Ⅲ エリアと画家 (3)
「と、いうわけで凄く大変でした。初仕事は」
クタクタになりながら、シュラと落ち合ったエリアは肩をガックリと落として言った。
「ああ、みたいだな。髪の毛にべっとりと赤い絵の具とやらが付いてるぞ」
「え、嘘」
慌ててエリアは髪の毛をまさぐると、乾きかけの絵の具が掌に少しだけ付いていた。
「しかも赤、か」
「赤になにかあるのか?」
エリアはふっとアリスとリアナの事が思い浮かんだが、すぐに脳裏から外した。
「ううん、特にはなにも。それよりも」
オーサから貰ったハンカチで手を乱暴に拭き取りながら、エリアはシュラに居直った。
「シュラこそどうなの?二日目だけれど、なにか進展はあった?」
言うとシュラは気まずそうな雰囲気を出した、あまり言いたくはなさそうだったが、重い口をちょっとだけ開いた。
「正直なにもない、何度も同じところをぐるぐると周っているし、少し遠くまで見てみたり、高低差を変えて探したりもしたんだが」
小さく舌打ちをしたシュラからは無念さが感じ取れた。エリアは優しくシュラの額に触れた。
「大丈夫だよ、きっと」
「分かってるよ」
ぶっきらぼうにそう言って、エリアの手を軽くはたいた。エリアはちょっとだけビックリしたが、すぐ手を後ろに組み直して言った。
「じゃあ、明日も同じようにこの時間に、ここで良いんだよ、ね?」
シュラはコクリと頷いた。
「じゃあ、私は行く、よ。早くお風呂に入りたいし」
「お風呂?」
シュラは不思議そうにエリアを見た。
「うん、オーサさん……勤め先の店長なんだけど。オーサさんがお風呂とか食事とかを用意してくれる、から」
エリアは立ち上がって、服に付いた葉を落とすとシュラに頭を下げて、町に駆けて行った。シュラは一人座りながら空を見上げて呟いた。
「なんだかなぁ」
風呂から上がって、散歩がてらと町に繰り出したエリアは、大通りまでやってきた。昼には画家たちの自分の絵の売り込みが多くいが、流石にこの時間は昼程の人がいないため喧騒が少ない。たまに夜景を描こうとしてか、キャンバスと画材を持って門の外に向かう人もいる。外には野犬もいるし、安全が保障されているとは言い難いはずなのだが、それでも彼らの欲求を止めることは出来ないのだろうな、とエリアは思った。
エリアは煌びやかな装飾には興味はなかったが、城に飾られている絵を眺めるのは好きだった。父が宮廷画家に描かせた絵が、月ごとに変わって飾られるのは見ていて楽しかったし、幼い頃にはアリスと一緒に部屋に落書きをして、バルドに迷惑をかけたこともあった。残念ながらエリアに画才はなかったが、それでも眺めるのは今でも好きだ。こうやって外に出されている、明日には誰かが買い取るであろう、画家の絵を眺めるだけでも楽しかった。
「あれ?」
一軒だけ空いている店があった。よく見ると看板が無いので店ではないのかもしれないが、こんな時間でも明かりを灯している――しかも一般の民家ではなさそうな小さなテントだった――のが気になって近寄ってみた。中を見ると髭を蓄えた一人の青年が真っ白なキャンバスに向かって絵筆を持って、椅子に座ったまま考え事をしているようだった。
「絵描きさん……だろう、けど」
何故か気になったのでそのまま、陰から青年を眺めていた。不意に青年が、絵筆を、たっぷりと水分を含んだ絵の具の中に入れ、凄い勢いで絵の具ビンから絵筆を抜き、多すぎた絵の具が垂れて部屋を汚すのも気にせずに、キャンバスに絵を描き始めた。
あまりの勢いに、思わずエリアは見入ってしまった。一切の迷いもなく青年は筆を運んでいく。そうしてキャンバスに色が載っていった。完成したのだろうか、キャンバスには一部が欠けた赤い丸が残っていた。
すると青年は筆を替えて、次は濃い紫色をキャンバスに落とした。何度か絵筆と色を変えて出来上がったのは、とても美味しそうな果物がバスケットの中に綺麗に盛られている絵になった。よく見ると、部屋のテーブルに置かれているバスケットを描いたものらしい。
「凄い……」
思わず、唇から声を発してしまったエリアは口を押さえるが、遅かったようだ。青年はこちらを訝し気に見ていた。
「誰だ」
「え、と……その」
エリアは指を交差させてモジモジしながら言った。
「お上手、ですね……その、絵」
しかし青年は気分が良くなさそうで、立ち上がるとエリアを押しのける。そして恐らく安物のカーテンでこしらえたテントの入り口をシャッと閉めた。
「……」
思わずエリアは立ち尽くしてしまったが、ここで立ち止まってもしょうがない、とオーサの店に戻ることにした。
「あぁ、そいつはガルファンクだねぇ。変わり者のガルファンク・シャゴット。テントの中で黙々と絵だけ描いている奴だよ。絵はすんごく上手いんだけどね」
布団の準備をしながらオーサは言った。エリアは手伝いをしながらオーサに尋ねた。
「変わり者、ですか」
オーサは言いにくそうにしていたが、エリアなら良いか、と言って口を開いた。
「ある出来事があって以来、人をめっきり信用しなくなっちゃってね」
