Umbrella

アリス

第1話Umbrella



中学2年の時、同じクラスに半年ほどだが変わった女の子がいた。


椎名ゆい。


彼女は普通の人と比べると少しだけ変わっていた。

どう変わっていたのか。

例えば、パチンコ屋の鏡張りの柱の前でダンスのソロライブを公演していたり。

例えば、何もない空間を見つめて彼女にだけ見えている何かを鷲掴みして頬張って食べていたり。

例えば、道路などで車に轢かれた猫や鳥などをずっと眺めていたり。

他にも急に歌いだしたり、ぼうっとしたりと変なエピソードを挙げたらきりがない。

これらは全部人から聞いた話だけど。

でもその中でも僕の印象に残っているのは、雨の日は傘を差さないこと。

小雨だろうと大雨だろうと、彼女は傘を差さず両手を広げて踊っている。


初めてそれを目撃したのは、2年に進級して間もない4月のことだった。

始業式の日、朝から地雨が降っていた。

どんよりとした雨雲に気分も落ち込みながら学校の玄関へ行く途中、グラウンドにふと目を向ける。


くるりくるくる。

両手を広げて、楽しそうに踊っている女の子がそこにいた。

びしょ濡れになる制服なんて気にも留めず、その子はひたすら回り続けている。


僕はその光景が目に焼き付いて離れなかった。

しかし、声をかけることもなく見て見ぬふりをした。

関わるのが面倒くさいと思ったから。

そもそも雨の中傘も差さないで回り続けている人間に、誰が話かけようと思うか。そう思う人間は、きっと優しい人間か面白半分の人間のどちらかだと思う。


教室へ行くと既にそこはとても賑やかだった。

新しい教室、新しい友人、新しい先生。

全てが新鮮で心境的にも気持ちが高ぶっているのだろう。

だけど、賑やかな声たちはピタッと止んだ

時間そのものが止まったような錯覚さえ覚えた。

クラスの声が止んだ理由、それは空気が読めないと言われてきた僕でさえ答えははっきりとわかった。

教室の扉、そこに先ほど雨の中で踊っていた女の子が立っていたのだ。


びしょ濡れになった制服。

頭から滴る雫。


その異様な光景に声一つあげることができない。

彼女は自分の席に鞄を置くと、その中から一枚のタオルを出して頭を拭きはじめた。

その次に腕、足と順番に拭いていく。

拭き終わったらタオルは鞄の中へしまい込み、代わりにジャージを取り出して着替えはじめる。

その慣れた手つきに噂は本当だと知った。


ひそひそとした話し声は教室中に広がる。

去年、彼女と同じクラスだった生徒が言うには、雨が降っても傘を差さずに濡れて教室に入ってくるのだそうだ。

その度に制服からジャージに着替えるようで。


そんな彼女の姿は、同世代の思春期真っ盛りの人たちには気に食わない存在で、男女ともに嫌われていたし先輩後輩にも彼女のことは知れ渡っているらしく、誰も彼女の近づくことはなかった。

