命の熱が冷めていく


 頬の痛みで目が覚めました。


 部長の野郎が、ふにふにと引っ張ってやがるのです。なんて気安さ。寝起き様の文句は彼の指先でそっと蓋され、叶いませんでした。出掛けた声は口腔に溜まって頬が膨らみます。

 ふと、場内に響く愉しげな声。彼もそれに耳をそばだてているようです。


「喜んでくれ、アナ。この隠遁生活も今日で終わりだ」

 白衣の男性が、棺の蓋に腰掛ける先程の美女に話しかけています。私達は気づかれぬよう、そっと見守りました。

 紅いルージュがティーカップから離れ、ふぅ、と息を零します。

「見つけたのか」とだけ彼女は呟きました。

「ここに来ている。だが人形の手に負えないじゃじゃ馬らしい。アナが手伝ってくれればすぐにでも……」

 アナと呼ばれたゴシックドレスの女性が、沈黙を以て返します。白衣の男性は少し焦れ、困ったように髪を掻きました。

「……これはキミのためなんだ、アナ。聞き分けてくれ。……なあ、そうだろ? 一昨日はどれほど起きていられた? 昨日は? 今夜はどれほど話せる? 日に日に短くなるばかりだ。この二ヶ月は特に酷い。もう時間がないんだ。次に起きられる保証なんかない。彼女の心臓がなくては……」

「健斗……。お前の心配は嬉しいぞ。けどそれは愚かなことなんだ。……私はもう、これ以上の時間なんて望んでない。役目を終えて、あとは眠りにつくだけ。枯れ木を生かすために新芽を摘むなんてこと、やっちゃいけないんだよ」

 そして彼女は、緩やかな指使いで自分のティーカップを床に落として割りました。

「お前の入れてくれたチョコレートは、いつも美味しかったぞ。ありがとう」

「……600年。600年だ。キミを治すことは一族の悲願だった。ヴィンセント・ヴァン・ヘルシングから受け継がれてきた我らの宿命。……手の届く土壇場で捨てろというのか?」

「捨ててしまえ、そんなもの。ヴァンパイアハンターが吸血鬼のために人道を踏み外す。そんなこと、奴は決して望まないだろう」

「倫理に悖る。大いに結構。キミを助けられない道など、歩みたくもないよ」

「……ああ、どこまでも不出来な坊やだ」

 そして二人は何も言わなくなりました。

 場内にキラキラと、光の梯子が差し込みます。高い天井を覆っていた暗闇が消え、並んだ天窓の向こうには星空が広がっていました。祭壇が柔らかく照らされ、男性の顔立ちが遠目からでもくっきりと見えます。それは焔魔堂病院で私達を案内してくれたスーパードクター未満のお医者様。加治先生の涙ぐんだ横顔へ、アナさんが声を掛けます。

「今夜は星がよく見える。……少し歩こう。あの頃のように」

 カツカツ、と。革靴をソールを響かせてアナさんが歩き出すと、加治先生も付き添います。そうして二人は祭壇の向こう側に消えていき――――。


 加治先生が不意に立ち止まりました。

「らしくない。……初めてだ。アナから夜警に誘ってくるのは」

「……私とて感傷に浸りたい夜ぐらいある」

「そうか。悪かった。――――もう見つけていたのだな」

 加治先生が呟いた途端、目の前のガラスに罅が入りました。円柱水槽に閉じ込められたグールが一斉に暴れ出したのです。無数の手足が、互いに引き千切れることも厭わず蠢く様は、巨大なミミズ玉のようでグロテスク。あちこちに入った罅は瞬く間に大きくなり、薬液が噴水のように漏れ出せば、そこから堰を切って粉々に。12基の水槽が一斉に割れました。

 押し寄せる死体の雪崩に背を向け、私達は駆け出します。

「やはりな」と加冶先生。

「逃げろっ、お前ら!」

 チラと振り返れば、加治先生を羽交い締めにして叫ぶアナさんの姿。まっすぐこちらを見据える彼女と目が合いました。――――訳が分かりません! しかし言われずともスタコラサッサです! 仄明るくなった場内、機材の隙間を縫い、配管やベルトコンベアをハードルのように跳び越えて一目散に出入口を目指します。薬液を滴らせるグールの群れは損壊が激しく、全く追ってこられないようでした。

