Ⅰ 旅立ち (2)

エリアは生まれてから二か月しか経っていない頃にこのサーファルド城に母に連れられて来た。母は流行り病を患っており、自分の死期を悟っていた。しかし折角授かった自分の娘を置いて死ぬわけにはいかない、という強い意志で城まで赤子を胸に抱いて来た。

 当然の如く門番には汚い娼婦だ、とぼろきれのように扱われ、門前払いをくらった。しかしエリアの母は諦めずに、せめてこの娘だけでも父に会わせてくれ、と土下座しながら頼み込んだ。自分がいかに薄汚い娼婦でも、生まれてきたこの子に罪は無いのだ、声を荒げてそう言った。

 門番は呆れかえり、ならば、とその父親の名を訊ねた。そして娼婦の言った名前は、あろうことかこの国の王ではないか。門番は腹を抱えて笑い出し、「それはケッサクだ、良いだろう。王に謁見させてやろう。哀れで惨めな汚い娼婦よ」と言い、門を通らせた。

 そして辺りの大臣やらメイドやらが鼻をつまんでいるのを尻目に、一目散に玉座の間へと走り出した。

 門を開けると、そこにはサードレアンがいた。娼婦は息を切らしながら王に近付いた。

 周りの兵士たちは不審に思った。サードレアンは立ち上がると、娼婦に歩み寄っていき、その子を娼婦から受けとった。


 「その子はエリア。貴方の子でございます。サードレアン様」


 その言葉を最期に、娼婦は玉座の間で息を引き取った。サードレアンは腕の中の温もりに優しい目を向けた。


 「エリア。おかえり」


 当時のサードレアンは王の責務に重圧を感じ、外の空気を吸いたい、と夜の城下に繰り出した。そこでその娼婦と一日だけの夜を過ごしたのだ。


 「国民は賢王の過ちとして、未だに話を持ち出します。その俗っぽさも陛下の愛される要因であると思いますし、今更それをどうだと口には出しません。しかし陛下、そのエリアを王位継承の候補として考えるのは私には理解が出来ません」

 「リアナ。私はエリアを信じている。この子は人の辛さを知り、人を助けることに全力を尽くせる優しい子であることを私は知っている」

 「それは何故です?」

 「私の子だからだ」


 その言葉にエリアはいたたまれなくなった。自分は本来この城にいるべき人間ではないのだ。だから「忌み子」なんて呼ばれるのだ。それがあろうことか王になる資格を持ち合わせているというのか。

 エリアはクルリ、と両親に背を向けると部屋を後にすべく駆け出した。


 「エリア、待ちなさい!お父様の話はまだ終わっていないでしょう!」


 アリスの呼び止める声が聞こえたが、頭をブンブンと振ってその声を振り切った。


 「エリア様。どうなさいましたか」


 部屋に戻ったエリアに声を掛けるのは、長らくサードレアンに仕えてきた執事であるバルドだった。アリスとエリアの姉妹はずっとバルドに世話になってきたので、エリアにとっては数少ない心を許せる人物であり、この広すぎる城で唯一人、エリアが素直に話せる相手であった。


 「バルド、ごめんなさい。驚かせてしまった?」

 「ここは貴方の部屋ですぞエリア様。何をこの老人めに遠慮することがございますか」


 初めて見た時はまだ黒髪も残ってはいたものの、今やすっかり白髪だけの老人となってしまったバルドだが、言う事は未だにハキハキとしている。城の皆から愛される名物老人は少しばかり腰が曲がってきたのに、未だに胸を張ろうとする。


 「ほら、あんまり無理をしないの、バルド。ところでこの部屋で何をしていたの」


 エリアが周りをキョロキョロと見渡すと、書斎に梯子がかかっているかと思えば服を仕舞い込んでいるクローゼットは無造作に開け放たれ、エリアの礼服やドレス、それにネグリジェまでもが見える状態になっている。


 「バルド、まさかとは思うけれど」


 嫌な想像がエリアの頭を巡る。この老人に限ってそんなことはないと信じてはいるのだが、今のエリアは少し悲観的に物事を考えてしまう。


 「誤解なさらないでくださいエリア様。私はこの部屋を少しばかり整理しようとしていただけでございます。ほら、もう着られない服もあれば、読まない本もあるでしょうから。とはいえ、まずはエリア様に一声かけるべきでしたな」


