Ⅷ 帰るべき場所 (3)
「この辺のはず、なんですけれど」
エリアは村の人からもらった地図を頼りに、キャロルの家を探していた。村の中心部から少し離れた場所で、周りの木はあまり整備されているとは言えない。人が住んでいる、とはあまり思えなかった。
「……ニーシュさん、あれは?」
少し後ろを歩くニーシュに振り返ると、ニーシュは伏せていた顔を上げた。その先には質素な造りの小さな小屋があり、外には小さな花壇があった。
「人が住んでいそうな場所ですね。もしかしたらここにキャロルさんがいるかもしれません」
エリアがそう言うと、ニーシュは「キャロル」と口にした。すると、また頭に痛みが襲ってきたようで、苦しそうに顔を歪める。
「これだけ身体に異常が表れるんだ。何かしらあるんだろうな」
ニーシュはそれだけを言うと、小屋に向かって歩き出した。エリアも置いてかれないように歩き出す。
小屋のドアの前に立つと、エリアは軽くドアをノックした。しかし中から返事は返ってこない。エリアは留守なのかと思い、少し辺りを見てくる、とニーシュに告げた。
「あまり遠くに行くなよ」
ニーシュのその言葉に頷くと、エリアは少し小屋から離れた。
ニーシュは小屋の近くに植えられている花を見る。懐かしいと思える匂いが漂っていた。
「花を愛でるなど、いつ以来かな」
ニーシュがポツリと言うと、大きく風が吹いた。花弁が散って空に舞うのをニーシュは、妙に感慨深げに見つめていた。花弁が小屋の反対側にまで飛んでいく。ニーシュは何の気なしにその花弁を追って歩いてみた。
鼻歌が聞こえてきた。何故か聞き覚えのあるメロディーにニーシュは懐かしさと、少し不思議な感情を抱いた。ニーシュはその鼻歌の在処を探してみることにした。すると小屋の裏側に、しゃがみ込みながら、優しそうに花を見つめる女性の姿が見えた。年の頃は二十代半ばだろうか。茶色のポニーテールが風に靡いてフワフワと自由に動き回っている。女性はニーシュに気付いていないみたいだった。
ふと、ニーシュはこの場所を立ち去るべきだ、という考えを持った。自分の中で謎のモヤモヤが大きく膨れ上がる。この女性に、キャロルに会ってはならないと、ニーシュの中の何かが訴えているように思えた。ニーシュはその場を立ち去ろうとして、小石を一つ蹴飛ばしてしまう。後ろから聞こえていた鼻歌が途絶えた。
「……誰?」
女性の声が後ろから聞こえた。ニーシュはどう返答すべきか、それともすぐにでも逃げるべきか悩んだが、その前に女性の声が続いた。
「人が話しかけているときは、その人の目を見なさいと教わらなかったの」
ニーシュはこれまでか、と観念して、女性の方にクルリと身体を向けた。望むことはただ一つ、その女性が自分のことを知らないでいてくれることだ。知らないか、せめて気付く素振りを見せないでいてくれるか。ニーシュはその事だけを恐れていた。
「……あなた」
嫌な予感が当たりそうだ、とニーシュは思った。目の前の女性は目を大きく開け、自分の顔を、目、鼻、口と流した後、身体全体を見ていた。口は半開きになっており、何かに驚いている様子だった。
「ファルサ……」
聞き覚えのない名前が、ニーシュの耳を脅かした。
少し辺りを探していたエリアが小屋に戻ると、ドアが開いた状態になっていた。申し訳ないと思いながら中を拝見させてもらうと、下を向いて木製のテーブルについているニーシュと、茶髪のポニーテールが印象的な牧歌的な服装をした女性が、ニーシュの前に紅茶を差し出している姿が見えた。
「あれ、紅茶好きじゃなかったっけ?」
女性はお盆を胸にあてたまま不思議そうにニーシュを見つめていた。ニーシュは困ったようにティーカップを手に取り口に運ぶ。
「美味い、な」
驚いたようにティーカップを見つめていると、女性がふふん、と鼻を鳴らした。
「当然でしょ。あたし特製なんだからさ。とはいえ初めて飲んだみたいな顔やめてよねぇ。十年前はほとんど毎日飲んでいたじゃない」
そう言って女性は笑っていた。ニーシュはどう反応して良いのか、戸惑っているように見えた。
このまま見つめていても何も変わりはしない、そう考えたエリアは空いているドアをノックした。
「はぁい、どちら様?」
女性がノックに気付いたようで、エリアを迎えてくれた。
「あなたは?」
「エリア、と申します。え、とニーシュさんはそちらに?」
女性は、キョトンとした顔をしてエリアに問い返した。
「ニーシュ、さんとは?」
エリアはその奥にいる男性だ、と伝えようとすると、当人がエリアたちの近くまで歩み寄ってきた。
「そいつは……エリアは俺の仲間だ。旅のな」
ニーシュがそう言うと、女性のエリアに対する不信感は消えたようで、パァっと明るい顔になった。
「ファルサの知り合いなのね。それなら安心だわ」