先生たちもそんな彼女のことを気にはかけるが、あまり積極的に接しようとは思っていないらしい。

それは教師としてどうなんだろうとは思ったが、僕自身もあまり関わりたくないと思った手前なにも言えない。


始業式はみんな制服のなか一人だけジャージがかなり目立った。

ひそひそと声がそこら中から聞こえる。

聞こえていないわけがないのに、彼女は気にしていないのかまっすぐに檀上を見つめていて。


なぜか僕はその姿が印象に残った。


雨は放課後になっても降り続いていた。

部活に所属していない僕はまっすぐ家に帰ろうと玄関へ向かうとグラウンドに彼女はいた。


両手を広げてくるりくるくる。

顔は見えないものの時折楽しそうな声が聞こえてくる。

風邪をひくんじゃないかと少しだけ心配はする。


「ほら、あの子だよ」

「ああ。あの子が椎名ゆいとかいう…」

「だから言ったじゃん、頭おかしいって」

「キチガイだね、ほんと」


僕の横を通り過ぎる女子生徒二人。

くすくすと笑う声がざわざわと胸をくすぐった。

もやもやする感情が芽生えたが蓋をして、僕は家へと帰った。










それから月日が経って5月下旬。

この時期は梅雨なわけで、梅雨の時期と言えば、文字通り雨がよく降る。

彼女はほとんど毎日濡れて登校してきた。

何度か先生に注意されているのも知っている。

だけどやめる気はないようで注意された次の日もそのまた次の日も制服を濡らして、雨の中踊っていた。

くるりくるくる。

なにがそんなに楽しいのか、彼女は口を開けて笑って回り続ける。


そう言えば。

彼女の笑った顔、教室で一度も見たことがない。

彼女が笑う時は必ずと言っていい程雨の中や歌を歌っているとき、ダンスをしている時で共通して言えることはそれらはすべて一人でいるとき。

それはそうかもしれない。

陰口ばかりが飛び交う教室で笑うことはできない。

濡れた制服のまま教室に入れば、ひそひそとした話し声がクラスを埋め尽くす。


「床拭けよ」「汚いんだよ」「まじでキモい」「もう学校にくんなっつうの」


一見すればこれはいじめに入るのかもしれない。

しかし、中学生の「日常」なんてこんなもんだ。

悪口なんて誰かしらみんな言っている。

「多数」が集まればそれはもう「普通」のことだ。


とはいえ、そんな彼女を見て胸が痛くならないわけではない。

彼女はいつも一人。

話す相手もいない。

雨の中、あんなに楽しそうに笑っていた彼女は教室では口を一門字に結んで笑う気配なんて一切なくて。

かわいそうだとは思う。

思うけど、それ以上何ができるわけでもないから何もしない。

ただの言い訳だ、これは。



そんなことを思っていた僕だけど、6月9日と言う日に変化が起きた。

それは委員会でいつもより帰るのが遅くなったところから始まりる。

早く家に帰りたくて急いで玄関に向かうと、外はザーザーと雨が音を立てている。

晴れだと聞いていたのにお天気お姉さんを僕は許さない。

置き傘がある傘立てに一本だけ残っているビニール傘を手にして、玄関を飛び出した。


その時、ふとグラウンドに目を向けた。

彼女と同じクラスになってから変な癖がついてしまったようだ。

気が付いたらグラウンドを見てしまう。

つい見てしまう。

彼女は今日もいるだろうか、なんて思いながら。


いた。

いつもと同じ。

今日の朝登校してきたときには濡れていなかった制服を濡らして彼女は回っている。

嬉しそうに、楽しそうに。


普段は無視をしているというのに。

何も見ていないふりをしているのに。

何もなかったことにしているのに。


だけどこの日は違った。

気づいたら僕は彼女の歩み寄っていた。

なぜこんなことをしてしまったのか自分でもわからない。


「一緒に帰ろう」


声をかけるときょとんとした顔が僕に向けられた。

だがそれは一瞬のことで彼女は白い歯を見せて笑う。


あ、この顔。

教室じゃ見せてくれない笑顔。

彼女の笑った顔をちゃんとみたのは初めてだ。

