Ⅷ 帰るべき場所 (2)

 湖から少し離れたところに、エリアとニーシュは座り込んでいた。二人は地図を見ていたが、この場所がどの辺に当たるのかというのが見当もつかないので、どう行動するべきか迷っていた。


 「とりあえず拠点を決める必要があるな。シュラは、あのまま少し一人にしてやった方が良さそうだしな」


 ニーシュはそう言って立ち上がると、突然歩き出した。


 「え、ニーシュさん。道を知っているんですか?」


 迷いなく歩き出したニーシュに疑問を覚えたエリアがそう尋ねると、ニーシュ自身が何故か戸惑った表情を見せた。


 「……いや、俺は知らない、はずだ。だが俺は」


 ニーシュは自分の手を見た。そこには何も変わったことはない。あるのは人の命を無残に奪ってきた暗殺者の血に濡れた手だけだ。何故だか自分の存在が不鮮明になっていったような気がして、またあの頭痛が襲ってきた。


 「くっ」


 そう言って再びこめかみを押さえたニーシュをエリアが支えた。


 「すまない」


 ニーシュは悔しそうにそう言った。エリアはニーシュの意識がしっかりしていることを確認すると手を離した。


 「立ち止まっているわけにもいかない。とにかく歩き出そう」


 そう言ってニーシュは多少ふらつきながらも歩き出した。エリアもその歩幅に合わせるようにして歩き出す。

 十五分ほど歩いたときエリアが地面を見てみると、整理された道が出来上がっていることに気付いた。石が丁寧にどかされているという事は、人が通るために楽になるようにされているという事だ。つまりこの道の先には人が暮らす場所があるはずだ。


 「ニーシュさん」


 そう言ってエリアが道を指差すと、ニーシュは僅かに口角を上げた。


 「どうやら俺の勘は当てになるらしいな」


 そう言うと、ニーシュは再び歩みを進めた。置いていかれないようにエリアも歩き出す。道がドンドン大きくなっていく。そして独特な匂いがし始めてきた。


 「なんだろう、この匂い」


 エリアは嗅いだことのない匂いに思わず咳き込んだ。あまり好きな匂いとは言えなかったからだ。するとニーシュがエリアの問いに答えるように呟いた。


 「牛舎の匂いだ。牛の餌の匂いと糞の匂い、それとあまり質が良いとは言えない牛舎自体の匂いも混じって、村の人間でも苦手とする人が多かった」


 小さな声ではあったが、ニーシュの口から意外な単語ばかりが出てきた。確かにニーシュは記憶を失っているのだから、どんな生活を送っていた過去があっても驚きはしない。だが、ニーシュは今、「村」という言葉を使ったのだ。


 「この道の先には村があるんでしょうか」


 それも、ニーシュのルーツに繋がるかもしれない村が。エリアはチラリとニーシュの顔を覗き込むが、ニーシュは覚えがないようで、首を横に振って「分からない」とだけ言った。

 とはいえ、今のエリアたちに出来ることは、とにかく道なりに進むことだけだ。その先に村がある可能性を見出すことが出来たのであれば、それは良い事だろう。


 「行きましょう、ニーシュさん」


 エリアがそう言うと、ニーシュは顔を少し歪ませながらも、強く頷いた。


 道なりに進んで行くと、一つの農村が見えた。大きいとは言えない村だったが、少なくとも人はいそうだな、とエリアは思った。


 「とりあえず、この村に入りましょう」


 確認の意を込めてニーシュに話しかけたが、ニーシュはどこか上の空で農村の入り口を凝視していた。


 「ニーシュさん」


 再度エリアはニーシュに声を掛けた。すると、ニーシュはハッとして、エリアの問いに答えた。


 「あ、ああ。そうだな……闇雲に歩き回る必要はないだろう」


 そう言いつつも、視線は村の方から外すことはなかった。エリアは少し不思議に思いながらも、村の中に足を運んだ。ニーシュも少し間を置いてからエリアについて行った。


 (私の方が前を歩くのは珍しいな)


 そんなことを考えながら、二人は農村の中に入って行った。


 「……やっぱりこの村からの匂いだったんですね」


 先程感じた牛舎の匂いがむわあ、と立ち込めた。他にも土の匂いを強く感じるかと思えば、あちこちで畑を耕す農夫たちの声が聞こえる。エリアは、近くにいた農夫にこの辺に宿、もしくは泊まることが可能な施設はないか尋ねることにした。


