人魚の病

ふーる

最期の一日

「私ね、あとちょっとで死んじゃうの」

夕暮れ時の土手で立ち止まり、不意に彼女はそう呟いた。彼女の顔は夕日に照らされて眩しく、ハッキリとは見えなかった。

「また、僕をからかっているの?」

そう尋ねたものの、薄々そんな予兆はあった。


僕が彼女と話していると、時々上の空になって適当な返事すらしない時があった。

「どうしたの」

そう尋ねたが、彼女はハッとしたように僕の方を見て、ゆっくりと首を横に振った。

なんでもない、と。最近それが僕と話す時の彼女の口癖だった。

彼女に元気がない時、僕は何度か問い詰めたことがあった。一体何に悩んでいるのか、何故そんなにも何かを隠そうとするのか。彼女はふと真剣な顔になって、「最近かなり太っちゃって…」と誤魔化した。

僕はそれが嘘ってことくらいわかっている。でも、無理に聞いて彼女を傷つけることもしたくなかった。だから今まで、ハッキリとした答えを聞いてこなかった。

それなのに急に寿命があとちょっとなど曖昧な表現で、どうやっても信じられないことだった。

「ふざけるなよ、また嘘ついてさ」

ギュッと拳を握りしめ、僕は真っ直ぐに彼女の顔を見た。彼女は僕と目を合わそうとしない。

「嘘じゃないの。本当に、あとちょっと。数時間」

彼女の制服のリボンと長い黒髪が風に揺れる。サーサーと草の擦れる音だけが無言の時間を埋める。

「なんで、あと数時間しかないんだよ」

僕の声は明らかに震えていた。動揺して、どうしようもなく困っていて、それでも何か言わないと彼女がどこかに言ってしまいそうで、ようやく絞り出した。その言い方は彼女を責めるようになってしまったかもしれない。

「私と話してる時、すっごい君は笑顔なんだよ。もう少し、もう少し君には知らないままで、って。そしたら、あっという間」

足元の石を蹴り、彼女は口元に笑みを浮かべる。やはり、僕の方を見ようとしない。夕日に照らされ、眩しいままの横顔しか、彼女は見せてくれない。

「あぁ、心の底から君と話せることは楽しいし、嬉しかった。だからこそ、僕は君に全てを話してほしかった。僕が君に全てを話したように」

彼女は目を伏せ、短く息を吐いた。一瞬だけ僕の方に視線を向けて、すぐ俯いた。

「君が全てを話してくれたのは、とても嬉しかった。でも、やっぱり君の悲しむ顔を見たくなかったの。だって、今みたいなそんな泣きそうな顔を見ちゃったら私、どうにかなっちゃいそうだから」

僕は耐えきれなくなって、彼女にそっと近づいた。必ず目を合わせてもらえるように。潤んだ目だって、ボサボサの髪だって、どんな姿でもいいから、目を合わせてほしかった。

「僕は君が何も言わずに消えてしまうのは、嫌だ」

彼女の手を取り、ゆっくりと引っ張る。彼女の顔が僕の方に動いた。決してその目を動かさせないように、また彼女との距離を近づける。

「人魚姫のお話知ってる?」

小さい頃によく読んだ【人魚姫】の話。王子に恋をした人魚は魔女と契約し、声を失う代わりに足を手に入れ王子に会いに行った。しかし、王子は別の女性を愛してしまっていて、人魚は他の人魚たちから短剣を渡された。それで王子を刺せば、貴方は泡にならなくて済む。しかし、人魚は恋をした王子を刺すことなどできず、最後には海の泡になってしまった。

