2-4 こぼれるものが

 高沢さんはこともあろうかロックグラスを一気に傾けた。テーブルに戻ってきたグラスを観察すれば、茶色い液が半分ほどになっていた。ウイスキーだったか、あるいはブランディーの一種か。どちらにしてもそんな飲み方をする酒じゃなかった。


 一気に酒をあおった高沢さんはしかし全く酔った素振りを見せることはなかった。ピストルを持たせればシューティングレンジで見せてくれたものと変わらないパフォーマンスを示してくれそうだった。


 とはいえ、手にしているのはロックグラス。彼女はグラスを揺らして氷を鳴らすのである。


「お酒がないと楽しめない話というのがありましてですね、聞きますか?」


「高沢さんのお酒ネタか何かですか」


「いえ、そんな大した話ではないんです。ただ、藤さんの話を聞いていたら話したくなったことがありまして」


「どんな話ですか」


「私、こう見えてエアライフルの免許を持っているんですよ。競技用の」


 こう見えても何も、高沢さんの言葉は極めて自然なことに思えてならない。あれだけ高い得点を上げられるのだから、実銃での経験があっても、競技射撃の経験があってもおかしなことではない。


「それならシューティングレンジの得点も納得ですよ。本物の射撃をやっているんだから上手に決まっているじゃないですか」


「でも、競技射撃はもうやめちゃってるんですよね。そろそろいい加減免許を返納するかどうしようか考えているぐらい」


「どうしてですか、もったいないじゃないですか」


「そこなんですよね、私が話したい話、というのは」


 ロックグラスが高沢さんの口に吸い寄せられてゆく。傾けばたちまちグラスの中が氷だけになってしまった。どれだけ強い酒を飲んでいるのか。たまらず、大丈夫ですかそんなに飲んで、と口にしてみれば、四十度ぐらいだから大丈夫、とさらっと言い放つのだ。


「私がやりたいのはピストル競技なんですよ。エアピストル、二十二口径の装薬ピストル。知ってますか?」


「射撃競技そのものはよく分かっていないんです、すみません」


「日本だとピストル競技って、はじめること自体がすさまじく難しいんです。ピストルをやるためにはまずライフル射撃で成績を収めないといけなくて、それでいて日本体育協会の推薦状が必要で、それでもはじめられるかどうか分からないんですよ」


「どうしてですか。競技って、まあ銃は免許がいると思いますが、免許さえあればはじめられるものじゃないんですか」


「エアピストルは五百人、装薬ピストルは五十人。これが何を意味しているか分かります?」


「上限か何かに思えますが」


「そうなんです。私は気軽にピストル射撃をやりたいのに、そもそもアスリート人生を歩まなければできない仕組みなんです。ライフル射撃で実績を上げて、それこそ『オリンピックや世界大会を目指せる実力だから持たせてあげて』ぐらいじゃないと持てないんです」


「日本人上位五百人の中にいないといけない、ってことですか、言ってしまえば」


「一概にそうとは言えないですが、まあ、実力がないとだめなのは確かです。それもオリンピックとか国体級」


 通りかかった店員を手を上げて呼び止めるなりハイボールを呼んだ。しかも二杯分と。まだ飲むおつもりだ。高沢さんが射撃競技のことを話しはじめてからやたら酒を浴びるようになっていた。


 酒を頼りにしているのだろうか。アルコールに身を任せなければならないほど、高沢さんは無理に話をしている風にもとれた。僕に話したいと言いつつもアルコールを盾としなければならないほど。そこまでして話したいこととは。僕にはむりをしているようにしか見えないのである。


「もうお酒は抑えめにしたほうがよいのではないですか」


「いえいえ、私はいつもこんな調子ですよ」


 届けられた二杯のグラスを自らの前に置いて、右手側のグラスに口をつけた。


「で、日本だとピストル競技が手軽にはじめられない、って話をしたわけですが、私はピストルがやりたかったんですね。だからしょうがなくエアライフルからはじめたのですが、そこからが大変でして」


「まずはライフル射撃、と言ってましたね」


「ピストルはやりたいけれどライフルはあまりやる気にならなかったんですよね。なにせ重量がありますから、私はうまく扱えなかったんです」


「エアガンでもライフルは重いですからね、なんとなく想像できます」


「ライフルで成績を収めないとピストルは許可さえでないので、はじめのうちは腕立て伏せとかランニングとか、とにかく体を強くしてライフルに耐えられるようにしようとしていたのです。それで射撃場に通っては練習して、大小構わず大会に出場して、ピストルの合格ラインを目指す日々」