こんな風に笑うんだって知って心臓が少しだけ脈を打った。


彼女は足元の水たまりを踏む。

若干僕の制服の裾にも跳ねたけど嫌な気はしない。

それはきっと彼女がなんの抵抗もなしに傘の中に入ってきたからだと思う。


全身びしょ濡れで、僕はかばんの中からタオルを一枚取り出して彼女に渡す。

今日の授業に体育があってよかったと心底思った。


「大丈夫。いらない」


また白い歯を見せて笑った。


「家はどこ?送るよ」


歩きながらそう聞けば、彼女は素直に答える。

その場所は僕の家と同じ方向。


「じゃあ明日から雨の日は一緒に帰らない?雨に毎日打たれたら風邪をひくよ」


なんでそんなことを言ったのだろう。

だけど口が勝手に動いていた。

彼女は大きな瞳を更に大きくして僕の顔を見る。

女の子に見つめられたのは初めてで照れくさくなってそっぽを向いてしまった。


そこから会話は何もなくて、だけど嫌な心地なんて一切なくて。

しばらく歩いていると、隣から小さなくしゃみが聞こえた。

ついでに鼻水を啜る音も。

僕はカバンの中からタオルを出して彼女に渡す。


「拭いたら?風邪ひいちゃう」

「ありがと」


今度は素直にタオルを受け取って、頭を拭きはじめた。

その間、その場所に立ち止まって僕は視線をどこにやればいいのかわからなくて下を向いていた。

「洗った方がいい?」「大丈夫だよ」「わかった」


タオルをかばんにしまい、僕たちはまた歩き出す。


「ねえ!!」


歩きはじめて草々、彼女は突然何かに気が付いたかのように前方を指さした。

どうしたの、と聞けば彼女は嬉しそうに言った。


「色違いのタイルがあるんだよ!!」


彼女が指さす地面には赤と白のタイルが無造作に散りばめられている。

色違いのタイルがあることくらい毎日歩いているから知っている。

それがどうしたのか僕には今一つ理解できない。


子供の様な無邪気な笑顔で、彼女は白い歯を見せて傘から飛び出した。

ああ、せっかく拭いたのに意味ないじゃん。

雨の中、彼女の声が響いた。


「赤色のタイル以外踏んじゃだめだよ!」


再び下を見て、そういうことかと納得する。

小学生の低学年の時、僕も同じ遊びをしたことがある。

そう、小学生の遊びだこれは。

14歳になった今そんな遊びはしない。

だけど彼女は時折声を出しながら笑って赤いタイルだけを踏んで。


「マンホールはセーフ!」


くるりくるくる。

まるで傘をコマのように回した時みたいに彼女はマンホールの上で回り続ける。

自然と笑みがこぼれて、彼女と一緒に雨に打たれながら赤色のタイルを踏んでマンホールの上で踊った。


いつの間にか雨は止んでいて、だけど僕たちは傘も閉じずに夢中で赤色のタイルだけを踏んでいた。


それが僕たちが仲良くなったきっかけ。

彼女と話すようになったきっかけ。





椎名さんと話すようになってから彼女は何かと僕に声をかけるようになった。

話す内容は実にどうでもいい話ばかりだけど。

今日の朝ご飯だとか、今日見た夢の話だとか、本当にくだらない話。

彼女と一緒にいるようになってから彼女はあれ以来、雨に濡れることはない。

雨の日は必ず彼女の家に行って一緒に登校して一緒に帰っているから当たり前なんだけど。


天気が晴れていれば肩を並べて。

天気が曇っていれば「雨降るといいね」って言って。

天気が雨の日は傘を差して楽しそうに笑って。

委員会で遅くなる日も彼女は教室で待ってくれている。

歌を歌っていたり、廊下でダンスの公演をしていたり、時間を潰して。


「帰ろうか」

「うん」


6月15日、この日も雨が降っていた。

一つの傘に、肩を並べて。

これが、僕たち二人の「普通」になっていった。

教室では僕と彼女は腫物扱いで誰も近づいてこないし、話してこない。

それでいいとさえ最近思い始めているのも事実。

なぜなら彼女と一緒にいるのが楽しいから。

クラスの中にいるより、何倍も何十倍も。

なんでかはわからない。


「赤色タイル発見!!」


彼女の声が僕の耳に響く。

その合図で赤色のタイルを踏むだけのゲームがスタート。

毎日の日課になりつつある。

飽きるなんてことはなかった。


街灯の下、二つの笑い声が響く。

傘を地面に捨てて、マンホールの上に立つ僕たち。

だけど、小さな円に二人は乗れなくて体格的に小さい椎名がバランスを崩した。

その腕を咄嗟にひいて、自分の方へ抱き寄せる。

自然と彼女を抱きしめる形になって、僕は一気に顔に血が上る。

思ったよりも小さくて、思ったよりも柔らかい体に彼女は女の子なんだってことが急に意識されてしまった。


「ご、ごめん!!」

「なんで謝るの?」

「え、っと……それは」


言葉を濁す僕。

確かになんで謝っているんだろう。

別に悪いことしていないのに。

だけど、なんか、謝らないといけない気がするのもどうしてだろう。

すると、隣でくすくすと笑う声が聞こえてどうしたのか聞いてみた。


「だってすっごい心臓がドキドキってしてて面白かった」


カァァッとまた顔に血が上った。

仕方がないだろう。

僕だって男だ。

思春期で、女の子を体ごと抱きしめたことなんて一度もないし、君が女の子だって意識しちゃったし、そう考えたら毎日一緒に帰っている僕たちはまるで……。

そんなことを考えていたけど、目の前でおかしそうに笑う彼女を見ていたらなんかばからしくなって、一緒に声を出して笑った。


「じゃあ、また明日ね」

「また明日」


こうして僕たちは別れる。

それが毎日の日課。


次の日もその次の日も雨が降った。

いつも通りの一つ傘の中、笑顔が二つこぼれおちて、いつも通りの赤色のタイルを踏んで、いつも通り二人一緒にびしょ濡れになって。


だけど今日は少しだけ違った。

いつもの街灯の下、段ボールが置いてあった。

段ボールの中には猫が2匹いた。

大きさからすると子猫だと思う。

ミーミーとか細い声で鳴いている猫に心臓がきゅっと縮こまる。

雨に濡れているその体はとても寒そうで。

だけどごめん、僕の家はペット禁止なんだ。


何もできずにただ突っ立っていると、隣で椎名さんがかばんの中から折り畳みの傘を取り出して、子猫たちに傘を差してあげた。


「これで濡れないね!」


にこりと笑って見える歯がとても眩しい。


「傘、持ってるんだ」

「持ってるよ。いつも常備してる」

「……じゃあなんで差さないの?」

「だって、差してくれる人がいるもん」


まっすぐに僕を見つめる彼女の瞳はとても真剣で僕は何も言えなくなる。

黙っている僕の腕を引いて歩き出す椎名さん。

傘の中、二人きり。

沈黙が続く、水たまりが跳ねる、雨の音が少しだけ耳障りだ。


「本当の理由は違うんだ」


沈黙を破って彼女は真っ直ぐ前だけを見つめる。

その横顔がどこか寂しそうで、ずっと前の、僕と話す前の彼女を見たような気がした。

彼女は足元の水たまりを蹴る。

ぱしゃんと音を立てて彼女の足を濡らす水たまり。


「空だってね、泣きたいんだよ。でもみんな傘を差して見て見ないフリ。かわいそう。だから私は傘を差さないで慰めてあげてるの」


大きく足を踏み出し、彼女は傘の外へ飛び出す。

くるり。

両手を大きく広げて、顔を空に向けて、彼女は回って。

彼女が足を踏み出すたび、地面にたまった水が跳ねて彼女の身体を濡らしていく。


ぱしゃん。


「じゃあなんで僕の傘の中にいるの」


ぱしゃん。


「見て見ないフリ、しなかったから」


言っている意味がわからなくて首をかしげた。

彼女お構いなしに回り続ける。

そして彼女は水たまりの上でジャンプをした。


ばしゃん。

ばしゃん。


何度も何度も。

どんなに足が濡れていても彼女はジャンプすることをやめようとしない。


「濡れてるよ」

「うん。知ってる」


ばしゃん。

水たまりの上、最後に彼女は大きくジャンプをした。


「ねえ"普通"ってなんだろうね。私の普通はみんなにとっては普通じゃないんだって。私は頭がおかしいんだって。宇宙人みたいだって。普通ってなんだろう。私は普通がわからないよ」