 面目ない、と頭を下げるバルドに、エリアは困った顔をせざるを得なかった。基本的に仕事は凄く丁寧で早く、礼儀正しくて信頼も勝ち得ている素晴らしい執事なのに、どこか抜けているところがある。とは言え、そこが憎めないところでもあるのだが。


 「本当だよ、バルド」


 エリアはそう言って、さっきまでの自分の嫌な感情が大分薄れていくのを感じていた。そして部屋の中の梯子をどかそうと書斎の前に立った。


 「あれ、これって」


 ふと目についた本を手に取ると、それはとても懐かしい本だった。昔、サードレアンに何度も読んでもらった本で、その証拠に表紙は少しボロボロになっている。


 「どうなさいましたか、エリア様。おや、これはお懐かしい。人竜伝説の本ではございませんか」


 エリアの肩越しにバルドはその本を見つめた。


 「うん、とっても懐かしいな。私はこの本が大好きだった。昔のサーファルドの事も書かれているし、当時は本当の事だと思って聞いていたよ」


 「人竜伝説」とは今から五百年ほど前の時代を描いた伝承の記録であり、伝説上の生物である竜が、人間と協力して国を創ったり、互いの文化を分け与えて繁栄したりしていく様を記している。この本はその人竜伝説の最後である、一つのきっかけが人間と竜の溝を生み出し、決別し、その後竜が表舞台から姿を消すまでを記している。


 「お父様に本当の竜はいるの?なんて何度も聞いていたのを思い出したよ。お父様もいずれは会えるよって優しく頭を撫でてくれた。今思うと竜なんて生き物がいるわけがないのに」

 「夢がある良いお話ではありませんか。私も出来る事なら人生の中で一度くらい竜を拝みたかったものです」


 バルドはそう言ってエリアに微笑みかけた。

夜になった。エリアはベッドの中で久しぶりに見つけた本を読みながら、気付けば眠りに落ちた。気持ちのいい眠りはいつ以来だろうか。


 白いカーテン越しに朝の光が差し込んでくる。身体を伸ばしたと同時に時計を見ると既に八時を過ぎていた。サーファルドの王族は七時半には食卓に家族で座り、料理長の作ったサンドイッチと、新鮮な野菜で作ったサラダ。そして――何故かこれだけはお世辞にも美味しいとは言えない――ドロッとしたスープを皆で食べる、と決まっている。エリアはその時間があまり好きではなかった。幼い頃は父の傍に座り、父がサンドイッチをスープに浸して口元に運んでくれたが、流石にこの年齢になってまでそのようなことはしない。代わりに継母リアナのマナーに対する厳しい言葉が食卓を彩る事が増えていった。

 アリスはサーファルドと隣国の関係や、城下の人々の暮らしに興味があるのでその話題を食卓でよく持ち出した。父もアリスの発する言葉一つ一つにある時は同意を、またある時は優しく諭しながら互いにフォークやスプーンを進めていた。父も時折エリアに同じような話題を持ちかけてはくれるのだが、エリアは曖昧な返事しか出来なかった。鋭い視線を向けるリアナの気に障る、もしくは意にそぐわない発言をしようものなら、食後自室に戻るまでにメイドたちがコソコソとエリアの不勉強を美味しそうに噛みしめているのを聞く羽目になる。

 そんな朝の爽やかさには程遠いどんよりとした曇り気味の食卓を今日は逃れられた。厳密には久し振りの読書が楽しくて、本を枕の横に置いたまま眠ってしまうという、およそ人には言えないような出来事がきっかけなのだが。

 コンコン、とエリアの部屋をノックする音が聞こえた。エリアは驚きのあまり、シーツをガバッと身体に引き寄せた。本来なら、まずは反応なり返答なりをするべきなのだが、それをするのが幾分か遅れてしまった。


 「ど、どちら様、ですか」


 自分の住む城でほとんどの人間が父の家臣であるというのに、どちら様、というのは少しおかしい表現である、と言ってからエリアは思った。しかしノックの主はその言葉を気にしない様子で、凛とした声をエリアに掛けた。


 「私よ、エリア」

 「……アリス?」


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