天文学的な確率の中で

豊原森人

天文学的な確率の中で

 自身が宇宙人であることに対するコンプレックス――というものを抱き始めたのは、物心がついた幼少の時分からでした。

 父親は名も知らない惑星に属する宇宙人であり、母親は地球に生まれ地球に育った、ごく普通のニホンジンで、二人はどういった馴れ初めか、とあれ幼少期に一度だけ聞かされたことなので忘れてしまいましたが、あるきっかけで熱烈な恋に落ち、やがて子供たる私を生んだというのです。

 要するに私は地球人と、宇宙人のハーフということになるのですが、その私が、地球で生活してゆく上でひとつ、どうにもならない不便というか、ひどい引っかかりのようなものを覚えることがあり、それは、ヒューマンビーイングに例外なく備わっている、愛情というものを理解する意識が、甚だ欠落してしまっている点でした。人を愛する、という気持ちを自覚できず、また恋愛を題材にしたドラマや小説を読んでも、その恋焦がれる気持ちというのが分からないのです。感情表現をする際の土台となる、悲しいとか嬉しいとか、その基礎的な思考回路こそ備わっているのですが、それもまた、何処か地球人と違うというか、有り体に言えば実に鈍く出来ており、故に学校にて、どんな事にも魯鈍な反応を見せる私はつまらない奴、との烙印を押され、友達付き合いというものがまるで出来ず、いつもひとりぼっちなのでした。


 そんな高校一年の秋――私は取り立てて意味もなく、学び舎の屋上で、濃い、燃えるような夕焼けと、迫り来る青白い夜を、ただ待ち続けていました。つまらない日常からの逃避と言えばよいのでしょうか。ただ何となく感傷的な気持ちで、ボンヤリと空を、宇宙を眺めていたのです。

 すると、控えめにドアが開く音が聞こえ、齢六十近い、ひどく痩せ気味の警備員がヌッと現れました。施錠の時間だから下校するように、との言葉が投げかけられるに違いないと勘付いた私は、すぐに傍らに置いたリュックを持って立ち去ろうと思ったのですが、突如として一人の女子生徒がその警備員の後ろからスクールバッグと、バズーカのような望遠鏡を抱えて現れ、何か二言三言交わすと、それで警備員は帰っていってしまいます。

 その女子生徒に、私は見覚えがありました。同級の久保亜里沙という、天文部に所属するただ一人の部員で、クラスが違う彼女とは、合同体育の時間などに、たまさかペアを組み、会話を交わす仲ではありました。もっともそれは彼女から何か声を向けられるのに、生返事を返すだけというような塩梅でしたが、亜里沙も私と同じく、何処か人付き合いが苦手そうな風情があり、常に一人ぼっちの私にシンパシーめいたものを感じていたのかもしれません。

 亜里沙はすでに日も落ちかけている、薄明るい空の下で、すでに帰り支度を整え、リュックを手に提げた状態で所在無さ気にしている私へ向かい、

「町田さんも天体観測ですか?」

 そよ風に、私と同じくらいの、背中まである長い髪を揺らしながら、とても柔らかく、そして一寸緊張した声を向けてくるので、これに私は平生の、決して意識しているわけではない、極めて宇宙人気質な無表情で、

「いえ、違います……」

 と、相も変わらない、愛想の無い返事を返したのですが、すぐとあなたは、私の返事を待ってましたとばかりに、目をキラキラさせて、

「良かったら、一緒に見てみませんか? 夜の屋上は、一人だとちょっと怖いんです」

 と、鞄の中から星座表を取り出して、私のほうへすすめて来るので、この積極的な彼女の行動に、取り立てて断る理由も無く、相変わらずの昼行灯風で、私はそれを受け取り、星座を何となく観測し始めたのでした。

