Ⅷ 帰るべき場所 (4)

 部屋につくとニーシュはバタン、とベッドに倒れ込んだ。今日はとても疲れた、という言葉が自然と口から出てきていた。


 「本当に、疲れた」


 自分の中にあるこれで良かったのか、という思いが消えようとしない。キャロルの記憶は脳裏にはないが、不思議と懐かしさと愛おしさを覚えた。キャロルが嬉々として話していた昔の自分についても、何故か身体が覚えているような気がした。頭の中のモヤモヤは晴れないが、少しずつ奥にある景色が見えるような気がしていた。


 「ちっ」


 ニーシュは舌打ちをすると、ベッドから起き上がる。そして、これで良いのだろうかと自問した。キャロルはニーシュとなった自分も受け入れてくれるだろう。暗殺者として過ごしてきたという事実も、昔の話だから、と割り切る努力をしているように思う。何よりも本質は昔のファルサのまま、だと思っているらしい。


 「俺は……」


 そう呟くと、不意にドアがノックされた。「誰だ」とニーシュが尋ねると、中に入ってきたのはエリアだった。


 「ニーシュさん、お時間ありますか」


 エリアは突然そう尋ねた。


 「お散歩、しましょう」



 ここから見る月は綺麗だな、とエリアは空を見上げた。心地よい虫の音色と遠くからはカエルの声が聞こえる。今まで訪れたどんなところよりものどかで、落ち着きのある場所だな、とエリアは感じていた。


 「何故、突然呼び出すような真似を」


 ニーシュは視線をエリアに向けずに言った。


 「差し出がましいかもしれないですけど、心配になったから」


 エリアは確かな声でそう言った。その言葉を聞き、ニーシュはフッと笑った。


 「心配、されるとは思わなかったな」


 そうお茶を濁そうとするニーシュだが、エリアはジッとニーシュを見つめている。観念したように、ニーシュは笑った。


 「恐らく俺は、この村の出身で……キャロルの言う通り、彼女の幼馴染だったんだろうな」


 ニーシュは腕を組みながら言った。


 「先ほどの夕食の時、彼女が俺に言った言葉を覚えているか」


 不意に尋ねられたエリアは「えっと」と言葉を発した。

 つい先ほどの会話を、キャロルの言葉を思い出した。



 「ファルサはこのあとどこかへ旅に出る予定あるの?無いんだったら、昔みたいに一緒に暮らそうよ。もしまだ何かをする必要があるなら、終わったら一回は帰ってきてね」



 そう言っていた、とエリアは思い出した。あの瞬間のキャロルは顔を赤くして、年齢よりも若く見えた気がした。


 「彼女は俺に帰ってきてくれと、言った。だが、俺は」


 ニーシュは自分の手を眺めた。まるで何かが付いているかのようにまじまじと見つめている。


 「俺は、何人もの人間を殺してきた。帰るべき場所がある人を。帰ってくれることを望まれている人の命を殺してきたんだ」


 ニーシュの声が震えていることにエリアは気付いた。ニーシュは戸惑っているのだ。


 「確かに褒められるような人間ではないと思う奴も多かった。だが、そんな奴でも友がいるし、もしかしたら家族を持っていたり、愛してくれるパートナーとなる人がいたりしたのかもしれないんだ」


 ニーシュはそう言うと、自分の顔を覆った。


 「全て失ったと思っていたから、他人から奪う事が出来たんだ。自分にも何かがあると少しでも思ってしまったら、奪ってきた事実が、ひたすら重い」


 そう言うと、ニーシュは歩みを止めて空を見上げた。


 「少しだがキャロルと接して、記憶こそ取り戻せないが……それでも決して嫌ではない時間を過ごした。失って変わってしまったであろう自分を受け入れようと努力している姿は、自分を救ってくれるかもしれないと、思った」


