Ⅹ アリスとエリア (4)

 乱暴に牢に投げ込まれると、すぐに兵士が牢の鍵を掛けた。そして牢の番人に「こいつを監視しろ」と怒鳴りつけている。そうしないと自分がどうなってしまうか分からないという恐怖から出るものなのだろう。


 (逃げ出しなんて、しないのに)


 そんなことを思いながら牢の中に視線を落とす。本当に何もないな、と思った。しかしそれでもかび臭く、ある意味当然ではあるが掃除も何もしていないようだ。もしかしたら牢の中の掃除は囚人自ら行うものなのかもしれないが。


 「うう、暗いよぉ怖いよぉ」


 若い青年の声が聞こえた。耳を澄ますと他にも色々な声が聞こえてくる。そのどれもが苦しい、辛い、怖いといったものだった。国民の苦しむ声を聞いて、エリアは胸が痛くなる。


 「何があったというの、アリス」


 エリアはポツリと呟いた。エリアの知っているアリスはもっと優しく聡明で強い女性だった。人の気持ちになって物を考えられるような、まさに王の器にふさわしい人物であったはずだ。それこそ彼女が目標としていた亡き父サードレアンのように。

 人間の心の闇に巣食うという邪竜。それも、今アリスの中にいる邪竜はかつてエリアの中にいたといわれるものだ。つまりその頃に、エリアよりも激しい負の感情がアリスを支配したに違いない。具体的な時期は分からないが、恐らくブラシャルの悲劇のすぐ後ぐらいであろう。そうすればこのアリスの暴走のタイミングと重なる。


 「でも、どうして」


 邪竜により負の感情が増大しているとしても、その根源にある感情は間違いなくアリス自身が感じていたものであるはずだ。ここまでアリスが狂気に染まるのは一体何故なのだろうか。


 「お義母様……ううん、リアナさんを何故追放したんだろう」


 エリアは既にこの城から離れた彼女を義母と呼ぶことをやめにした。こんな形で終わりを迎えるとは思わなかったが、もう彼女と顔を会わすことはないはずだ。もっとも、このままではこの牢の中で寂しく処刑されるを待つだけなのだが。

 しかし、どうしてアリスが自らの母であるリアナを追放するという行動に至ったのか。これも邪竜の支配によるものなのか。いや、それとも別の……。


 (むしろ、リアナさんとの関係が原因でアリスが暴走した?)


 少し突拍子もない考えのように思えたが、既に父サードレアンが逝去していることと、それから少しの間、アリスは素晴らしい王になれると思っていたという城下の母親の話は矛盾しないではないか。しかしリアナはアリスの事をとても愛していたはずだ。


 「どういうことだと思う?シュラ」


 エリアはそう言って横を振り向いた。

 そこには何もなかった。あるのは話すことのない虫がカサカサと歩いている苔の生えた壁だった。


 「そう、か」


 自分の考えがまとまらないとき、迷いそうなとき、この半年間ずっと一緒にいてくれたシュラに頼る事が出来た。しかし今はもうシュラはいない。もう、きっと会うことはない。そう決意した、はずだった、のに。


 「そ、うだよ……ねぇ」


 エリアは自分の頬に涙が伝っていることに気付いていた。急に寂しいという感情が湧いてきた。この狭く薄暗い牢の中で、聞こえるのは他の牢に囚われた人の嘆く声だけのこの空間で、今まで忘れていた孤独を思い出してしまった。

 一度手に入れたものを失ってもう一度同じものを味わう事。それがこんなにも辛く苦しいことだとは思ってもみなかった。ただ、近くにシュラがいて欲しかった。


 「ずっと、助けられていたのは」


 今までの旅を思い出す。最初は意見が合わなくて、怖い風貌のシュラに対して心を開くことが出来なかった。ずっと嫌われないようにと見苦しく立ち振る舞っていたことを思い出した。そして星空の輝く夜で自分のことを話してくれた彼は、一匹の竜から一人のシュラに変わっていった。

 ずっと、旅をしていく中で彼の弱さを知っていった。本当はずっと父親との関係に囚われていた。それはエリアにとってシュラをもっと身近に感じさせてくれた。シュラが時折父親の事を悪く言うとき、同時に寂しいという気持ちが隠されていることをエリアは良く知っていた。何故なら自分もペンダントを握ると、楽しかった記憶と、もう戻らないという孤独を味わっていたからだ。シュラが父親の話をしてくれた夜、エリアは寝る前にペンダントを眺めていた。

 今思えば、自分が邪竜に支配されていた時も、常に心配してくれていたのはシュラだった。きっとシュラがいなければ、自分はチコを救うためにあの島の人の命を奪うという選択肢を取っていただろう。そして生涯苦しみ続けたはずだ。世界で最も忌むべき存在として、自分自身を。シュラが自分を救ってくれた。

 父親の事を知って混乱しているシュラに対して力になりたいと思った。そしてシュラなら困難を乗り越えていける強さを持っていると知っていた。誰よりも彼が強いことを知っていた。


 「シュラ」


 エリアは呟く、もう会えない、生涯最高のパートナーの名を。


 「シュラぁ」


 エリアは涙を拭いながらその名前を呟く。あの時シュラは必死でエリアを止めようとしてくれた。最初にした約束を大事にしていることが分かった。本当は自分もその約束を果たしたかった。


 「シュラ……ぁ」


 それでも、この道を選んだ。忘れたはずのこの国が苦しんでいるのを知ってしまったから。シュラが里の皆を想うように、エリアの中にもこの国の民が苦しんでいるのが嫌だという気持ちが生まれたのだ。それがどうしてなのか、どうすれば良いのか、分からない。でもその気持ちが本物であることは間違いなかった。だから辛い。