 亜里沙は、実のところの目当ては月の観測だったらしく、件のバズーカのような望遠鏡を、三脚含め手際よく組み立てると、本当は半月の時期が、一番クレーターが見やすいんですけどね、などと言いながら、望遠鏡を覗きこみ、そして大学ノートを開いて、観測日記のようなものをつけているようでしたが、そこで私は、すでに日が落ち、代わりに頭上で煌々と輝く月の存在に気づき、その月光は晩秋の澄んだ空気も手伝ってか、異様なほどの光量を放っていて、ノートに文字を書くことも、星座表を見ることも何ら苦では無いことに気づいたのです。そして、月と競い合うように星たちが大小様々、煌いており、そのスターダストの海を眺めていると、一瞬、一筋の光が流れ落ち行くのが見え、丁度亜里沙も望遠鏡から目を離して天を何気なく仰いでいたところであり、思わず、

「あっ」

「お」

 ほぼ同時に驚嘆の声を発してしまい、これが可笑しかったのか、亜里沙は不意と吹き出し、ニコニコ顔でまた、ノートに書き込んでゆくのです。

 私はそれに釣られて、何気なし愛想笑いを浮かべながら、とあれ一寸雰囲気がやわらかくなってきたこともあり、思い切って、

「久保さんは、どうしてこういうのが好きなんですか?」

 なんとも馬鹿みたいな、主語が抜け切った質問をしてみると、亜里沙は一寸はにかみながらノートから目を離し、私の瞳をじっと見据えて、

「単純に、宇宙が好きなんです。人間の手の届かない神秘と言えばいいでしょうか……あの月とか、見えない惑星とか、今落ちていった流れ星とか、そういうのにも歴史があって、それを私たちが少しでも感じ取れていることが、すごく不思議というか……」

 などと、冷たい空気に刺激されてか、頬を妙に赤らめながら、恥ずかしげにぽつぽつと話す彼女の口から、宇宙というワードが出てきたことに、何か私は、背筋がピンと張り付く思いで相槌を打つほか無かったのです。

 しかし、彼女の“宇宙好き”な性質は、先述の通り普段から引っ込み思案風であまり他人と接することを得意としていなさそうな反動からか、ここぞとばかりに静かに爆発し始め、今流れ落ちた星の隣に見えるのが何座であるとか、これから冬になるとより空気が澄んで、肉眼でもA星が見えるとか、今日のような満月だと星が見えにくくなるので、本当は新月の頃が一番観測に向いている。その中で流れ星が見れたのはラッキーだね、などと、兎角宇宙に関する基礎的または専門的な豆知識を嬉しそうに私へ向かって語り始めるのです。

 私は、彼女のこうした、傍から見ればガチ勢が知識をひけらかしているような小講義に、嫌な思いと言うものはまるで抱きませんでした。むしろ、私の故郷と言ってもいい宇宙について、熱っぽく、やけに興奮気味に、そして心から楽しそうに語る彼女を見ると、何か今までに感じた事の無い、妙な感覚に襲われたのです。ソワソワとした、落ち着きの無い、やけに浮ついた心持になり、また亜里沙はそんな私の心に、

「私、将来は宇宙に関する仕事がしたいんです。そうでなくっても、宇宙旅行とか、生きてるうちに絶対に行きたいですね。それに、宇宙人とか、絶対にいると思うんですよ。一度でいいから会ってみたいですね……」

 更なる刺激を、無邪気な願望と共にはさんでくるので、これに私は、つい、

「久保さん」

 彼女を呼び、宇宙を仰いでいた、輝かしい瞳をクルリと私のほうへ向けたのと同じタイミングで、

「私、実は宇宙人なんですよ」

 普段の私であればおくびにも出さない、自分でも意識してはいませんでしたが、思い起こすと実に爽やかな笑顔と共に、彼女の瞳をじっと、ただ見つめて、そう声を向けたのです。


 私は自分から、他人に自身の素性を語ったことは、人生で一度だってありませんでした。それは、やはり宇宙人であることを知られると、何らかの差別を受けたり、変なワイドショーのネタにされたり、ゴシップ紙の記事にされたりする恐れがあるから、絶対に控えるように、という母親の厳しい命令があったからです。