翌日も目まぐるしく、絵の具を買いに来たお客の対応に追われていた。仕事に慣れ始めてきたエリアは、だからこそミスをしないように一つ一つの手順をしっかりと行うことに勤めた。それがオーサにはとても熱心に思えたようで、昼前の一時間だけ実際の接客を行うことになった。人と話すのは得意ではないエリアだが、出来る限り誠意を込めてお客と触れ合った。中には話が面白い人もいたので、楽しかった。
一度、ガルファンクという画家について、サンライト・イエローを大量に購入してくださったお客に尋ねてみたが、芳しくない反応だった。エリアは気になったが、すぐに仕事に集中した。昼食をとってから二時間ほど、絵の具の準備をしているとオーサは突然カウンターから出て、店の外に出たかと思うとすぐに戻り、エリアを手招きした。
「どうしました?」
駆け寄ったエリアはオーサに尋ねた。するとオーサはニコニコしながら言った。
「今日はこんなもので良いでしょ。晩御飯までは自由時間よ」
「え、でも」
確かに一旦客足は途絶えたが、こんな時間に店仕舞いなどして良いのだろうか、外はまだ明るい時間帯だというのに。
「いいのよ!私はほとんど趣味でこの店をやっているようなものだし、元々この店を知っている人なら、三、四日に一日だけ早く店仕舞いするのは知っているよ」
そう言って陽気に笑うオーサに釣られて、「それなら」とエリアは借りている二階の部屋に戻って着替えることにした。着慣れ始めてきたケープを身に纏い、階段を駆け下りるとエリアは店のドアに手を掛けた。
「じゃあ、少しだけ出かけてきます、ね」
エリアは手をドアノブにかけたままオーサに顔を向けて言った。オーサは軽く右手を振ってくれた。
外に出ると、まだお日様が輝いていた。丁度日差しが強い時間帯であることと、建物の関係で直接眩しい光がエリアに襲い掛かる。エリアは手を額にかざして目を細めた。
後ろを振り向くと、「準備中」の看板が掲げられていた。
エリアには行ってみたい場所があった。もしかしたらそれを見抜いて、オーサは今日の店仕舞いを早くしてくれたのかもしれない。まだガヤガヤと人混みが激しかったが、なんとかくぐり抜けて大通りに出た。他の店はやはり客が大勢並んでいて、「売り切れ」なんて看板が出ている店もある。老若問わず、女性には似顔絵が人気のようだし一部の男性は抽象画を眺めながら、ああでもないこうでもないと持論を持ち出し、激しい口論をしている。
そんな中、これだけ人が集まる時間帯にあってもガルファンクの店はがらんとしていた。そもそもあれが店なのかどうかは今でも分からないが。
そっと中を見てみると、昨日と同じくキャンバスに向かうガルファンクの姿が見えた。昨日と服装が変わっているようには見えず、どうやらここに寝泊りもしているみたいだった。並べられている絵を見ると、数字のようなものが貼られているので、やはり店のようだった。
「誰だ」
またも見ていたのがバレてしまったようだ。しかしここが店であるなら絵を見に来た、と言えば邪険には扱われまい、とエリアはおずおずと姿を現した。ガルファンクも身体をエリアの方に向けた。
「お前、確か昨日の夜も……」
「え、覚えて……いるんですか」
意外な反応にエリアはビックリした。ガルファンクはクルリと振り向いてそのまま絵に視線を向けた。
「俺の絵を見ようなんて物好きは少ないからな、忘れるのも難しい」
「はぁ」
エリアはどう反応していいのか図りかねたので、曖昧な返事が口から零れた。沈黙の中、ガルファンクの筆を起こす音だけが鳴っている。
「あの、ガルファンク、さん」
エリアは一歩踏み出してガルファンクに声を掛ける。ガルファンクも鬱陶しそうにしながら振り向いてくれた。
「その、このまま少し絵を見てもいいですか?」
ガルファンクは目を丸くしたが、すぐに顔を背けて言った。
「勝手にしろ」
「こんなもの見てて楽しいのか」
身を屈めて座るエリアは、じっと無言でガルファンクの絵を眺めていた。かれこれ三十分程眺めていると、不意にガルファンクが話しかけてきた。
「はい、楽しいです……よ」
エリアは頷きながら答えた。
「私、絵の事はよく分からないので、好き嫌いでしか、言えないですけど……ガルファンクさんの絵は好きです。色合いも好きだし、凄く、その、丁寧に描かれていると思い、ます」
エリアが素直にそう言うと、ガルファンクは何も言わなかった。そのまま、また時間が流れた。
そろそろ日が傾き始めてきた。そろそろオーサの店に戻って夕食の支度を手伝う必要があるな、と思ったエリアは立ち上がり店をあとにしようとする。
店を出る寸前でガルファンクの背に振り返ると、「あの」と前置きをしてから言った。
「また、絵を見せてもらえますか?」
ガルファンクは身体こそエリアには向けなかったが、ぶっきらぼうに返事はしてくれた。
「夜の十一時までは描いている。勝手にしな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます