Ⅰ 旅立ち (3)
アリスはその赤い長髪を後ろに流して先端の部分だけを縛っている。服装もドレスの類は好まず、機能性を重視してレースを外し、スカートではなくタイツを着用している。エリアに比べて平服が王族らしくはないが、どこか気品を持ち合わせているのは、本人から滲み出るものであろう。エリアはそんな姉を直視しないように少し目線を落としながら紅茶を淹れてアリスに差し出した。
「気を使わなくても良いのに。私はただエリアの様子を見に来ただけよ」
「私の様子を、どうして?」
キョトンとした顔でアリスはエリアを見た。
「だって朝食に来なかったでしょ。てっきり体調が悪いんじゃないかって思ったから見に来ただけ」
「あ、そうだ、よね」
少しずつエリアの声は小さくなっていった。途端に申し訳ない気持ちが生まれてきた。腹違いの姉は自分の寝坊を体調不良かと心配してくれたのだ。その頃のエリアはベッドの中でぐっすりと眠りを謳歌していたのに。
「お母様は何か言っていた?」
エリアはアリスに問い掛けた。朝食に行かなかったという事実が急に恐ろしいことに繋がるのでは、と脳裏によぎったからだ。少し青ざめるエリアとは対照的に、アリスは紅茶の入ったティーカップを一口すすってから、エリアの問いにケロッと答えた。
「特に何も。お父様の方がエリアはどうした、って聞いたわ。そしたらお母様は体調が悪いのかもしれません、あの子もそんな年頃でしょう、って言ったの。そうしたらお父様もそれ以上は何も言えなくて」
それで自分も少しエリアが心配になった、とアリスは続けた。同時に今朝の食卓はそれ以降会話が無く、まるでお通夜のようだった、とも言った。
「そう。ごめんなさい、アリス」
エリアは顔をアリスから背けたままそう言った。
「別に謝ることじゃないでしょ。それに早く元気になってもらわないと困るもの」
「困る?」
アリスは、ご馳走様、と空のカップをソーサーの上に置いた。
「昨日のお父様のお言葉を忘れたの?次の王位の話。勿論私たちのどちらかがならなければならない、とまでは言っていないけれど、でも実質どちらが王位を継ぐかという話だったでしょ」
「どちらか、って」
何故わざわざ「選ぶ」必要があるのだろうか。どちらが相応しいかなんて、国民全員が知っているだろう。
「アリスがなるべき、だと思うよ。私と違って頭も良いし。私は他の国と関わるなんて出来ない。本当はお父様もアリスを選ぶべき、なんだよ」
自嘲気味だが、エリアにとっては本音だった。アリスは優しくて気高い良い指導者になるだろう、とエリアは思っていた。
「なるべきって、どういう意味?」
エリアはハッとなってアリスを見た。アリスの言葉から激しい怒りを感じたからだ。
「エリア。私は王位を継ぐということになんてこだわっていないわ。そして、お父様に選ばれたいわけでもない。どうして私が昨日のお父様のお言葉にこうまで昂っているのか分からないのね?」
アリスの剣幕にエリアは何も言えずに立ちすくんでいた。
「これはチャンスなのよ。お父様に、敬愛すべきサードレアン王に認められるためのチャンス。お父様に選ばれるのではなく、お父様の信頼と勝ち得るためのいわば最大の好機なの。お父様の期待に応えることが出来る、というのに」
そこまで言ってアリスは窓の外を眺めた。
「エリアにはお父様に期待を抱かれているという事が分からないのね」
「そうじゃない、ただ私は」
王になるならアリスだよ。その一言がエリアは言えなかった。胸の中で言葉が止まってしまっていた。
「貴方にとってお父様はその程度の存在なのね」
そう言ってアリスはスタスタとドアの前に歩いて行った。ドアノブを手に掛けたタイミングで、エリアの方を向かずにぼそりと言った。
「良き競争相手として、互いに高め合えると思ったのに」
そう言ってアリスは部屋の外に去っていった。エリアは呆然と部屋の中に立ち尽くしていたが、すぐにペタン、と座り込んでしまった。
エリアにはお気に入りの場所があった。そこは朝日の美しさも、夕日の儚さも、夜が放つ幻想的な星々の芸術も、すべてが見渡せる場所だった。何より気に入っているのは、誰にも邪魔されずに済む特等席であること。そこは城の屋上であった。
「沈むお日様は、綺麗だな」
ポツリ、とエリアは声を発した。それは誰に向けたものでもなく、不意に発せられたものである。エリアは落ち込んだときや、耐え切れなくなったときにはここに来て、景色を眺める。
アリスの言葉が胸に突き刺さっていた。父、サードレアンに期待されているという言葉と、父に対する思いがその程度なのか、と告げられたことの二つからだ。エリアにとってサードレアンは唯一の肉親である。幼い頃には何度も笑顔を見せてくれた優しい父であり、尊敬と愛情を抱く人物だ。しかしエリアは今の父に抱かれている感情に自信を持てなかった。
今のエリアは自分の城でびくびくと怯えている不甲斐ない、情けない小娘でしかないことは認識している。自分の城だというのに、胸を張って歩くことすら躊躇してしまう。そんな情けない第二王女なのだ。
「お父様」
エリアは自分の首元につけている、赤い宝石――サーファルドの国宝石で「セレビア」といい、赤い光沢を放っている――を飾ったペンダントをギュッと握りしめて目を閉じた。エリアが幼い頃の夜、人竜伝説の本を読み聞かせてくれた後に、このペンダントをくれたのだ。これがエリアにとっての父との確かな繋がりである。これに触れていると父の温もりを感じる、そんな気がしていた。
瞑っていた瞼を開け、夕焼けに染まる城下町を眺めた。エリアはこの町のどこか分からないところで産声を上げた。懐かしさなど感じない町を自分が治める姿を想像して、すぐにやめた。
エリアは一歩前に出て屋上の縁石に立った。真っ赤な世界と靡く風が心地良い。複雑な心境の中でフワフワとした自分自身を感じていた。
次に感じたものは背中に誰かの手が触れた、ということ。
浮いた。
自分の足が何も踏みしめていないことに気付いたのはすぐだった。しかし気付くと同時に現状の理解は出来なかった。ほとんど本能で身体を上向きにした。誰が自分を突き落としたのかと疑問に思ったわけではないが、結局逆光で誰が押したのか、というのは分からなかった。
ジタバタと手足をもがいても掴めるものなど何もない。ひたすらに空を切る自分の身体の一部は、まるで自分の一部ではないようだった。そうして空が遠くなる。もうすぐ地面にぶつかってしまうだろう。エリアはその衝撃に備えようと――無駄な努力を――して自分の身体を抱きしめた。そして静かに目を瞑る。衝撃の前にエリアはスッと気を失った。
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