 事実宇宙人とのハーフたる私も、純宇宙人である父親も、見た目には地球人と大した差は無いのです。ただ、髪の色が一寸した光の加減で、名状しがたい、ひどく複雑な色味を見せることから、専用の毛染めをしなければならなかったし、先述の通り感情を感じ取るのが、もとよりその土台となる思考が地球人と違うため、何処か他人の気持ちを忖度できず、会話の輪に入れない自分が、この星の全ての人類から取り残されているような感覚に襲われることもあり、こうした、地球人類と“何かが違う”自分に、幼少時よりいつしかコンプレックスを抱き始めました。


 宇宙人と地球人の子なんかに、生まれたくなかった。

 純粋に地球人として生まれたかった。


 そんな願望を常に抱き続けていましたが、これは生まれてしまった以上どうにもならないことなので、成長するにしたがって諦観めいたものを抱くようになりましたが、次第に宇宙人であること自体をタブーだと感じるようになりました。

 しかしこの時私は、彼女の宇宙に心酔しきっている姿を見て、宇宙人コンプレックスが次第に薄れ行くのを感じました。実に下手な例えですが、地方出の田舎者が、都心の移住先で郷里を褒められたことに対する嬉しさに、似通ったものがあるかもしれません。

 目の前の、宇宙を愛してやまない彼女に、宇宙人であることを何の前触れも無く明かしたら、いったいにどんな反応を見せてくれるのか。純粋にそう、興味を持ったのです。また、私がそのようなことを言ったところで、宇宙人であると安易に信じるはずが無いという確信もありました。本当に軽い冗談のつもりでした。

 私の唐突な言葉に、亜里沙はどこか意外そうな表情を向けていたのですが、その時、またぷっと吹き出すと、

「なんて言えばいいんでしょう……」

 傍から聞けば唐突で、実につまらない冗談です。しかし、普段は昼行灯風の、極めて愛想の無い私のこのおふざけが、彼女にはずいぶん新鮮に映ったようで

「宇宙人だというなら、証拠の一つでも見せてください」

 と、こちらの冗談に乗ってくれます。白い息を吐きながら、にこやかに、輝かしい瞳でもって見つめてくれる彼女の姿は、青白い月光に照られていることもあって、どこか妖しげで、魅惑であり、最前に感じていた、落ち着きの無い胸のざわめきが、一寸だけ強くなります。その心境の変化に戸惑いながら、私はつとめて冷静に、面白くない冗談を言ってしまってすみません、と、自身のジョークセンスの無さを卑屈に詫びようとした瞬間、

「……町田さん? どうしたんですか、その目」

 僅かに訝ったような口調で答えてくるので、私は気の抜けた声で返事をすると、

「目の色が――そんな、えっ?」

 ただならぬ、動揺した様子の彼女を見て、私はすぐにでも、鏡や、スマートフォンのインカメを使って、自身の身体の変化を、すぐに確認しようと思いました。しかし、一寸オドオドする私を尻目に、亜里沙は暫く、私の瞳をずっと見つめ続け、そしてぽつりと、

「綺麗」 

 と呟いたのです。この時の私は、とにかく一体自分の身体に何が起きたのか、ただ恐ろしくて、すぐに確認したくてたまらなかったのですが、一方で彼女のその言葉は、心中の奥深くに、しっかりと刻まれていました。

 ようやくリュックに入れていた手鏡を取り出し、自分の顔を見て、はじめて気づきました。普段は黒々しい瞳が、見事なまでに鮮やかな、深い青色――宇宙空間に果てしなく広がる銀河が、そのままダイブしたような煌きをキラッ、キラッと放っていて、ヒトとしてまずありえない、CGのような色味を見せています。これに私も、思わずハッと顔を上げ、彼女の唖然とした顔を見るしかありませんでした。

「どうしたんですかそれ……!」

 亜里沙は、相変わらず、目の前に幽霊でも現れたかのような驚愕と、興奮の表情を浮かべています。この短時間で、カラーコンタクトの類をつけてまで冗談を言う性質ではない私のことを、彼女は十全に理解しており、私が宇宙人であるという事実を、いよいよ信じている様子でした。