 「すみません」


 エリアがそう言うと、鍬を持って小さな畑を耕していた若い男は不機嫌そうに返事をした。


 「なにか」

 「いえ、旅の者なのですが、この辺で泊まることが出来るところはありはしないかと、思いまして」


 エリアは男の不機嫌そうな態度を気にしないようにして、声を掛けた。しかし男はプイ、と振り返って、そのまま畑を耕し始めた。


 「あ」


 エリアはもう一度声を掛けようかと思ったが、無視されたということは関わりたくないということだろう、と思って身を翻し、ニーシュに話しかけた。


 「少し、歩いてみますか」


 エリアがそう言うと、ニーシュも「ああ」と小さく返して、立ち去ろうとした。その時、先程まで不機嫌そうだった男の呼び止める声が聞こえた。


 「おい、待ちな」


 クルリと二人が振り返ると、男は口をパクパクと震わせながらこちらを見つめていた。


 「どうして。お前、戻ってきたのか」


 そう言って男は畑から離れてエリアたちの近くに寄ってきた。しかしその目はエリアを見ているわけではなかった。その男はニーシュをジッと見つめていた。


 「……俺?」


 ニーシュは戸惑いを隠せないようで、自分を指差しながら男に尋ねた。男はさっきまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、ニッコリと笑ってニーシュの肩に腕をまわし、組んできた。


 「そうだよ、お前以外に誰がいるんだ。久しぶりだなぁ……。かれこれ十年になるのか」


 男は一気に馴れ馴れしくニーシュに話しかけるが、ニーシュは返答に困っていた。


 「別人と間違えてたりはしないか?」

 「俺が、お前を?そりゃあ、ねえな。俺は昔お前と散々遊んだんだ。十年会ってないくらいで忘れるかよ」


 そう言って、男はニーシュの目を真っ直ぐに見たが、ニーシュは視線を逸らした。


 「すまない、少し疲れているんだ。またあとで顔を出すよ」


 そう言われた男は、一瞬呆気にとられた顔を見せたが、すぐに笑顔に戻った。


 「ああ、分かった。でもせっかく戻ったんだ。キャロルの家には顔出しとけよ?あいつの家でゆっくりするのは悪くないだろ」


 それだけ言うと、男は軽くエリアに会釈をして農作業に戻った。


 「ニーシュさん、知り合いですか?」


 エリアが尋ねると、ニーシュは首を振った。


 「それに対して返事は出来ん。俺には十年前の記憶がない」


 少しだけ悲しそうな表情を見せたニーシュだが、エリアは何故か確信めいたものを持っていた。ここはニーシュの生まれ故郷なのではないだろうか、と。先程の男性も十年会ってないと言っていた。ニーシュが丁度記憶をなくしたのは十年前だったはずだ。


 「少し、探索してみましょう」

 「俺のルーツ゚が見つかるかもしれないからか?」


 ニーシュはつまらなさそうにそう言った。思わずエリアは言葉の意味を探ろうとする。


 「気にならないんですか?」


 ニーシュはふと空を見上げて、まるで青空に向けて言うかの如く言葉を発した。


 「俺がどこの誰だと分かったとして、今更人を殺してきたこの手で握手など出来はしない」


 その言葉の重みを、エリアは言葉以上に受け取ることが出来なかった。恐らく自分の生きてきた世界とは違うのだから。


 エリアとニーシュが村を周っていると、ニーシュに気付いた人たちが次々に声を掛けてきた。ある人は久しぶり、と朗らかに声を掛け、ある人は大きくなったなぁ、などと感慨深げに話しかけ、ある人は無事で何より、と涙ぐむことまであった。

 そんな人たちに対して、ニーシュは簡単な受け答えとせいぜい苦笑いくらいしか出来なかった。ここまで気安く話しかけてくれるという事は親しい間柄だったのだろう。余計にその事実に戸惑っているようだった。

 もう一つエリアには気になったことがあった。ニーシュに話しかけた人々全員に言えることだが、ある一人の人物の名前を出すのだ。

 「キャロル」と呼ばれるその人物は、このツァーリンという農村で最もニーシュにゆかりのある人物だというのだ。エリアはこっそりキャロルの家を教えてもらい、ニーシュと一緒に向かう事にした。「キャロル」という名前を聞いたニーシュは、顔を曇らせた。

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