 その脇で場内のあちこちに設けられた妖怪扉が弾け、一階から二階から、新手のグールが雪崩れ込んできます。

 次いで正面。二階から強烈なライトを浴びせられ、私達は怯んでしまいました。

 視界が戻るころにはスッカリ包囲されてしまい、最早逃げ場はありません。


「随分手を焼かせてくれたね。少し泳がせるつもりが、これほどとは。感心したよ」

 グールの群れが左右に分かたれ、加治先生が進み出てきます。

 アナさんは屈強なグール二体に両腕を抱えられ、宙ぶらりんの有様。

 口惜しそうに身動ぎしていますがグールはビクともしません。

「……加治先生、ですよね? これは一体どういうことですか?」

「ボヤけた質問にはボヤけた解答しか用意できない。キミは新聞部なんだろ? 鋭利な言葉を選びなさい。真意にメスを入れたいなら」

 まるで授業をするように、あの病院の廊下を歩いた時と同じように、加治先生は問い返します。周囲には腐敗した吐息を薫らせるグールの群れ。異常な光景の中にあって平時と変わらぬ姿勢を取れる理由はただ一つ。彼が、この状況の支配者だからです。

 受身では呑み込まれてしまう。弁舌の切っ先を研ぎ、立ち向かわねばなりません。

「……私の心臓を、何に使うおつもりですか」

「ほう。……理解の早い子は嫌いじゃない。――――芥屋照子。キミにはドナーになってもらう」

患者レシピエントが望んでいなかったとしても、ですか?」

 取り押さえられたアナさんに水を向けます。

「……その娘の言う通りだ。健斗。こんなことはもう止めにしよう」

「今更止まれるものか」

「……実は、嬉しかったんだ。お前が、私を治すために医者になると言ってくれた時。……だから、掛ける言葉が見つからなかった。人の医術では治せないと思い至って、塞ぎ込むお前に。諦めろと言えば梯子を外すことになる。……でも、言えば良かったな。……勝手に契約などして、魔人になって……。引き取り手のない死体を集めて。……道を外れていくお前に目を瞑ってしまった。……もっと早く、言ってやるべきだった。私はもう、十分幸せだったと」

「……似合わないことを言うな。キミはもっと、不遜な女だ」

「散り時を失った花ほど見苦しいものはない」

 屈強なグールを弾き飛ばして着地するアナさん。

「おい、バカ! よせ!」

「お別れだ、健斗」

 瞬間、周囲の影から無数の槍が飛び出してゴシックドレスの彼女を串刺しにしました。

 八方から串刺しになって掲げられる躯。

 流れ出す鮮血が、黒金の槍を染めていきます。

 あまりの出来事にその場の誰もが動けませんでした。

 ――――加治先生以外は。

 アナさんが貫かれるより一瞬早く槍の包囲へ飛び込んだ彼は、自らの右腕を犠牲にして、彼女の心臓を守ったのです。

 槍が煙と消え、力なく落下するアナさんの躯を受け止める加冶先生。

「何てバカなことを……!」

 全身から零れる血を抑えるように、力の限り抱き締めました。自らの流血も厭わずに。

「……これはエゴだ。分かってる。けど、でも、とめないでくれ。俺にはもう、キミしかいないんだ……。醜くても、惨めでも、良いだろ。そんなことは大した問題じゃない……」

 そして彼は自らの親指を噛み千切り、彼女の口に捩じ込みました。

「飲め。――――飲むんだ! アナマリア!」

 直視が憚られるほどだったアナさんの傷が、瞬く間に塞がっていきます。ボロボロのドレスから覗く無傷の白。……しかし瞼は閉じたまま。


 この隙に、と言いたいところですがグールの包囲は健在。とても逃げ出せません。

「……まだ、終わりじゃない。あの心臓さえ手に入れば」

 ゆらりと、加治先生はグールに掴まり立ちしました。直後、何もない空間から半透明の鞭が振われ、グールがバラバラに刻まれます。

「魔人となった今、生者の解体すら造作もない。……しかし、キミが大人しく心臓を差し出すなら佃耕太郎は助けてあげよう。もちろん他のお友達も。――――だから、その背中に隠した武器を捨てなさい。それは全員を不幸にする」