 内心で、しまった、と思いました。母親の、生まれてこの方、しつこく言われ続けていた警告を蔑ろにして、実に安易に、その場のノリ、という感覚で正体を明かしてしまったのです。しかし、この瞳の色の変化が起こるとは、思いもよらないことでした。そして、亜里沙のミーハーなファン、といった具合の、静かなテンションの高揚ぶりが、いかにも誰かに言いふらしそうな雰囲気を放っていたこともあり、自身のイージー・ミスへの憤りもあって、人生初と言っていいほどに感情が渋滞してしまい、

「やっぱりなんでもないです。このこと、誰にも言わないでください。どうか……」

 消えるような声で早口に呟いた後に、私はリュックを抱えて、逃げるように屋上を後にしました。そのまま階段すばやく駆け下り、学校の外までノンストップで駆け出しましたが、その間、屋上のほうを振り返ることは一度だってありませんでした。もし彼女が電話をかけていれば、誰かに私が宇宙人であることを知らせているに同じことだ、という被害妄想じみた考えが頭によぎり、それを確認するのが恐ろしかったのです。


 家に帰りつくと、時刻はまだ七時を少し過ぎたぐらいでした。玄関にある姿見を見ると、すでにあの青い瞳は、平生の黒色に変化していて、これに私は夢でも見たいのだろうか、なんて錯覚を覚えながら、廊下を歩いていると、ダイニングにて母が夕食のコロッケのタネ作りに没頭している姿が目に入り、その熱心な、集中極めた様子を見ると、挨拶をするのも悪いかと思い、特に声をかけることも無く二階の自室に向かいました。その途中、不意と階段の突き当たりにある、父と母の寝室の、ドアの隙間から灯りが漏れていないことに気づき、なんとも首をかしげる思いでした。この時分であれば、父もすでに勤め先の商社から帰っているはずであり、好物のオレンジジュース飲みながら、母と、周囲がハートに包まれていそうな、甘ったるい雰囲気の中でとりとめの無い会話をしているのが常だったので、その父がダイニングにいないとなると、この目の前の寝室で、持ち帰ってきた仕事を片付けているのかと予想していたので、その部屋が真っ暗、というが私にはどうにも不思議でした。残業があって、まだ帰ってきてないのかな、と思いながら居間のドアを開けてみると、その予想はあっさり外れました。父はちょうど、物干しを兼ねている大き目のベランダに置かれたベンチに腰掛け、星空を眺めていたようで、私が部屋に入った気配を感じ取ると、振り返って、

「おかえり、菫。今日は月がとっても綺麗だよ。一緒に見ないか」

 武骨な顔立ちながら、実に優しいまなざしと穏やかな笑顔を向けて、一人腰掛けていたベンチからお尻をずらし、私が座る分のスペースを作ってくれます。ドアを閉め、月明かりが隅々まで照らされた寝室からベランダへ出ると、相変わらずの肌寒さに唇を噛み締めましたが、父はそんな私に、

「寒くない?」

 と、また優しく声をかけ、パーカーのポケットから、カイロを手渡してくれました。それを頬に押し当てながら、私は、ことの顛末を全て、前置きなく、父に話し始めました。宇宙人の相談は宇宙人にするべきだと思ったし、実に温厚で、よほどのことが無い限りは怒りの感情を見せない父親と違って、母は勝気な性格ゆえに一寸キツい言い方でもって叱ることがあるので、思いのたけは全て父にぶつけることにしたのです。


 宇宙好きのクラスメイトと天体観測をしたこと。

 宇宙人であることを、一寸した冗談のつもりで明かしたこと。

 その瞬間、瞳の色が青色に変化したこと。

 そして、友人は宇宙人であることを信じた様子だったこと。

 