 エリアは一歩踏み出す。そしてニーシュに声を掛けた。


 「それなら、もう答えは決まっているんじゃないですか?だって、キャロルさんは一緒にいることが苦痛にならなくて、過去を知っても構わないってことですよね」


 エリアがそう言うと、ニーシュは首を横に振った。


 「その優しさに溺れてはならないんだ。俺は幸せを求めていい人間じゃない」


 そう言うとニーシュは再び歩き出す。気付けば夜の闇は更に深くなっていた。


 「ニーシュさん。いえ、ファルサ・アミニオン」


 エリアの声に、ニーシュの歩みが止まった。


 「あなたは、怖いんですよね」


 エリアの真っ直ぐな視線をニーシュも逃げることなく見つめ返した。


 「……怖いさ」


 ニーシュは素直に自分の感情を吐露した。


 「ここが、俺の辿り着く場所だったのか、と思う気持ちが強くなるほどに怖くなる。本当にこの優しい場所に甘えて良いのか、と。今まで生きてきた環境とは全く違う。奪う生活ではなく共に支え合う生活になるのかと、考える。それを望んでいる自分を許して良いのか分からなくなる」


 それが怖い、とニーシュは最後に付け加えた。エリアはそのニーシュの姿を見ると、一歩前に出てニーシュに近付いた。


 「私はこの旅を通して、なんとなくだけど分かったことがあるんです」


 エリアがそう言うと、ニーシュはその答えが何なのか、思案しているように見えた。


 「人は、何かを望んでも良いんじゃないかって思います。出会ってきた人たちは皆、何かを背負っていましたけれど、それでも何かを望んで生きていたように思えます」


 言っているうちに、エリアは少しだけ表情を曇らせた。


 「私は本当に何も、なかったけれど」


 ポツリとそれだけを言うと、すぐに顔を上げた。


 「でもあなたがニーシュさんだとしても、ファルサさんだとしても。望んでいることがあるのなら、それは否定しなくても良いんじゃないかと思います」


 エリアがそう言うと、ニーシュは……「ファルサ」は何かを考えるように足元を見つめた。


 「望むものがあるのなら、か。それは光なのだろうな」


 そう言うとファルサは何かに納得したかのように笑顔を見せた。


 「お前の言う通りかもしれない」


 ファルサは憑き物が落ちたかのような顔で来た道を振り返った。


 「帰ろうか、そろそろ」


 エリアは頷いた。何となくだが、ファルサが何をするつもりなのか分かったような気がした。


 家の外には心配そうに辺りを見渡しているキャロルの姿が見えた。青い顔をしながらまるで誰かを探しているかのようだった。


 「じっとしているのが苦手みたいだな」


 ファルサはそう言って少しだけ笑うとキャロルの下へ歩き出した。エリアもゆっくりとそれに続いていく。

 足音に気付いたのか、キャロルはファルサたちに視線を向けた。さっきまでの焦燥は綺麗さっぱりなくなって、安堵の表情を見せる。しかし、急に唇をキッと結ぶとスタスタと大股でファルサに近付いてきた。

 二人の視線は交差しながら、徐々に近付いていく。二人の顔はすぐ近くになった。


 「馬鹿」


 急にキャロルが涙声で言った。ファルサも意外な言葉に思わず「え」と返答してしまう。しかし、キャロルはその一言がきっかけになってか、まくし立てるように一気に言い放った。


 「心配したのよ!急にいなくなって、またどこかへ行っちゃうんじゃないかって。また何も言わずにどこかへ行って、もう二度と会えないんじゃないかって」


 言っているうちにキャロルは大粒の涙をボロボロと流し始めた。ファルサはどうしていいのか分からずにオロオロしている。エリアはポケットの中を探るとハンカチがあったので、それをキャロルに手渡した。


 「ずっと辛かった」


 涙を拭いながらキャロルはそう言った。


 「一人にさせてしまったことか」


 ファルサは申し訳なさそうにキャロルに告げた。しかしキャロルは首を横に振って「そうじゃない」と言った。


 「あなたが無事だとずっと信じていたから。それだけでこの十年間頑張ってこれた。くじけそうになったこともあるけれど、今日という日を迎えられたもの」


 ハンカチを顔から放してファルサの目を見つめる。少し目は赤く充血していた。


 「あたしが辛かったのは、旅立つ時あたしに何も言ってくれなかったから」


 キャロルの告白に、ファルサは戸惑いの表情を見せた。


 「でも、確か夕食の時、騎士になると言って飛び出したって」


 エリアが口を挟むと、キャロルは顔を伏せた。


 「ある夜、ファルサが姿を消したの。何も言わずにね。そして次の日の朝、今と同じようにずっと探していた。そうしたら村の友達が教えてくれたの。昨日騎士になると言って深夜に村を出て行ったって」