 ……私が自分の心臓を人質にすれば、取引できるかもしれない。そんな思惑も簡単に見抜かれてしまいます。

「電話の主は、女性かと思っていました」

「それはこういう声だったかしら?」

 加治先生の傍らに居たグールが流暢に喋りました。ピンク髪の女性は、生者と遜色なく挑発的に微笑み、私のスマホをちらつかせます。

「生きてる頃と何ら変わらないだろう? 彼女には、手をかけたから」


 彼は皮一枚で繋がっていた自分の右腕を千切り捨てました。

 背後から伸びた透明な管が、先程バラバラにしたグールを串刺しに。

 死体の筋繊維がほどけ、骨まで溶けて混ざって、一本の新たな腕が形作られます。

 関節部からは紫苑色の肉リボンが溢れ、イトミミズのよう。

 そのおぞましい断面を自分の傷口にくっつけると、肉リボンが本体側を食い破って縫合。

 加治先生は感触を確かめるように新しい右腕を動かしました。

 その手で反対側の袖を捲って見せます。

 赤い紋章。

 前腕に巻き付く蛇。そのような意匠の紋章がメラメラと輝いていて、ただの刺青タトゥーでないことは一目で分かります。

宝珠喰いルディクロの証を見たことはあるか? これが私の異能スキル。『縫合蘇生ブエルスター』だ。二つの素材を一つに繋ぎ、上の段階へ押し上げる。……キミが望むなら、心臓を抜いた体に換えを入れてもいい」

「それで生き返れるんですか?」

「保証しよう」

 平然と返す加治先生に対し、部長が立ち塞がりました。

「ダメだ。周囲を見たまえ芥川君。これらの継ぎ接ぎ死体スカーブが成れの果てだ。……フランケンシュタインの怪物に、生前の心が宿ることはない」

「……確かに、凡百の死体なら操り人形に成り下がるだろう。だが彼女なら或いは」

「い、いい加減にしてください! 私はただの人間です! 魔人とか、ルディクロとか、訳が分かりません! 私に特別な力なんてなにも――――」

 加治先生が腕を振った瞬間、袖口から飛びだした鋭利な管が私の額を貫く、数ミリ手前で止まりました。咄嗟に仰け反らなければ当たっていたでしょう。

「な、なにを……」

「見えているんだろ? これが」

 私の視線は鋭利な管の先に固定されていて、なにも否定できません。

「同族は良く分かる。院内で初めてキミを見たとき、驚いたよ。素晴らしい魔器マギだ。良い魔宝使いまほうつかいになれただろうな。私と違って」

「魔法使い?」

 私と同時に隣から声がしました。見上げた部長は、一瞬誰か分からないほど怖い目付きで。

「欲しいのは魔法使いの心臓なのか?」

「……部長?」と呼ぶ声は、彼の耳に届いていないようでした。

 私を刺し貫かんとする管を手探りで握りつぶし、強く手繰って。


「――――柚木ゆずき由枝ゆえを殺したのも貴様か?」

「……懐かしい名前だ。そうか、ここは彼女の管轄でもあったな」

「どうなんだ?」

 彼の体からは沸々と、得体のしれない気配が漏れ出していました。それが何かは分かりません。けれど、とても嫌な感じがして、私は彼の服を掴みました。

「あれは随分醜い死に様だった。掻き集めても使い物にならなかっただろうな。……もっと綺麗に死んでくれれば、今日まで策を弄する必要も――――」

 言葉が終わらない内に部長は殴りかかっていました。私の制止を振り切って。

 白衣が翻り、部長のパンチは空を切ります。引き替えに、加冶先生の拳が減り込みました。殴り飛ばされる格好でビタッと硬直する部長。

 幾本もの管が全身を貫通しているのです。

 手足も、肩も、胸も、額も……。急所という急所を刺し貫いた昆虫標本。

 管を引き抜かれると、血飛沫が切なく零れました。

 誰も彼もが、――――倒れる部長さえスローモーション。

 無音の世界で空気だけが苛烈に振動しています。

 生温かい血だまりの中、彼に縋って溢れる熱を塞き止める私の悲鳴だと気づいたのは、暫く経ってのことでした。

 それまで何度も彼の名前を呼びました。

 うまく回らない舌で罵倒も浴びせました。わがままも叫びました。

 けれど彼が答えることはなく、命の熱がめていく。その重さを、腕の中に感じていました。

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