバチンッ。

 自分の体に触れるとショートしたように電流が流れるのだ。

 ピリピリ痺れる身体を持てあまし、手を浮かせたまま身悶えする。

 瘴気のお陰で――――などと言っていいのか分からないが――――大事な部分は隠されているが、心許ない防御だ。

 纏わり付く電流は肌をこそばゆく撫で、チリチリと啄み、時折あらぬ場所に抓られたような刺激が走る。


「くぅぅっ♡ な、何だ、この薬……っ」

「……キミの魔力を変質させたんだ。照子と類似するものにね。――――他にも薬効はあるけれど、いまキミの身体に出てるのは、その反応だよ」

 犬耳少女が解説した。

「なんだってそんな……っ」

「照子の魔法を通しやすくする為さ」

 件の照子へ目配せする。

 チャイナドレスの竜娘も全身に紫電を纏っていて。

 アナに対して腕を開く。


「ぎゅーっ、てしましょうね?」

「……――――は?」

「大丈夫。この日のために練習してきました。人間相手は初めてですが」

「ま、待て待て待て……! 冗談だろ!? いま触られるのはヤバい! 洒落にならんっ! ちょっとま゛あ゛ぁぁぁああああ――――!?」

 及び腰のアナをギュッと。

 特大の雷撃が二人を撃った。

 尾を引く悲鳴が十数秒、それが途切れて更に数十秒。あまりの閃光に周囲は昼間のよう。


「辞退して大正解であったな」と黒甲冑が言った。

「これが臨床試験なの」メイが呟く。

 やがて光が収まった。

 プスプスと焦げ臭い細煙を上げるアナ。

 純白だった肌はすっかり小麦色。くたりと照子に寄りかかった。

 ――――瘴気はもう出ていない。

 犬耳少女は腕のデバイスを起動し、ヘロヘロのアナを映す。

 亜人型リリスと出るはずのモニターには『????型魔獣:Error 未定義の魔獣型』と。

 メイは目を見開き、思案げに口を覆った。

 ――――そうだ。これこそが期待されていたことだ。しかし上層部の誰もが失敗すると思っていただろう。耕太郎だけがイレギュラーで「魔獣に擬態できる能力者か何か」という苦しい解釈は、もはや通用しない。


 彼と同じ現象がアナにも起きてしまったのだから。

 人殻じんかくを保ったままの魔獣――――。そんなものは、長い長い魔宝使いの歴史の中で、一体も確認されていないというのに。

 この場には、二体いる。

 不滅なる人類の敵が、純人間の少女に寄り添っている。

 『機関』の存在意義を根幹から揺るがす事実だった。


「信じられない。けど、信じるしかない。……照子、キミは特効薬なんだ。この世界にとっての――――」

「――――照子お前ッ! この恩はッ、忘れないからなッ!!」

 黒焦げアフロな吸血鬼は、復活するやいなや、ぎゅぅぅぅっ、と照子のお尻を抓った。


「いだだだだだっ?! 言ってることとやってること、ちがうくないですかっ?!」

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