 全てを訥々と話している間、父は実に真剣に聞いてくれていましたが、話し終えると、嬉しそうに顔を綻ばせて、

「明日、その子にまず会ってみなさい」

 という実にあっさりした、悪く言えば何の解決にもならないアドバイスを一言与えてくれ、そろそろ夕食だから下に行こう、とベンチから腰を上げ、うんと背伸びをするのです。

 私は、何処かモヤモヤした心持でダイニングに行き、母が作るコロッケが揚がるのを待って、ぼんやりテレビを見ていましたが、ここで、先の、父の言葉の真意を知ることになりました。母がコロッケを揚げているところに、父が先ほどと同じく穏やかに笑いながら、母の肩に手を置いてもむような仕草を始め、ついには頬にキスまでし始めました。母は、

「ちょっと。どうしたの? 菫がいるから……」

 口ではそういいながら、まんざらでも無さそうにしている姿を、何気なく見ていると、ここで父の瞳が、ついさっき、私がそうであったように――鮮やかな青色に輝いていることに気づき、父の、愛情を十二分に滾らせた恍惚顔を、私はただ馬鹿みたいに唖然としながら見つめていました。そして、父から与えられた“ヒント”の真意に勘付いた瞬間――すぐに席を立って、洗面台に行き、自分の瞳を見つめます。そこには、帰宅した時と変わらない黒い瞳が、何の面白みもなさそうにキョロリと光っていました。ここで私は、目を閉じて、つい先ほどの、亜里沙の姿を思い起こすのです。当世風とはかけ離れた、それでいて清純な雰囲気を漂わせてくれる黒く、艶やかな髪や、長く伸びた睫毛や、今日の満月の様に香しい瞳や、小さい桜色の唇や――ひとつひとつの彼女の造詣を、しっかり脳内に再現し、そして私が件の冗談を言った際の、淑やかで、何処か困ったような、意外そうな反応を見せた、あの情景を脳内の幻燈にくっきりと映し出した瞬間、私はぱっと目を開きました。

 私の目は、あの時と同じ――宇宙に際限なく広がるスターダストが、一気に凝縮されたような、青い輝きを放っていました。そして、彼女がこの瞳を、綺麗だと言ってくれたことを思い出し、また胸のさざなみのようなときめきがよりいっそう強く、苦しく、そして温かく私の心を包んでくれます。そして、その胸のときめきは、凶暴な衝動となって、ついに激しく、亜里沙を求めるようになりました。


 亜里沙に会いたい。

 亜里沙と言葉を交わしたい。

 亜里沙の瞳を見つめていたい。

 

 この気持ちは――


 私はいてもたってもいられなくなって、父と母に、学校に忘れ物をしたと告げると、家を飛び出して、学校へ向かいます。ひどく落ち着かない心持でした。宇宙人である私の、愛情を表したこの青色の瞳に、好意的な反応を見せてくれた彼女が、この感情ごと、私を受け入れてくれるのか。

 とにかく彼女の本当の気持ちを知りたくって、たまりませんでした。

 学校に着くと、私は昇降口脇の警備室に行き、先の枯れ枝めいた警備員に忘れ物をした旨を伝えると、アッサリと屋上へ向かわせてくれます。扉を開くと、亜里沙はまだ、望遠鏡を覗き込んで、天体観測をしていました。彼女は扉が開く音に反応して、望遠鏡から目を離し、突如として再び現れた私を見て、あっと驚いたような表情を向けてくれます。その駭魄の表情を見ると、なんとも言えない気恥ずかしさから、つい、

「忘れ物、取りに来て……」

 実際忘れ物をしたわけでもないのに、そんな嘘が口をついて出てしまいます。そんな下手な嘘など意に介さない様子で、亜里沙はふっと、笑顔になり、それからゆったりと歩み寄ってくると、

「町田さんは、どこの星の出身ですか? 探したくても、宇宙は広くて、わからないですよ……」

 まるで使用人をからかって、その反応を楽しむ、良家のお嬢様みたいな上品さでもって、声を向けてくれます。普段のおとなしげな彼女からは想像できない、悪戯好きの蝶のようにおどける彼女が、私には愛しくてたまりませんでした。