下を向く彼女の言葉に僕はどう返したらいいだろう。

数か月前まで僕はクラスの人と一緒に君を気持ち悪がっていた。


「僕も普通がわからない。よく僕も空気が読めないって言われるし…。でもきっと普通っていうのは一般常識みたいなことだと思うよ」

「…一般常識は“多数”が集まったものなの?」

「多数、というよりそれが当たり前…みたいな感じだと思うけど」

「そっか」


今にも泣きそうな顔で水たまりを眺める彼女に、なんて声をかければいいのか。

どんなに考えても答えは見つからなくて、僕は傘を彼女に差しだそうとしたその時。

彼女はぱっと顔を上げていつも僕に見せてくれる笑顔をくれた。


「また明日、バイバイ!!」


白い歯をみせて、くるりと一度回って、雨の中スキップして彼女の背中が遠のいていく。

ズキンと心臓が痛んで苦しかった。


泣きそうになった時、「どうしたの」って聞けばよかったのだろうか。

そうしたら君は何か答えてくれたのだろうか。

それとも壁を作ってまた笑顔を向けるのだろうか。

何をすれば正解なのかわからなくてモヤモヤした気持ちを抱いたまま、僕は家へと戻った。




次の日の昼休み。

どんよりとした曇り空を購買の窓から眺め、雨降らないかななんて考えながらパンを買っていた時だった。

僕は椎名さんの姿を見つけて、お昼一緒に食べようと思って駆け出して足を止める。


友達かな、と思ったが彼女が僕以外の人と話しているところなんて一度も見たことがない。

彼女の顔が今の空のようにどんよりと曇っていてこれは違うと確信できた。

今から彼女が何をされるのか想像したくないけれど、なんとなくわかってしまう。


助けなきゃ。


僕を動かすものはそれだけ。

結果から言えば、それはできなかった。

足が、身体が動かない。

今は使われていない教室で、一人傷つく椎名さん。

心臓が痛くて痛くて仕方がなかった。


「学校もう来んじゃねえよ。お前と同じ空気吸ってるとか思いたくないわ」

「てかさいつもヘラヘラしてて気持ち悪いんだよ」

「消えろブス」

「もしくは死ね」


やめろ。

そんな心ない言葉で彼女を傷つけるな。

そんなひどい言葉で彼女を責めるな。

やめろ、やめてくれ。


僕はその場から逃げるように離れて気が付いたら屋上にいた。

彼女の苦しそうな声が、息が、僕の身体に刺さる。

助けてくれと言っているのがわかる。

なのに、僕の身体は化石のように固まって動かない。


「……!」


息を吐けば、同時に大量の涙が頬を濡らした。

そうか、僕は君を見捨てたんだ。

見て見ないフリをしてしまったんだ。


いじめはよくないと持論を持っていて、自分はこんな人間にはならないという根拠のない自信があったというのに。

自信があったはずだった。

だけどそれは僕の中の理想像でしかなく実際の僕はそういう人間だった。


偽善だ。

口先だけの偽善に過ぎない。

僕はただの臆病者だ。


なにもできない自分に腹が立つ。

椎名さんの無垢な笑顔が辛い。

こんなにも心は痛くなるものなのかと思った。


午後はひどいものだった。

椎名さんが話しかけてくるたびに、笑いかけてくるたびに胸が締め付けられる。

彼女の目を顔を見ることができない。

見てしまったら先ほどの光景を嫌と言うほど思い出してしまう気がするから。


「どうしたの、具合悪い?」


僕の顔を覗き込んで心配そうに声をかけてくる椎名さん。

その優しさが今はとても嫌だと思う僕はとても汚い。


「大丈夫だよ」


顔を見ることなく目を逸らした。

そう、と少し悲しそうな声が耳の奥にこびりつく。


ごめん、ごめん。


心の中で何度も謝罪をした。

口に出せばいいのにそうしないのは怖いから。

怖いから何も知らないフリをする。


最低な人間だ、僕という奴は。


これ以上僕と一緒にいたら、彼女はまた殴られたりののしられたりして傷つくのだろう。

なら遠ざけた方がいいのかもしれない。

彼女を傷つけるくらいなら。


委員会が終わり、僕はいつもの癖で教室に向かう。

教室には一人だけぽつんと窓の外を眺めている生徒がいた。

しとしとと降る雨をじっと見つめているその顔は何を思っているのだろうか。


気配に気が付いたのだろう。

くるりと振り向く椎名さん。

僕だと認識すると白い歯を見せて笑った。


「あ、やっと来た!帰ろう!!」


ズキン…。


言え、言うんだ。

"もう君とは帰らない"って。

そうしないと君はまたああいう目に遭うんだ。


「……うん」


断るなんてできない。

今ここで拒絶の言葉を吐いてしまったらいけない気がした。

手を離してしまったら取り返しのつかないような、そんな感じがしたんだ。


傘を広げて二人歩く。

彼女は嬉しそうに笑っていて。

だけどいつものように会話が続かない。


ねえ椎名さん。

君は今どんな気持ち?

君の胸の内はどんなふうになっているの。

苦しいんじゃないの。

辛いんじゃないの。

泣きたいんじゃないの。

どうして無理して笑うの。


傘の中に静かな時間が流れて、沈黙がいつもより耳元で騒いでいて。


「やっぱり今日おかしいよ。どうしたの?相談、していいんだよ?」


息を呑んだ。

どうして君がそんなことを言うの。

それは僕が言わなくちゃいけない言葉なのに。


もし、もし僕が今ここで"君が今日いじめられているところ見たよ"って言ったら君はどうする?

