Ⅲ エリアと画家 (5)
「明日?」
「うん」
いつもより二時間ほど遅い集合をしたあとに、エリアはシュラに話をもちかけた。
「構わないけれど、一体どこに行くんだ?ここら辺一帯はもう探したぜ」
「場所は確か、この辺だったはずなんだけど」
皇の路を記した巻物を広げてエリアは指差した。シュラは少しだけつまらなそうな顔をしてエリアに言った。
「もうそこは見たぜ、当然何もなかったけどな」
エリアは、優しい瞳でシュラにそっと声を発した。
「少しだけ、信じて欲しい、な」
シュラは、ため息を吐いたのち、コクリと頷いた。
「まあ、良いけどよ」
「ガルファンク?」
昼食の時間、オーサは言った。
「そういえば、この前アイツがどうだ、とかって」
エリアは首を小さく縦に振った。
「ある出来事がきっかけで、人を信用しなくなったって」
「ああ、その話かい。あれは何年か前のコンクールだったかな……」
そこからのオーサの話はほとんど、ガルファンク当人の話と同じだった。
「ガルファンクは盗作なんてするような奴じゃないんだけどね。でもあの時はそんなこと言える空気じゃなかったよ。その画家がひたすらまくし立てるように言うものだからねぇ」
オーサは手に持っていたスプーンをカチャ、と置いた。
「ここからは私の憶測だけどね。私たち見ていた一般の人間も、審査員も、もちろん騒ぎ立てた画家も、全部が許せなかったんじゃないかね。ガルファンクは……だけど」
エリアはオーサの言葉に耳を傾けた。
「アイツが一番許せなかったのは、違う、と言えなかった自分で、自分自身を信じられなかった自分なんじゃないかねぇ」
「どこへ向かおうとしているんだよ」
エリアに半ば強引に手を引っ張られるような状態になっているシュラは、戸惑いながら尋ねた。昨日エリアの示した泉に向かっているのは分かるのだが、一体そこに何が待ち受けているのだろうか、とシュラは思った。
「だから、ルナフール、だよ。昨日見せた地図の泉の場所がルナフールなんだよ」
そう言ってシュラを引っ張ると、ついにその泉に辿り着いた。
「うわぁ……」
「おお」
そこにあったのは水面いっぱいに大きく映り込んでいる満月だった。話に聞いていたよりも、ずっと大きかった。
「これがルナフールか。確かに圧巻だな、こんな凄いものは見たことがないぜ」
「私も」
念のためにオーサにも水鏡の月について事前に聞いておいたが、どうやらひと月に一度の満月の日にのみ、この現象が起こるようだ。何故このような現象が起こるのかはまだ、解明されているわけではないようだった。
「でも、どうしてこれに今まで気付かなかったんだ。こんなに大きくクッキリと映るのなら探しているうちに分かりそうなものだが」
「この現象は満月の日にしか起こらないみたい、だよ。だからこれを見るためには待つことが大切になるみたい」
「待つこと、か」
(忍耐が大切、ってことなのか?ずっと焦ってルナフールを探していたが、実際には時を待てば、必ず見つかるようなものだったというのなら、じっと耐えて待つことも重要なのか)
シュラは心の中で思った。もしかしたら、これもまた皇の路の試練として選ばれたものなのかもしれない、と。
ガサッと草の陰から音が聞こえた。シュラとエリアは音の聞こえた地点を視界に入れた。少ししてから、一人の人間がヒョッコリと現れた。
「ガルファンクさん。お待ちしてました、よ」
その男の姿を捉えた時、エリアは表情が緩んだ。
「人間か、どうしてこんなところに」
シュラはスッと身構えた。異形の存在が自分に向かって構えているのだ。流石のガルファンクも恐れの表情を見せて後ずさった。
「ガルファンクさん、そんなに怯えることはない、ですよ」
エリアはそう言ってガルファンクに一歩踏みよったが、ガルファンクの表情は変わらなかった。
「アンタが何を言おうと、俺の目には怪物が映っているようにしか見えないんだが」