「知ってるよ、もちろん」

彼女の手を離し、土手の草むらに座る。彼女も同じように、僕の隣に腰を下ろす。


「私もね、そんな風に泡になって消えちゃうみたい」

笑いながら言う彼女を横目に、彼女の言葉の意味を考える。しかし、いくら考えてもその言葉通りの意味しか考えられなかった。

「つまり、君は人魚姫ってことか」

「まぁ、そんな感じ。塩水に触るとダメみたいで、泡になっちゃうみたい」

ゆっくりと彼女は足を伸ばし、暗くなり始めた空を見上げる。頭上にはまだ白い月が浮かんでいた。

「少しなら触っても大丈夫なの?」

「んー、多少はね。体の半分以上が浸からなければ大丈夫じゃないかな、そんな気がする」

深刻な問題のはずなのに、彼女は楽観的に見ているような気がした。少し腹が立った。

「医者には行ってないの?」

「行ったよ。行ったけど何一つわからない。だから私は死ぬことにしたの」

僕の中で何かが弾けた。勝手に体が動いて、気づけば彼女をそのまま草の上に押し倒していた。

「…諦めたのかよ」

「諦めたって、何を?」

彼女は動揺した様子もなく、そう言った。

「なんで…死ぬんだよ。生きろよ、なんでだよ、おかしいだろ、そんなの!」

視界がボヤけ、ツーンとした痛みが鼻にくる。ポタッと彼女の顔に雫が落ちる。

「死ぬことって、諦めることなの」

彼女は僕の目をまっすぐと見つめた。めったに見ない怒ったような目付きに思わず萎縮してしまう。

「だってそうだろ、死ぬなんて最終的な選択だ。他にもいっぱい――」

彼女は僕の言葉を遮って口を開いた。

「私にはほかの選択肢なんてなかった。誰も解決しようなんて思ってくれなかった。親ですら私の病状を聞いた時に驚くことすらしなかった」

僕を見つめる彼女の瞳には薄く涙が浮かんでいた。僕ら以外誰もいない土手で、数秒間無言の時間が経つ。

「それなのに、君はなんでそんな悲しい顔をするの…?泣かないでよ、泣いてほしくないよ」

彼女は笑いながら泣いていた。目の端から涙が伝って落ちていく。

彼女はそっと僕の目元を指先でなぞる。いつの間にか涙が溢れて止まらなくなっていた。

「君が僕に泣いてほしくないように、僕も君に死んでほしくないんだ」

「まるで君は私のことが好きみたい」

おどけながら言う彼女の頬は微かに赤くなっていた。

「あぁ、僕は君が好きだよ」

そっと彼女の体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。

「だから、最後に海に行こう」

繋がっていない僕の言葉に、彼女はにんまりと笑った。うん、と頷き、僕の手を取る。

「行こう。私と君の最後の思い出作りに」


残りの数時間の寿命を、彼女と僕は暴れて過ごした。砂浜を走り回り、山を作り、砂に埋まった。

疲れ切って砂浜に寝転がり、荒い息を吐きながら満足そうに笑っていた。

「ありがとう、最後の日はすっごい楽しかった」

汗に濡れた彼女の顔は、所々小さな泡があった。

「いいよ、僕も楽しかった」

彼女はよっこらせ、と起き上がり、海に近づいていった。

外はとっくに暗くなっていて、見上げた空には黄色く光っている月が見えた。

「じゃ、行くね」

彼女はそっと浅瀬に足を踏み入れた。動かしてもいない足元からポコポコと泡が上がる。

「好きな人とこんな所で別れるのはごめんだよ」

僕も同じように浅瀬に入り、彼女の隣に並ぶ。

「何言ってるの、来ちゃダメでしょ」

「いいんだよ、僕の選択だ」

膝が浸かる所まで歩き、彼女の方へと振り返る。

「最期まで一緒でも悪くないだろ?」

泣きそうな彼女の顔を見ると、つられて僕も目に涙が浮かんでくる。雑に目を擦って口元を緩める。

「バカみたい」

バシャバシャと水飛沫を立て、彼女は僕の元へ駆け足でやって来た。強く手を握り、同じように深い海に足を踏み入れる。

「本当にいいの?」

「いいの」

倒れ込むように僕と彼女は深い海の底へと落ちていく。

目を開けると、急速に彼女の体が泡に変わり、海上へと上っていく。

既に姿を確認出来ない彼女を抱きしめ、僕の意識はゆっくりと消えていった。

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人魚の病 ふーる @hu-ru

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