Ⅲ エリアと画家 (2)

 食事を終えて時計を見ると、もうすぐ八時を回ろうとしていた。シュラとの約束の時間が近付いているので、食器を片付けてから身なりを整え、エリアはオーサに声を掛けた。


 「オーサさん、すみません。ちょっとだけ出かけてきても良いですか?」

 「ええ?もうすぐお風呂が沸くよ?一番風呂入りなさいよ」


 お風呂の誘惑に負けそうになるが、エリアはブンブンと頭を振った。


 「そんなに遅くはなりませんよ。軽く散歩をするだけ、ですから」


 すると奥から「はーい」というオーサの声が聞こえてきた。見えないかもしれないが、エリアはペコリと頭を下げて外に出た。

 バタン、とドアが閉まると、エリアはふぅと一息ついた。


 「オーサさんが良い人で良かった」


 思っていたよりも話しやすい人だったのがエリアにとってはありがたかった。あまり人と話すのが得意ではないエリアでも、気兼ねなく接してくれるのは嬉しかった。


 「え、と……こっちが町の門、だったかな」


 掲示板の隣に地図が描かれているのでそれを参考にエリアは歩き出す。ふと誰かの視線を感じたので、スッと後ろを振り向いたが誰もいなかった。


 「あれ?確かに……」


 見られている、という感覚はあったのだが、とエリアは思う。しかし時間も時間なのでまだ町の中に歩いている人も多い。普段見慣れない人間だと誰かが見ていたのかもしれない、とエリアは思った。そもそもこの国で自分のことを知っている人間などいるはずもないのだ。


 「それより、行かないと」



 「おう、来たか」


 シュラは腕を組んでドッシリと座りながら待っていた。エリアは慌ててトタトタと駆け寄っていく。


 「収穫はあったの?」


 シュラは静かに首を横に振った。


 「地図を参考に色々飛び回ったは良いが、ヒントすら見つかりやしなかった。あんまりここで、手こずっている暇はないんだがな」


 簡単に見つかるようなものを皇の路の中に入れるはずがない、とシュラは頭の中で分かっていたつもりだったが、ここまで収穫がないと、流石に焦りが出てきてしまう。しかしエリアは優しく諭した。


 「焦ることはない、と思うよ。私もなんとか仕事と、一応宿泊先も見つけたし、焦って何かを見落とすこともあるかもしれない、から」


 エリアの言葉にシュラがフッと笑った。


 「それもそうだな。多少時間がかかっても仕方ない、よな」


 エリアはコクリ、と頷いた。


 「ところでお前も仕事の方はどうなんだ?」

 「え」


 思わずエリアは言いよどむ。シュラは不思議そうな顔で見てくるのでエリアは素直に打ち明けた。


 「なんだ、まだ働いてないのか」

 「本格的には明日からだね。正直に言うと働いたことなんてないから緊張するよ」

 エリアは頬を掻きながら言った。シュラが腕を組みながら言う。

 「もしも、客を相手にする方の仕事になったら、エリア大変だな」

 「客を相手に?」


 エリアは首を傾げた。


 「ほら、沢山の人間の相手をするわけだろ?そうなったら、結構大変じゃないかと思ったんだが」

 「た、沢山の人……」


 あの店の中にガヤガヤと人が入ってきたら、そして自分があのカウンターの中で一人一人の接客をするとしたら、と想像する。急に不安になってきてしまった。


 「シュラ、へ、変な事を言わないでよ」

 「へ、変な事って」


 シュラも思わず困った表情をした。一日の報告は終わり、エリアは町の中に戻り、シュラはどこか目立たなそうな岩場か森の中で夜を過ごそうと探した。

 エリアが門をくぐろうとした時に、また視線を感じた。しかし振り向くとまた誰もいない。時間は十時を回っている。まだ外を出歩いている人もいるにはいるが、エリアは少しだけ不審に思った。

 店に戻るとオーサが少しだけ不機嫌に待っていた。


 「す、すみません」


 思わずエリアは後ずさって謝罪をした。オーサはやれやれ、と表情を綻ばせた。


 「明日からは手加減しないよ?」

 「……は、はい!」


 エリアはその一言で気合が入った、気がした。



 「ほい、まずはこれに着替えなさい」


 オーサから差し出されものは青のオーバーオールと、黒いシャツだった。


 「え、これは?」


 受け取ったはいいが戸惑うエリアに、オーサはビシッと言った。


 「アンタのお仕事はね、アタシが指示した絵の具を必要な量だけキッチリと持ってくること。奥にビンがあるだろう?人によっては大きいの、小さいのって依頼をしてくるからね。それにあわせて、ちゃんと用意をするのさ」