「久保さん。あのう……」

 私がとにかく会話をつなげようと口を開こうとした瞬間、亜里沙は私の頬をふわっと手で包み込んで、

「ほんとに、綺麗です。青くて、でも深い……宇宙がそのまま、ここにあるみたい」

 頬のぬくもりと共に、美しいことばを、私へ贈ってくれます。この時点で、もう私の心には、理性とか、ときめきを押しとどめる力は残っていませんでした。青い瞳から見える世界は、私が長年悩まされてきた宇宙人コンプレックスも、バイオロジカルも、ヒューマンビーイングも超越した、亜里沙の姿しか見えませんでした。

「――私の目が、どうして青いか、分かりますか?」

 私がそう問いかけると、

「宇宙人だから。ですよね?」

 亜里沙は変わらないニッコリ顔で答えてくれます。その温かい、親友や、恋人に向けるであろう、魅惑な笑顔を見て、私は泣きたいほどの熱い思いが、心中で迸ったのを感じました。

「初めて気づいたんです。宇宙人なので、髪の色がみんなと違うので、毛染めを使っていますし、考え方とか、感情の表現とか、そういうのも――地球人と違うんです。この瞳の色もそうです。でも……この色が出ているのは、実は……」

 心中に溜まった思いのぶつける私を、亜里沙は穏やかな表情を崩さないまま聞いてくれます。この瞬間、つい先ほど、家で父が、母にしていたように、私は思い切って、精一杯の愛情表現を――彼女の右頬に、口付けをしました。本当に一瞬でした。

 そして次に、私の青い瞳に飛び込んできたのは、見る見るうちに顔が赤くなってゆく亜里沙のキョトン顔でした。呆気にとられた様子の彼女を見ると、ここで私は不意と冷静になると、断りも無くキスをしてしまったことに、とんでもない事をしてしまったと思い、なんともバカみたいにおろおろしながら、

「すみません……」

 下を向いて、か細い声を精一杯振り絞りました。しかし亜里沙は、顔を赤くしながら恥ずかしげに目線を逸らしていたのを、

「そ、そんな。謝らないでください」

 不意の謝罪に、一寸動揺した様子で手をモジモジさせる彼女の姿を見る限り、私から送られた愛情の電波を、しっかりと受信してくれたようでした。

「突然こんなことしちゃって、怒ってないですか?」

「怒らないですよ。ただ、町田さんにキスされるなんて、ちょっとびっくりしちゃって」

 亜里沙は、すこし頬を緩めて、私に笑いかけてくれます。優しげに光る彼女の瞳が実にまぶしくて、しっかり見ることができません。しかし、そんな彼女を見ていると、私の心の中から、卑屈で病的な宇宙人コンプレックスが、不意とわき起こってしまって、

「……私、宇宙人ですけど、嫌じゃないですか?」

 おそるおそる、伺いを立てるように言うと、亜里沙は私の手をぎゅっと握って

「そんなの、何も嫌じゃないです。宇宙人も……町田さんも、人を好きになるって、新鮮で、すごく……何と言うか……」

 ゆっくりと吐き出すように呟いてから、亜里沙も何か特別な思いが溢れそうになってしまった様子で、言葉を繋げなくなった代わりに、私をやさしく抱きしめてくれます。彼女の体温と、鼓動は、私の宇宙人コンプレックスを浄化していくような心地のよさを与えてくれ、私も彼女をぐっと抱きしめ返します。やがて、ふいと抱擁をといてから、改めてお互い見つめあうと、彼女の透き通った瞳が、月の穏やかな黄金色に反射して、頭上の星屑たちよりもずっと綺麗に輝いていました。その光が私の青い瞳に映りこんでいるのだ、と思うだけで、私は一気に全身の血が熱く、激しく沸き立つのを感じます。


 これが、“好き”ということなんだ――


 この青い瞳で、想い人を見ることが出来るというのは、どんな天文学的な確率なのだろうか――その途方も無いプロバビレティーの中で、父と同じように、意中の存在に出逢えた奇跡を、この時は温かく煌く彼女の瞳を見つめながら、ただ有難く思うよりなかったのでした。

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天文学的な確率の中で 豊原森人 @shintou1920

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