二つの手、三人の友達


 ザァッ、とマグマが引いていく。闇は闇の中に。後には融けかけた街並みが残る。

 スライムの居た場所に幼い少女が倒れ伏していた。

 月光を編んだ銀糸の髪に、純美の肢体を放りだして。


 布団のように掛けられたジャケットは、メイが今、世話を焼いたものだ。

 二人が見守る中、あどけない寝顔を顰めさせ「う~ん……?」と瞼を開く。

 緋色の虹彩が映したのは、油断なくこちらを窺うメイと黒甲冑。抜き身になった氷の剣。上体を起こせば、なぜか裸の自分。長らく住んだ街の惨状。

 それで大体の察しは付いた。


「……あぁ。やってしまったのか」

「覚えているのか?」

 低音で発せられた問いに、かぶりを振った。

 けれど、体に染み渡った充足感までは否定できない。

 ただ喉を潤すためだけに、どれほどのものを踏みにじったのか。私に笑顔を見せてくれた人も巻き込んだかもしれない。彼らにも大切な営みがあっただろう。それをここで断たれるのは、どれほど辛く、怖かったか。――――全ての嘆きが、理解できる。


 絶望に染まった血液ほどの甘露はない。

 喉越しは尾を引き、気を抜けば頬が緩みそうになる。こんなものでしか満たされない、卑しく恥知らずな吸血鬼。何も変われない自分が、結局何より虚しかった。



「……もう、たくさんだ」

 呟いた途端、ブチンッ、と皮の爆ぜる音がした。

 体から濛々と立ち昇り始める瘴気。

 半獣サナギの終わり。魔獣化の前兆。

 心がゾッと震えた。


「……ああ。そうか……こんなにも苦しかったのは、半端だったせいだ……。人にも獣にもなりきれなかったせいだ。……これでやっと、やっと解放される……」

 止めどなく溢れる感情の名は、歓喜。

 揺れる視界の中、氷の剣が振り上げられた。

「……魔獣には、させられないよ」

「ふ、ふふ。……そうだろうな。どこまでも不自由な体だ」

「ごめんね」

「……思えば長い余生を過ごした。受け入れよう。手間を掛けさせる」

 断頭の刃が振り落とされ――――。


 ――――なかった。

「なにやってんですか!」

 テーブルクロスを服のように纏った栗毛の少女が割って入ったからだ。

「照子!?」「芥川君っ?! まだ『魅了』が――――」

「解けてます! 私は冷静ですっ!」

「だったらなんで!?」

 氷の剣を抑えられたメイが声を荒げた。

「メイさんこそっ!!」

「……どいて照子! 間に合わなくなる!」

「いやです! させませんっ! どう見たってアナさんは正気です! 半獣態も解けてます! ――――今斬ったら死んじゃうんですよ!?」

「今しか殺してあげられないんだ!!」

「何考えてるんですかっ!!」


 メイは苦々しく眉を顰めた。

「……魔獣になれば、死ねなくなる……! 人を襲って、人を食べ、討伐される人類の敵。何度も何度も蘇り、未来永劫、輪の中からは抜け出せない。それが魔獣なんだよ……! 因果を断ってあげられるのは、今しかない!!」

「アナさんは、そんなことしません!」

「彼女の人殻じんかくは消えてなくなる!」

「でも、部長は……っ」

「……耕太郎が、おかしいだけ。アナマリアは違う。『緋影の潜王』と呼ばれた半獣が本物に成り代わる。或いは、元々そちらが本物で、キミが『アナさん』と呼び慕う彼女こそ、獣の擬態なのかもしれない」

「そ、そんな言い方、あんまりですっ」

「……亜人型は擬態の上手い種別なんだ。『魅了』の力の延長でね」


 まんまと術に当てられていた少女は、それで何も言えなくなった。

 けれど退かない。全く納得していない――――そう言いたげな目の色だった。

「……あのね、照子。亜人型は本当に危険なんだ。……魅了だけで国を傾けた事例もあるけれど、真に恐ろしい特性は、もう一つの方」

「もう一つ……?」

「……亜人型はね、あらゆる種と繁殖できるんだ。両者の力を受け継いだ新種を生み出し、始祖となる能力。……分かるかい? 魔獣として完成した彼女は、不老の新人類さえ創り出しかねない。そうなれば、旧来の人という種は駆逐されるだろう。その異能の名が『真祖』。……人に似た、人以上の化け物を産める亜人型リリス。……それが故に、封印、及び終了処理。残酷に聞こえるかもしれないけれど、必要なことなんだ。人類を保全するためにはね」

「……けどっ! でもっ! 人を護るっていうのなら、彼女だって人ですよ! こうして、まだ、人なのにっ! 諦めるなんて、そんなのおかしい!」

「ルディクロは人じゃない。……前にも言ったことだよ」


 メイは決然と言い放った。甘えを拒絶する、氷のような温度で。

 照子はショックを受けたようだったが、アナの見立ては全く真逆。

 この場の誰でもなく、メイは自分自身に言い聞かせているように感じられた。

 亜人型リリスは排さねばならない、なんて説明も足踏みなのだ。


 ――――だからこそ、アナマリアは不遜に笑ってみせる。


 若者の葛藤を断ち切ってやるのも年長者の務めだ、と。

「やるなら早くしてくれ。もう持たないぞ」

「…………キミが望むなら、是非もない」

 かくて照子は押しのけられ、断頭の刃が再び上がる。

「メイさん……っ!」

「照子、キミは――――」

「最後に一つだけっ、一つだけ聞かせてください!」

「……なんだい?」

「……アナさんは、ずっと償ってきました。六百年も前から、少しずつ、少しずつ。力を失った後でさえ、誰かの幸せを願っていたんです。そんなの、偽物の気持ちで続けられることじゃありません。……あなたは以前、こうも言いましたね。『人間はいつからだってやり直せる。更正の機会が大切だ』と。……そうすることを人と呼ぶなら、罪を悔やんで、間違いを避けようとしてたアナさんも人間のはずです! ……ルディクロだって人間なんですよ! 違いますか?!」