 大切な存在と離れることで、自分のしたいことが見つかった。でもどうすればいいのか、聞くことの出来る友はもういない。

 再び、孤独と再会を果たしてしまった。


 何もせずに天井を見上げているだけだったが、それでも腹は減るようで、エリアはグウとお腹を鳴らした。思えばこの牢の中で、どれだけの時間が経ったかは分からない。既にエリアの後にも五人ほど牢に入れられていた。


 「いかがでございましょうか」


 そう言って牢の隙間からスッと差し出されたのは、ずっとエリアがこの城で食べてきた料理長の作る美味しくはないが癖になるスープだった。懐かしい匂いに思わずエリアは腕を伸ばす。


 「いただきます」


 このスープを差し出してくれた人物を確かめるより先にエリアはスープに口を付けた。ゴクゴクと飲み干して皿をプレートに戻すと、エリアはスープの送り主の顔を見た。そこにいたのは白髪交じりだが、まだ血色がよく、元気そうな老人だった。


 「バ、バルド?」


 かつてエリアがまだサーファルド城にいたころ、ずっと世話になっていた執事だった。バルドは目を細めて嬉しそうに「ご無事で何より」と恭しく頭を下げた。


 「バルドは無事だったのね」


 バルドの微笑みにエリアの心もいくつか救われたようで、ホッとした表情を見せながら尋ねた。バルドは大きく頷いた。


 「私はなんとか」


 流石にあんなふうになってしまったアリスでもバルドに感じていた恩は忘れてはいないみたいだ。エリアはフウ、とため息を吐いた。


 「しかし、良い食べっぷりでしたな。まる一日何も口にしていないのですから、当然と言えば当然でございますが」

 「まる一日?」


 時間の感覚が麻痺する空間にいたのだな、とエリアは再確認する。もうそんなに時間が経っているとは思いもしなかった。


 「エリア様、心配したのですよ」


 バルドの言葉が、牢に閉じ込められている現状の事を言っているのか、それとも死んだことになっていたこの半年間の事を言っているのか。エリアは一瞬考えたが、バルドの真面目な表情はその両方を物語っていた。


 「ねえ、バルド」


 エリアが声を掛けると、バルドはすぐに姿勢を正した。


 「いかがいたしましたか、エリア様」


 執事だけあって、その所作が見事なものだった。久しぶりに見たバルドは、どこか雰囲気が違って見えた。しかし、変わったのはバルドではなく自分の見る目なのだろうな、とも思った。


 「アリスに一体、何があったのか分かるかな」


 エリアがそう尋ねると、バルドは顎に手をあてて考え始めた。そして「まずは」とひと呼吸置くように言った。


 「話すべきは、リアナ様のことかもしれません」

 「リアナ、さんの?」


 双方驚いた表情を見せた。バルドはエリアが「義母」と呼ばなかった事、エリアは――頭の片隅にはあったが――アリスの暴走に深くリアナが関わっているという事に対して、驚きを見せた。

 先に落ち着きを見せたのはエリアだった。


 「どういうこと?どうしてリアナさんが」


 エリアがそう言うと、バルドはゴホンと咳ばらいをした。


 「まず、エリア様はリアナ様の旧姓をご存知でしょうか?」

 「ううん、知らない」


 エリアが生まれた時には既にリアナはサーファルドの姓を名乗っていた。名と姓の間に繋ぎ名――王族は名前と姓の間に、二つを繋ぐための名前を付ける。基本的に出生時に父親が決める文化――があることから、王族ではあることは確かだったが、それでも旧姓を聞いたことはない。


 「リアナ様はかつて、リアナ・ティアラ・フィクテスという名を名乗っておられました」

 「フィクテス?」


 エリアは首を傾げた。聞いたことのない姓だ。王族の出である事から考えると国の名前であるはずだが。


 「知らなくても無理はないでしょう。アリス様とエリア様が生まれた時には既に存在しない国だったのですから」


 エリアはバルドの言おうとしていることの見当がつかなかった。しかし、それはバルドも想定済みなのかすぐに話を進めてしまう。


 「フィクテスは元々カーレス大陸にある国の一つで、サーファルドの隣に位置する同盟国、でした」

 「でした?」


 過去形の言葉にエリアは違和感を覚えたので尋ねた。


 「百年の昔より築かれてきた同盟関係はサードレアン前王の父君、つまり先々代国王陛下の侵略……フィクテス側からしてみれば同盟破棄の裏切り行為によって、国は滅ぼされてしまったのです。それはまさに焼け野原と言える悲劇の光景でした」

 「どうして裏切りなんて……?」


 エリアが尋ねると、バルドは首を横に振った。


 「他の大国と争えるだけの領地が欲しかったのです。今となっては考えられないことですが、当時はいつ戦争が起こってもおかしくない時代だったのです」


 エリアは戦争、というものの想像が付けられなかった。しかし、かつてガルファンクもローラも、あのロカでさえ何かの形で戦争に関わっていた。今の時代を生きる彼らでもどこかで戦争に携わっているのなら、昔は更に戦争が身近だったのだろう。


 「しかし、その焼け野原の中、一人だけ涙を流して当時の国王陛下を睨んでいる赤髪の少女がいたのです。そして国王陛下はその娘だけは殺すなと兵士たちに言いました」

 「少女?」


 エリアは尋ねた。


 「その少女は元々次代の王となる当時十にも満たないサードレアン様に嫁ぐとして婚姻を約束されていた、フィクテスの幼い姫君だったのです。サードレアン様の奥方にするため、危害を加えずに城に連れてくるよう仕向けた国王陛下をずっと睨みつけていたのが忘れられませんよ」


 そこまで聞いて、エリアはまさか、と口を開いた。


 「それが、リアナさん?」


 バルドはコクリと頷いた。

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