「言ってくれるじゃないか。人間」
シュラの目がギラリと光った。それは、最初エリアに向けていた敵意の目だった。ガルファンクも怯えを見せながら、気丈に睨み返している。それは男としてのプライドが見せる強がりなのだろうか。
「二人とも、私はそんなつもりで、二人を会わせたわけじゃない、よ」
エリアは頬を掻きながら言った。シュラとガルファンクの視線がエリアに集まった。
「どういうことだ、エリア」
シュラはエリアに尋ねた。エリアは手を後ろに組みながら言った。
「この人は画家、なんだよ。シュラ」
この人、と言ってエリアはガルファンクを指した。当然だがシュラの視線はガルファンクに戻る。
「元々、空想画家っていう、自分の想像や一度見た景色を、記憶を辿って鮮明に描くっていう、技法を使うんだって」
「で?」
シュラはさほど興味無さそうにぶっきらぼうに答えた。しかしそれはエリアにとっては少しだけ想像出来たことだった。
「だから、シュラにこの人の絵のモデルになってもらえないかな、って」
一瞬、沈黙が訪れた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
言葉を発したのはガルファンクだった。
「お、俺にこの竜を描けっていうのか?」
コクリ、とエリアは頷いた。
「お前、どういう風の吹き回しだ」
シュラは呆れた顔でエリアを見た。エリアは表情を緩ませて言った。
「ガルファンクさんに何かしてあげたい、って思ったんです」
ガルファンクはキョトン、となった。目の前の黒髪の少女が何を言っているのか、一瞬理解出来なかったからだ。
「ガルファンクさんが絵を描くところを見て、描いている絵を見て思ったんです。この人は本物を、想像した本物を描きたいんだって。でも過去の事があるから、自分の本当に描きたい絵が描けていないんだって」
ガルファンクはエリアを見つめた。僅か十六、七の少女がたかが、そこら辺にいるようなしがない絵描きにここまで熱意を向けるというのが驚きだった。
エリアは人を信じることが出来ない気持ちが、自分を許せなくて責める気持ちが何となくだが分かる。しかし、自分と違ってガルファンクには、絵という自分を表現出来る場所がまだ残っているのを知っていた。描きたい絵から逃げようとするガルファンクに、好きなものから逃げて欲しくなかったのだ。
「俺は」
ガルファンクは言いよどんでエリアから目を背けて、竜を見た。紅蓮の竜はさっきまでの話をしっかりと、腕を組みながら聞いていたようだ。
「だが、人間に俺を描かれるのはな」
「私を、人間を背に乗せているのに?」
シュラは途端に黙り込んだ。何故人間を嫌うのかは分からないが、人間が悪いものばかりではないのだ、という事をエリアは伝えたかった。自分がオーサと出会って分かったように。
「この人はいい人、だよ。保証する」
せいぜい出会ってから四日程度しか経っていない人間をここまで信用出来るエリアにガルファンクは危うさと羨ましさを覚えた。今まで他人に目を向けることが出来なかったエリアは、人の優しいところしか見ていなかった。
「描きたいのなら、描けばいいだろ」
不意にシュラが言った。ガルファンクは驚いてシュラを見る。改めてシュラを見ると、本当に絵本や太古の時代からひょっこり現れたかのように、立派な姿だった。身体を走る鱗をもっと間近で見たいと思い、バッとシュラに近付いた。
「お、おい」
今度はシュラが怯む番だった。一歩後ずさると、今度はガルファンクが追ってきた。
「逃げるなよ。もう少し感触が分からないと、絵に息を吹き込ませられないだろ」
創作意欲が湧いてきたガルファンクには先程までの恐れはなかった。あるのは目の前の竜への興味だけだった。どんな感触なのか、ひんやりしているのか、それとも人肌の温かさなのか。気になることは山のように浮かんできて、ジリジリとシュラに近付いて行く。