 照子の言葉に一番驚いたのは、アナマリアだった。


 ――――こいつ、特大級の地雷を踏み抜いたぞ、と。


 『ルディクロは人じゃない』。その信条は、犬耳の娘にとって免罪符だったはずだ。

 彼女がどれほど魔宝使いをやっているのかは知らないが、健斗が世話をした人間ならば、少なく見積もっても3年以上。

 今日のような事例にどれほど遭遇し、幾人の『人でなし』を斬り捨ててきたか。

 激昂するか、悲しむか。感情の渦は、幽かな細波となって翡翠の瞳を揺らす。

 しかしメイは、アナマリアの予想に反し、静かに瞼を伏せるだけだった。


「……詭弁だよ、それは」

「答えてください!」

「……それを認めてしまったら、ボクは剣を振れなくなる」

 自らを奮い立たせるように、魔法剣を握り直す。


「我輩が代わろう。汚れる手は一つで良い」

「耕太郎は黙ってて。――――見過ごせないのはボクだって同じ。災禍の芽は摘むべきなんだよ。たとえ誰になじられようと。……産み増やされた亜人リリスの仔らが、罪のないまま駆除される。そんな未来は悲しすぎるから」

 照子は膝を折ってアナを抱いた。冷たい刃から庇うように。

「アナさん、この瘴気、止めてください! これさえなければ、あなたは……」

「無茶を言うな」


 罅の入った人殻じんかくから溢れ出る黒煙。

 無数の蛍火が混じって銀河のよう。

 これらは人の身に余る力が形を成したもの。

 罅は大きな裂け目となり、爆発的に裏返る。

 人殻じんかくは内側から食い破られ、人間だったアナマリアは消えてしまう。

 照子はそれを抑え付けるように強く、ギューッと抱き締めた。

 一度ほつれた人殻を縫い直すことなど、不可能だというのに。

 アナマリアが抱き返し、そう宥めると、照子ははたと目を見開いた。

「もしかしたら……っ!」

 振り返って叫ぶ。

「部長っ! 返してください! 私から取り上げた奴!」


 請われるまま取り出された黄色い魔宝珠へ手を伸ばす。

 メイがそれを遮った。


「……まさか照子、あれを使う気なの……!?」

「それしかないです! 部長と同じ事を起こせば……!」

「ダメだよ! あれは耕太郎の為に調合したんだから……!」

「何もせずにいたら、アナさんが死んじゃうんです!」

「耕太郎! 今は返さないで!」

 睨み合う両者。


 不意に照子があらぬ方を見て、叫んだ「水鏡君!? どうしてここに!?」

 メイは驚き振り返るが、そこには誰もいない。

 その隙に魔宝珠が引ったくられた。

「シャマッシュ・トゥガー・ファム・アル・フート! ――――天衣転装てんいてんそう・デコードギア!」

 光に包まれて再変身する少女。

 純白のチャイナドレス、上下に開いた胸の谷間に指を突っ込んだ。

 ――――ゴソゴソまさぐる。四次元的なマジカル収納。なぜこんなデザインかと言えば、ポストイナ鍾乳洞しょうにゅうどうより深く長い理由があるのだが、ここでは語られない。

 ややあって、人肌に温まった薬瓶を摘まみ出す照子。

 そこにメイの手が重ねられた。


「……本当にいいの? 掻集めて掻集めて一本分、精製するのがやっとだった。そのためにキミがどれほど苦労したか」

「いいんです。今これを必要としてるのは、アナさんだから。……また、集めたらいいんです」

「残念だけど、おかわりなんて出来ないよ」

「え?」

「妖魔の素材も、呪草じゅそうも、キミの集めた余りが残ってる。けど、シダの花の蜜だけは、そこに入れた分で終わりなんだ」

「それだって、また集めれば……!」

「シダの花はね、2000年に1度、最も短い夜にしか咲かないの。社の備蓄は根こそぎ出させたよ。……あとは余所にどれほど残ってるか。残ってたとして、手放してくれるか……。正直とても難しいと思う」

「……そ、そんな稀少なものだったんですか? メイさん、そんな話は一言も……」

「言えばキミは詮索するから。これは善意じゃない。詳しく言えば胸糞の悪くなる話さ。……けれど、そうして用立てた原料はキミ達の役に立つはず。……そう、思ったんだけれど」


 犬尻尾を垂れ下げるメイ。

 やや伏せっていた顔を上げ、きっぱりと言い切った。


「それを無駄にすれば、耕太郎を助けられなくなる」

「……無駄じゃないです。アナさんを助けることは」

「ちゃんと効く保証なんてないんだよ? 彼に合わせて調合したものだから」

 やってみなくちゃ分からない、などと短絡的なことを言えるほど照子も考えなしではない。やってみてダメだった場合、どちらも助からないのだ。

 では、どちらか選べるのか。


 照子は答えに窮していた。

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