8.

「……なんで」


 私は空中で声を発した。

 それは、屋上から飛び立ち、落下しながらというのではなく空中に静止して。

 私の手を握って引き上げようとする赤江さんを見上げる形で。


「なんで、死なせてくれないんですか」


 私はこんな人生にこんな自分に嫌気が差して全てから逃げ出したくなってしまったのだ。

 それを、なぜ認めてくれないのか。


「本当はもう犬神なんてなんの力も持ってないんです。この世界では。お祖父様が私を手放したくないのは綾瀬……、この国を裏から支配する家とつながりを持っておきたいためです。難しい話はよくわからないけど、私はただそのために生かされている道具に過ぎないんです」


 私は赤江さんを見つめて言った。


「だから。道具なら替えがきくから。貴方はこの手を離してもいいはずです。どうせ私が家に帰るつもりがないならいっそ殺してもいいぐらいのことは言われたのではありませんか?私が死ねば犬神はあの家に還るだろうから、その後で代わりの依代を見つければいいだけなんだから……」


 そう。

 私は生きていれば人を傷つけるくせに、それだけの命なのだ。

 ならばいっそ。


「私を逃がしてくれてもいいんじゃないですか」


「……巫山戯ふざけんのもたいがいにしろよ」


 その時上から静かな声が降ってきた。

 赤江さんは今度こそ本気で私をにらみ付けると言った。


「逃げて逃げてそのまま残りの人生からも逃げるつもりかよ?……逃がさねえし、死なせねえよ」


 それから、まるで私を元気づけるように自分に嘘はけねえよな、と言って赤江さんはへらりと笑った。


「だってお前は泣いてるじゃねえか」


 彼は。

 何を言っているんだろう。


「……泣いてなんかいません」


 実際、私は全く泣いていなかった。


「あー、悪いな。お前がそう言うなら俺がそう見えただけだ。だけどな、一つ聞いとけ狼少女。そんな年で悟ったようなこと言ってんじゃねえよ」


 赤江さんは謝罪の言葉を口にしながら、謝る気なんて全くないという傲岸不遜ごうがんふそんな口調でそう言い、私を握る手に力を込めた。


「お前は賢いんだろうがお前が見ているものだけが、お前の苦しみだけが世界の全てなんて思っているんじゃねえ。だから、世の中を諦めてんじゃねえ。早々に見限っているんじゃねえよ」


 そう言う赤江さんに私は言い返した。


「諦めることの何がいけないっていうの。こんなことじゃこのまま生きていたって私は一生、他の誰かを不幸にするだけだっていうのに」


「何がいけないだあ?本気でそう言ってんのか。そんなの本当に欲しいものまで手に入らなくなっちまうぞ」


 私が。

 本当に欲しかったもの。


「ほら。言ってみろよ。お前が、本当に欲しかったもの。ここでなら俺以外誰も聞いていないから本音を言っていいぜ」


 そう言って私を見下ろして、促した。


「ほら、言えよ。お前が求めるものを」


 赤江さんの嫌みではない命令口調は人間の願いを叶える悪魔のようで。

 月を背にして後光を背負いながら語りかける様子は、あるいは天使か。

 天使と悪魔。

 それは人間には理不尽だという点で、どちらも同じことなのだろうけど。

 その魔力に当てられてか、話すつもりはなかったのに私の唇は自然に動いていた。

 いや、違う。

 私は、本当は誰かに聞いてもらいたかったのだ。

 嘘の裏側にある。

 私の、本当を。


「わたし、私は」


「お母さんに、謝りたかった」


 私を産むのは危険だと分かっていたのに産んでくれたお母さん。

 私を産んでからは体調を崩してばかりでそれが原因で亡くなったけど、それでも後悔はないと言ってくれていた。


「ああ。それから?」


「それから。……それから」


 私は、望みを口にする。


「普通の女の子で、中学校に通いたい」

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