 奥の部屋をオーサは指差した。「失礼します」と部屋を開けると、大きな樽に詰められた絵の具がどっさりとあった。部屋の湿度も高く、絵の具を乾燥させない様にしているのが分かる。


 「うちのやり方はずっと昔からこんな感じなんだよ。他のお店だったらもっと違うやり方があるんだろうけどねぇ。ちなみに表に出ているのはあくまでも色のお試しだよ、混ぜ合わせたりしてもらって、気に入った色が出来たらこの部屋で調合して渡すんだ」

 「え、これだけ沢山の絵の具があるのに、ですか」


 オーサはコクリと大きく頷いた。チラリと時計を見て、そして言った。


 「まだ開店まで時間はあるし、少し試しちゃうよ」


 ニマァ、とオーサは笑った。エリアは背中に冷や汗が流れるのを感じた。



 「グリーンとスカイ・ブルーを十五ビンずつ、大ビンですね。かしこまりました、少々お待ちください」


 カウンターの方からオーサの大きい声が聞こえてきた。エリアは慌てて樽を眺める。


 「グリーンだから、十三の棚の八……あ、これライトグリーンだ。てことは……」

 エリアは隣の棚を見る。そこにはグリーンの絵の具があった。

 「あった。これを十五ビン、それも大ビンか」


 エリアは慣れないながらも、手早く必要なだけのビンを持ち出し、樽に備えつけられている、絵の具をすくう小さなスコップ状のものを樽の中に浸して、ビンに流し込んだ。あとはその作業を延々と続け、グリーンの絵の具が並々と注がれたビンが十五個並んでいた。


 「次はスカイ・ブルー」


 同じように手早くスカイ・ブルーの樽を見つけて、ビンに絵の具を流し込んだ。そしてサッと袋詰めにして大きな声で部屋の外に駆けながら、大きな声を出した。


 「スカイ・ブルー十五、グリーン十五。準備出来ましたぁ」


 部屋の戸を開けると、素早くオーサに手渡した。オーサがサッと袋の中を確認すると、エリアに頷き、お客の方へ振り返った。


 「お待ちどおさまです。素敵な絵が描ける事をお祈りいたします。ありがとうございました」


 恭しく頭を下げるオーサに、お客も満面の笑みで立ち去っていった。時計の鐘が十二時を告げる。オーサは着けていたエプロンを外して部屋の奥にいるエリアに話しかけた。


 「エリア、少し休憩しましょう。お昼にするわよ」


 エリアはその言葉を聞いて、ペタンと座り込んでしまった。すると、お尻に冷たいものを感じたので見てみると絵の具がべっとりと付いていた。だから、オーバーオールなんだなと理解した。


 

 「思ったよりも良い動きをするじゃないか。最初はどうなることかと思ったけどね」


 サンドイッチを頬張りながらオーサはエリアに微笑んだ。最初は、図鑑を見ながら色の名前を覚えようとして頭がパンクしていたが、身体を動かすうちに、何色がどこにあるのかを身体が理解していった。


 「でも、流石に、疲れますね」


 水を飲みながらエリアは言った。働くという事は、お金を貰うという事はこんなにも大変な事なのか、と身をもって体感した。オーサは笑って言った。


 「言ったろ、手加減しないって。午前中は比較的お客さんが少なかったから良いけどね。ああ、最後の絵画教室の講師をやっているお客さんは多く買っていったけど」

 「午後から増えるんですか、お客さん」

 「翌日の仕込みだったり、午前中上手く絵が描けなくて気晴らしに絵の具を買いに来る人もいるからね。大概は午後の方が忙しくなるわよ」


 満面の笑みで親指を立てるオーサに対して、エリアの顔は少し引き攣っていた。



 「クリムゾンとコメット・ブルーを三と一の割合で混色、それを二ビン。小ビンですね、かしこまりました」


 次の注文が入ったので先ずは色の確保をする。色は見つけたが次は混ぜなくてはならない、近くにあった絵筆をビンの中に入れて、しっかり量を計って二色の絵の具をビンに流し込み、勢いよく混ぜる。


 「ど、どんどん依頼が、難しくなって、いくぅ」


 お客の多さだけでなく、バリエーションに富んだ注文が次々と入ってくるため、エリアは、目が回りそうになった。自分が城暮らしをしていた時に、屋上や部屋の窓から見下ろしていた城下町の人たちは、毎日こんな忙しい思いをしているのだろうか、とふとエリアの頭の中に浮かんだ。

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