 ファルサはそれを聞いて、思わず手のひらを額に置いた。


 「理由の察しはつくが、記憶を失う前の俺も褒められたものじゃないな」


 多分、ビックリさせたかったのだろう。子どもだった時のファルサはすぐに騎士になってツァーリンに戻ってくることが出来るはずだと楽観的に考えていたのかもしれない。希望と夢だけを見ていて、近くにいる人の気持ちを考えられなかったのだろう。


 (だが、それは今の俺には図ることは出来ない)


 ファルサは心の中でそう呟いた。


 「だから、本当は言いたいことが沢山あったの。でも帰ってきてくれたことが嬉しくて、あたしはご飯をつくって、また今までのように過ごせるのかなって。また、旅立っちゃうにしても」


 そこまで言うと、キャロルは一度言葉を区切った。そして一息入れてから、小さく言った。


 「今度は、ちゃんと帰ってくるって、約束してくれるって」


 キャロルはそこまで言うと、地面に座り込んだ。ファルサもそれに倣うように膝をつく。


 「さっきの夕食でも言ったな」


 ファルサはキャロルに言葉を掛けた。キャロルは顔を上げて次の言葉を待った。


 「俺は、記憶が無いんだ。今までこの村にいたという事実も、キャロルと過ごしたという昔の思い出も、何も残っていない。心の何処かで懐かしいと思うし、身体が昔のことと関連付けようとしている感覚もあるんだが、それでも俺には十年前のことが鮮明に思い出せるわけじゃない」

 「だとしても、ファルサはファルサだよ」


 キャロルが口を挟んだ。しかしファルサは首を横に振る。


 「俺はこの十年間、ずっとニーシュだったんだ。ニーシュという名前で多くの人を殺してきた。もっと生きたいという奴も殺してきたし、故郷に帰りたいという奴も殺してきた」


 ファルサは、両手をキャロルの両肩に載せた。キャロルは驚きこそはしたものの、その手を払う事はなかった。


 「キャロルの肩に置いたこの手は、血塗られた手だ」

 「それでも、あたしにとってはファルサの手だよ」


 キャロルはハッキリとそう言った。


 「俺は帰るべき場所がある人を殺してきた。そんな人間が帰るべき場所を見出して良いのだろうか」


 それはきっと、キャロルに向けたものでも、エリアに向けたものでもない、ファルサの心情だった。それを不意に口に出てしまったことを後悔するも、キャロルの耳には届いていた。寂しそうな顔をするキャロルを、ファルサは直視出来なかった。


 「そんなの、良いに決まっているじゃない。誰にだって帰るべきところはあるんだよ」

 「だが」


 ファルサはキャロルの優しさに甘える事が急に怖くなった。そう言って目を逸らそうとするが、キャロルの視線はそれを許してくれそうになかった。


 「理由つけて苦しまないで。正直あたしは人を殺したことないから、ファルサの悩みも苦しみも分からないよ。あたしの知らない十年間でファルサがどんな想いをしてきたのか、想像もつかないよ」


 キャロルは再び涙を滲ませた。しかし今度はエリアから渡されたハンカチで涙を拭うことはしなかった。


 「だから、あたしに教えてよ。苦しいならあたしも背負う。ファルサがニーシュとして苦しんできた十年間を、あたしにも背負わせて」


 キャロルの提案に思わずファルサは言葉に詰まった。「駄目だ」と言うだけなのに、不思議な迫力がキャロルにはあった。


 「そして、ファルサはあたしの寂しかった時間を埋めてよ。この十年間ずっとファルサの無事を、毎晩願っていたの。夜を長いと感じることもあった」


 エリアは、キャロルの苦しみが言葉から伝わってくる、と思った。気付けば自分の頬を涙が伝っている。


 「二人で、二人の知らない十年間を埋めて行こうよ。同じく十年かけて互いをもう一度知っていこう。そしてまた十年かけて今まで出来なかったことがしたいよ。あたしは……」


 そこまで言うと、キャロルは言葉を詰まらせた。するとファルサがキャロルをギュッと抱きしめる。


 「俺は……」


 ファルサは、胸にキャロルを埋めたまま、言った。目には涙が滲んでいた。


 「光を見つけたようだ」

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