2-3
ぐしゃぐしゃのパンフレットを握りしめて、彼女は会場へ足を踏み入れた。そこは夜のような静けさが蔓延していて、照明が街灯を思わせた。開演前のこの空気感を彼女は好いていた。
目いっぱいに呼吸をしてみる。薬っぽい病室のにおいとも、青臭い葉桜のにおいとも違う妙に懐かしいにおい。彼女はようやく自分の居場所に戻ってきた気がした。
彼女は会場を一瞥したが、クジラさんは見つからない。
観たいと言っていたはずなのに。
扉側の席に腰かけて改めて見回すと、彼女と同年代くらいの人ばかりであった。
部員の誰かの友達だろうか。いや、新入部員かもしれない。もしかしたら座っている人の多くがそうかも。
彼女は入院していた為、一年生が分からない。座っている彼らは、めいめい彼女に視線を投げつけたりしている。少々落ち着きがない。
彼女は視線が向けられるたび、僅かな高揚感が心に生まれていた。彼女はその高揚を明確に感じ取れておらず、感覚を言葉や気持ちに出来ずに、ただ違和感を覚えるだけだった。それゆえ彼女もまた、彼らと同様に落ち着きがない。
パンフレットを広げて眺めた。大きな文字で『夜桜鑑賞会』とタイトルが書かれたそれは、少し変だった。パンフレットには劇に携わった全員の名前が書かれているのだが、表には出演する役者四人と、照明スタッフの一部。裏に、残りの照明スタッフ、受付スタッフ、脚本・演出の名前。キャッチコピーもここに書かれている。
『夜の桜を前に、五人は何を思う――』
問題はなぜ照明スタッフを表裏にわたって書いたのか。そこが分からなかった。文字を小さくするなりして、何もかも全部表に書けばよかったのに。彼女は何度も首をひねる。
ぼやけた視界でステージを眺めやっていると、突然の暗転で視界から全てが消えた。かと思うと、すぐさま足元が青く光りはじめる。上からは、ピンクの光が降り注いでいた。
上手から武田が出てきた。
やけに緊張感をまとっている。いつもより表情が硬い。
「申し訳ありません。ただいま脚本の羽賀が不在ということで、開演時間を少し遅らせます」
申し訳ありません、と再度謝り腰を曲げる。観客がわざとらしくざわつきはじめた。
彼女は状況に困惑するばかりだった。申し訳ありません。申し訳ありません。武田の言葉が脳内を駆け巡る。
何が申し訳ないのだろう。
彼女は気がかりだった。パンフレットを見た限りでは、役者にハガちゃんの名前はなかった。つまり、脚本なんて居なくても劇は回る。開演を遅らせる必要がない。探す必要がどこにあるだろうか。
実はハガちゃんも役者だったとか。そうだといいけど。
そのうち、武田以外の役者もぞろぞろと舞台に出てきて、四人で何かを話している。四人とも張り詰めた表情をしていたが、ふと武田が左耳をいじったのを、彼女は見逃さなかった。
武田、まさか楽しんでる? ハガちゃんが行方不明のこの状況を。
次第に観客たちから、冷ややかな声が生まれはじめていた。
「羽賀さんって、そんなことする人なんだー」
「せっかくの休日なのに」
「こんな小さな公演だし、やる気出ないんじゃない?」
これら話し声は、みんな彼女の耳にすべり込んできて、彼女を突き刺した。彼女は、羽賀を悪く言われるのだけは許せなかった。苦いものが喉奥からせり上がってくる。
彼女はふと妄想に浸る。
もし、突然舞台に立って言い返してやったら。
「あの子がいないのは必ず理由があるはずだし、他に予定があるなら帰ればいいし、どんな公演でも全力で演技をするのが羽賀さくらだ。今に見てろ、見つけ出してやる」
きっと、楽しい。
彼女がこの時感じた楽しさは、人に反論を述べる楽しさではなかったが、彼女は気付かない。ただ、この時感じた高揚で彼女の頭は冴えはじめていた。
「な、お前さ、羽賀さんの行きそうな場所とか、分かる?」
武田は振り返って彼女に尋ねる。
「今、考えてる」
「今日、一緒に来たんだろ? 何か変なこと言ってたりした?」
「さあ」
彼女は周りをなめ回すように観察する。隅から隅までこびりつく「ぎこちなさ」がうざったい。照明、観客、役者。目の前に違和感がゴロゴロ転がっている。全部解き明かしたい。気分は探偵役だった。
問題は羽賀が消えたことだが、彼女は外堀から埋めていくことを選んだ。真相に繋がるか定かではないにしろ、この公演はおかしすぎる、と彼女は感じていた。
脚本がいないだけで騒ぐこともないし、役者四人が舞台に出て話しているのも疑問。照明スタッフは突っ立って浮かない顔をしている。裏方の誰かが探し回っているのだろうか。
彼女は肌に感じた違和感を思い切って投げつけてみた。
「武田、なんで照明わざわざ付けてるん? 青とピンク。普通に電気を付ければいいのに」
「あー、壊れてるんじゃね?」
嘘だと気付いていたが、彼女は問い詰めることはなかった。武田は何かを知っていて、しかし口を割るつもりはないだろう、と彼女は確信していた。
足元に青。頭上にピンク。
――照明は「夜桜」の色。
これは「ぎこちなさ」とは違うのだが、彼女は廊下側の席だったため分かることがあった。彼女が入室してから廊下を歩く音は聞こえていない、ということだ。近くには受付のスタッフもいるため、羽賀の目撃情報がないというのが不思議でならない。控え室から出るには廊下を通る以外ない。
彼女は手元のパンフレットの存在を思い出す。それは「ぎこちなさ」を形成する一部だった。名前もキャッチコピーも含め全て表だけでまとめられる文量である。
……にも関わらず、裏を使っている。
彼女は紙を何度も裏返す。同時に頭も回るような気がして。
なぜ照明スタッフを表と裏にわたり書いたのだろうか。
――また照明か。彼女はうなり、天井を仰いだ。桜色の光が彼女を染め上げんとばかりに降り注いでいる。
相変わらず、「ぎこちなさ」は鳴り止まない。
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