僕に助けを求めてくるのだろうか。

泣いて縋ってくるだろうか。


言葉にしたいのに、喉の奥に引っかかって出てこない。


「大丈夫。ちょっと体調が悪いだけだよ」

「…なんかあったら言ってね」


彼女は今どんな顔をしているのだろう。

怖くて彼女の顔を見れない。


本当に言いたい言葉はどうしていつも声にならないのか。

触れないのが思いやりとか言うけど、そういう場合もあると思うけど。

なんて卑怯な言い訳だろう。

怖いだけなんだ。

彼女の傷みを知るのが、感じるのが。


くるりと傘を一度だけ回した。


弱音吐いてもてもいいんだよ。

我儘言ったっていいんだよ。

めげたっていいんだよ。

泣くことは弱いことじゃない。

大丈夫、今は雨が降っているから涙か雨かなんて誰にもわからない。


そう言えたらどれだけよかっただろう。


「ばいばい、またね」


ぱしゃん、と水たまりの上を跳ねる椎名さん。

両手を広げてくるりと回る。

白い歯が眩しい。

眩しすぎて僕は目を細めた。


腕がちぎれるんじゃないかっていうくらい大きく振って、白い歯を満面に見せて「バイバイ」と手を振る彼女。

僕はそれを見ていることしかできない。


「ばいばい。また、明日」


小さく手を振って。

何度も振り返って。


そして彼女は僕の前から姿を消した。











次の日、学校へ行ったら彼女は登校してこなかった。

時間になっても登校してこない彼女に僕の胸の内は騒がしくなる。

周りの生徒はくすくすと笑っていて。

なにがそんなにおもしろいのか。

顔が熱くなるのがわかる。

怒りを爆発しようとした瞬間、教室の扉が開き担任が入ってきた。

真剣な顔にクラスは静まり返る。


担任は静かに椎名さんが東京に転校したことを報告した。


そんな話、僕は聞いていない。

でも、そうか。

そう、だよな。

こんな辛い場所に無理している必要はない。


転校はやはりいじめが原因だった。

僕があれを見る前から彼女はいじめにあっていたようで、それを知った彼女の両親が決めたことだった。


いじめにあっていたことを感じさせないほど椎名さんは毎日笑っていた。

もしあの時僕が何らかの形で助けていたら何か変わっていたのだろうか。

何も変わらなかったのだろうか。

助けてやればよかったと思う。

少なくともこんな形でお別れなんてしなかったと思う。

たった一言でも「転校する」って言ってくれたかもしれない。

何も言わず消えてしまったことがただただ悲しい。


恐ろしいほどの虚無感が僕を支配した。






いつも通りの帰り道。

傘を開いて、隣を見るがそこに彼女はいない。


彼女と歩いた帰り道を、一人で歩く。


赤色タイルを見つけて、赤色のタイルだけを踏んで。

だけど、全然楽しくなくてすぐにやめた。


マンホールの上でくるりくるくると踊る彼女の姿はどこにもなくて。


僕は傘を投げ捨てて、その場で声を出して泣いた。

雨に打たれているから、涙か雨かなんてわからない。

だから僕はたくさん泣いた。

大粒の涙が頬を伝うのがわかる。


ここに、この場所に、俺の隣に、君がいないってだけで、

どうしてこんなにも景色が滲んで見えるのだろう。


僕は、ずっと泣き続けた。

子供のように、ずっとずっと。















あれから月日が経って、僕は高校2年になった。

何をしたいわけでもなく、家から一番近い高校を選んだ。

部活はしていない。

それでも僕の毎日はそれなりに充実していた。


だけど、雨が降る日はいつも思い出してしまう、あの日のこと。

彼女を助けてあげられなかった僕の苦い思い出。


6月上旬。

梅雨の時期がやってくる。

嫌でもあの日のことが頭の中で映像として蘇る。


言えないことがたくさんあった。

あの時の虚無感を今でも覚えている。

忘れられるはずなんてない。

僕の隣に君がいたこと。

僕の隣から君がいなくなったこと。


寂しいと思った。

苦しいと思った。

君に謝りたい。

君に会いたい。


こんな当たり前を思うだけで、胸が苦しくなって景色が歪む。


「今日は転校生を紹介するぞ」


朝のHRの時間、担任がその言葉に、ざわざわと騒がしくなる教室。

だけど僕はそれを聞き流し、ざあざあと降る雨を眺めていた。


彼女は今、何処で、何をして、どんな風に過ごしているのだろう。


悲しいことは思い出に変わっていく。

君もきっとそうなのだろうか。

当たり前のことで、その当たり前がとても悲しい。


「東京から転校してきた椎名ゆいです」


僕は自分の耳を疑った。

ゆっくりと窓から教卓の方へと目を移す。


そこには、見覚えのある女の子がいた。

僕が傷つけてしまった女の子。


「椎名さん……」


椅子から立ち上がって僕は思わず彼女の名を呼んだ。

クラスの連中が僕を見る。

だけど、そんなの気にならないほど僕の心はいろんな感情で満たされていて、言いたいことがたくさんあるのに、声が喉の奥にひっかかってでてこない。


椎名さんは僕の顔を見て、あの日と変わらない真っ白な歯を見せて満面の笑みをみせた


「久しぶりだね、高橋くん」


一人ぼっちの相合い傘に、二つの笑顔が戻ってきた。








(了)











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