「待て、おい待て」
あのシュラがここまでタジタジになっている、という事実が面白くてエリアはクスッと笑った。
「そうかい、今日で最後かい」
朝起きると、エリアはオーサに頭を下げた。今日でこの絵の具店を離れ、また旅に出るということを伝える必要があったからだ。
「本当にわがままだとは、思いますが」
エリアは申し訳なさそうに目を伏せた。しかしオーサの反応は意外なものだった。
「アッハッハ。それは最初から言っていたじゃない、少しの間だけかもしれないって。そこまで話を聞いていて、いきなりコロッと態度を変えたりしないよ」
そう言われてエリアは肩の荷が少しだけ下りた。完全に罪悪感がなくなったわけではないが、薄れていくのを感じていた。
「もちろん寂しくなるし、エリアは仕事も良くやってくれたし、うちの看板娘になって欲しいってのが本音だけどね」
笑いながら言ってはいるが、寂しくなるのは本当の事だろう。何故ならエリアも寂しさを覚えているからだ。
「さて、まずはこいつを渡さないとね」
そう言って差し出した袋には銅貨が数十枚入っていた。
「あんまし多くなくて悪いけれど」
オーサはそう言ったが、エリアはその袋の重みを噛みしめていた。
(私の、働いた証)
城の中にいては絶対にしなかったであろう体験が出来たことをエリアは誇らしく思った。この銅貨の重みを忘れてはならないと心に誓った。
「さあて、今日も仕事が始まるよ!最後まで頑張ってもらうからね?」
オーサは腕まくりをしながら言った。エリアは気持ちをきちっと入れ替えて、自分の頬を軽く叩いて気合を入れた。
「……はい!」
昨日のシュラとの出会いがきっかけで再び空想画家としての意欲を取り戻したガルファンクは、今までのアトリエに戻り、キャンバスに向かってはひたすらに色を無造作に重ねていた。
「ありがとうな、おかげで久しぶりにこっちで絵を描いている」
最後の仕事を終えたエリアは、出発の前にガルファンクを訪ねてアトリエに来ていた。いつものテントは片付けられていたので、直感を信じてここに来たのだ。
「それなら、良かったです」
エリアはホッとした表情を浮かべていた。自分のしたいと思ったことで、誰かが良い方向に進んでくれたのなら、これほどに嬉しいことはない。
「あの竜と一緒にどこかへ行くのか?」
ガルファンクはエリアに身体を向けて言った。エリアはコクリと頷いた。
「はい、また旅に出ます」
「そうか」
ガルファンクはフッと笑いながら言った。
「俺は今、一つ描きたい構図が、描きたい絵が浮かんでいるんだ。水鏡の月を眺める紅蓮の竜の姿を描いた絵だ。いつかまた会えるときが来たら、必ずその絵を二人に見せるよ」
ユビルで世話になった人たちとの別れを終えて、エリアはシュラの背に乗って夜の風を感じていた。すっかりシュラに乗る事にも慣れて、景色を眺める余裕すら出てきていた。
「あの野郎、べたべた色々なところ触りやがって」
昨夜からご機嫌斜めなシュラはフン、と鼻を鳴らした。
「でもシュラのおかげだよ、ガルファンクさんが前向きになれたのは」
エリアはシュラに微笑みながら言った。
「アイツだけじゃないだろ、前向きになったのは」
シュラの言葉に、エリアは「え?」と聞き返した。するとシュラはエリアに顔を向けて言った。
「初めて見たぜ?お前が笑ってるの」
「笑う……」
自分がシュラに笑顔を見せたのは初めてだったか、いやそもそも誰かに笑顔を見せるという事自体が、かなり久しぶりのことであるように、エリアは思った。
「そっか、そうかもしれないね」
エリアは瞼を閉じて夜風を正面から感じていた。シュラの背に乗って受ける夜風は心地よく、再び自然と笑みが零れていた。
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