 言葉の合間にのむハイボールはすでにジョッキの半分を切っていた。いつもこんな調子、とは言ってはいたがものには限度がある。僕の目にはどう見ても酒の力に頼りながら話をしているようにしか思えなかった。確信に近い。何か辛い気持ちがそこにあるのだろうが、しかし、聞いている範囲ではまだ高沢さんが抱えているであろう苦しみを見出すことができなかった。


「私、ライフル射撃うまくないのですよ。筋肉をつけても、結局銃の重さに我慢できなくて。どれだけ頑張っても思ったとおりに点が上げられないわけですよ。ピストル競技を目指している人がどんどん基準を超えていく中で、どうしてピストルがやりたいのにライフルをやらなければいけないのだろう、って」


「でもピストルをやりたい気持ちはあったんですよね。どうしたんですか」


「点をとるのが嫌いになりました。点をとるために撃つことにうんざりしてしまったんですね」


「でも得点しないとピストルの許可が下りないんですよね」


「だから辞めちゃいました。大会に出るものやめて、ライフルはガンロッカーの肥やしです。ピストルというか、銃そのものが見たくない、って感じになったんです」


 点をとることが嫌になった。だから射撃競技をやめてしまった。


 シューティングレンジで見せていた射撃から想像できない。僕がたどり着けない世界でBB弾を撃っている彼女だ、なのに競技が嫌いだなんて言葉が出てくるとは思っていなかった。高沢さんも点をとることが嫌だった。僕よりも点が取れている高沢さんであっても、である。


 高沢さんはピストル射撃のために点を取ろうとして、取れなくて。僕はより高い得点を目指したくて、高沢さんに追いつけ追い越せしたいのに、追い越せなくて。


 同じようなことを悩んでいるではないか。


「でも今はAPSをしているじゃないですか。それは」


「射撃は嫌いになりましたが、気持ちがむしゃくしゃしたときにはシューティングレンジに行っていたんです。はじめはエアライフルを撃ってましたが、やっぱりうまくできないことがむしろいらいらを助長するだけでして。ならば、と思って使いはじめたのがエアガンです。その中で、ピストル競技の銃をまねたピストルがエアガンとして存在していることを知ったのです」


 ということは。高沢さんの姿をシューティングレンジで見たときというのは、何かしら心のわだかまるものがあって、それを振り払おうとしていた、ということ。でもきっかけを作ったのは紛れもなくいらいらを解消しようと持つ銃である。


「今でも嫌いですか、射撃は」


「正直なところ、好きとは言えない状態です。でも、藤さんと出会ってからというものの、どうしてでしょう、あのシューティングレンジに行くのが楽しく感じるようになっているのです」


「僕と出会ってからですか? 僕は特に、高沢さんに何もしていないと思いますが」


「どうしてでしょうね? きっとAPSのピストルを使っている人を見て、シンパシーを感じたのかもですね」


 二杯分あったハイボールを飲み干していた。


「いいや、射撃はやっぱり好きじゃなくなってますよ。一人でやるって考えたら毎週のようにシューティングレンジに行くなんて無理です。藤さんがいないと」


 僕はしかし、高沢さんが射撃をやめたときのような心境に陥っている。高沢さんは楽しいかもしれない、でも、僕はそうではない。高沢さんの高得点を見せつけられて、苦しい気持ちが積み重なってゆく。一緒に誘ってくれることや、こうやって酒を一緒にすること自体は楽しい気持ちになっている。


 高沢さんとシューティングレンジでの時間は、相反する気持ちがない混ぜになってしまう。


「嬉しそうな顔はしてくれないのですね」


「え、いや、そんなつもりはないのですが」


 言葉で取り繕ったところで見透かされてしまっている。


「私よりも点が取れないことを気にしているんですもののね。私とやっていても苦しい気持ちになるばかりですよね」


「その、点が取れないのは確かに悩みですが」


「どうしたらいいんでしょうね」


 高沢さんは今度は冷酒を傾けていた。すぐに返事をしていた高沢さんが急に静かになって、酒を見るばかりになっていた。枡の中のグラスを取り出して唇を濡らすような感じで口に含んだ。

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