「ファルサ?」
エリアは聞きなれない名前に、さっきとは逆に問い掛けた。
「え?いるじゃないここに」
そう言って視線を向けた先にはニーシュがいる。つまりニーシュのことをファルサと呼んでいるのだ。
「ファルサ・アミニオン。十年前にこの村を出て騎士になる、なんて大口叩いて出て行ったあたしの幼馴染」
女性はそうニーシュの、いや、ファルサのことを紹介した。当の本人は視線を別の方に向けている。
「それでは、あなたは?」
そうか、と小さく女性は呟いた。自己紹介をまだしていなかった、と言って、腰に手を当てて女性はエリアに言った。
「キャロルよ。よろしくねエリア」
キャロルは目まぐるしく動いている。キャロルの勧めで今夜はキャロルの家に厄介になることに決まったのだ。普段使っていない布団を出したり食材を沢山出したり、やることがいっぱいあるみたいだった。流石に申し訳なさを覚えたエリアが手伝おうかと声を掛けるも、ニッコリと笑顔でキャロルはこう言った。
「エリアはお客様なんだから、そんなこと気にしなくていいのよ」
そう言われるとエリアも手出しが出来ない。ニーシュはと言えば、テーブルについてひたすら外を眺めているだけだった。その姿を見てキャロルは微笑む。
「そんなに懐かしむものかね」
エリアにそう問いかけるも、エリアはお茶を濁すように微笑むことしか出来なかった。
そうしているうちに、気付けば夜になっていた。キャロルが腕を振るった美味しそうな料理がテーブルの上にズラリと並んでいる。農村だけあって、新鮮な野菜で彩られたサラダに、ジューシーなビーフステーキ、他にもスープやパンなど、美味しそうな匂いが立ち込めている。
「す、凄い。こんな豪華な」
「驚くのはまだ早いわよ」
キャロルは得意げにそう言うと、奥のキッチンから牛乳の入った瓶を取り出した。
「ファルサ、レビン覚えている?あたしたちがお母さん牛の出産から立ち会って育ててきたあの牛。もう大きくなって立派なお乳を出すようになったのよ」
その牛乳をコップ一杯に注いでニーシュとエリアの前に差し出した。エリアは「いただきます」と言ってコップに口を付ける。
「え、凄く美味しい……」
ビックリするくらい濃厚な味に思わずエリアは舌鼓を打った。それは隣のニーシュも同じようで、もう一度コップに口を付けている。
「どうよ、ファルサ。美味しいでしょ」
ニヤニヤとキャロルは笑いながら言う。しかしニーシュはプイ、とそっぽを向いた。
「どうしたのよ、ファルサ。まるであたしのこと忘れちゃったみたいに」
その言葉に、ニーシュも反応を見せた。どう答えれば良いのか分からない表情を、隣で見るエリアが言葉を繋いだ。
「キャロルさん、実は」
「おい、エリア」
キャロルに真実を伝えようとするエリアをニーシュは静止しようとするが、エリアは首を横に振って答えた。
「この人は、真実を知るべき人だと思います」
エリアは真っ直ぐにニーシュを見つめた。先に視線を外したのはニーシュだった。
「真実って?」
キャロルは興味があるのと同時に、不安な気持ちを抱えているような、複雑な面持ちでエリアに尋ねた。エリアはそんなキャロルに、自分が知る限りのニーシュの十年間を伝えた。
「それで、ニーシュと名乗っているわけか」
ひとしきり話し終えると、キャロルは何かを考え込むかのように顎に手を当てた。ニーシュはバツが悪そうな顔でステーキを口に運んでいる。
「だから、俺はお前の知っている俺では、ない」
ニーシュはそう言うと、フォークとナイフをテーブルに置いた。
「だから、ファルサと呼ばれても、俺はどう思えば良いのか分からない」
一瞬、場の空気が固まった。エリアも何を言えば良いのか分からずに、食事の手を止めてしまう。
「でもさ」
キャロルの声が静寂に響いた。
「ファルサがどんな十年を送っていても、ファルサはファルサじゃないのかな。記憶が無いといっても、あたしにとってはファルサでしかないもの」
あっけらかんと言い放つキャロルに、ニーシュは驚きの顔を見せた。
「さあ、それよりもまずは食べなきゃ。折角つくったご馳走が冷めちゃうよ。もったいないでしょ」
キャロルがポン、と手を叩く。それが合図だと言わんばかりに三人とも食事を再開した。
他愛のない話が続く。かつてのニーシュがどんな人だったかとか、一緒に遠出した時の話とか、村で悪いことをして、罰としてずっと畑仕事をさせられていたとか。話を聞いているうちに、ニーシュという人物の意外な一面が見えてくるような感覚をエリアは覚えた。しかしニーシュはその間、相槌を打ったり「覚えていない」とだけ言ったりしていたが、ほとんど声を発することはなかった。
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