1 APSとエアガン
1-1 5メートル先の5センチ、と隣
精密射撃競技は専用の免許がないとできない競技なわけだが、こと僕が取り組んでいる精密射撃はエアガンを使うのだから免許も何もいらない。基準を満たした銃があればそれでよい世界。
APS、エア・プレシジョン・シューティング。これが僕の趣味だった。
僕の週末は大概シューティングレンジで過ごす。ピストルをバッグに入れて秋葉原のシューティングレンジを目指すのだ。駅から数分歩いて到着するなり、僕は五メートルレンジに入る。そうしてから標的、直径五センチメートルの円が描かれたものを据え付ける。高さは大体胸の高さ。円の中心にはバツ印が印刷されていて、これを中心に十点、八点、五点と続く。
標的を準備できればいよいよ射撃をする時間だ。銃とBB弾の準備を済ませれば僕とターゲットだけの世界ができあがり。構えて、狙って、撃つ。動と静をひたすら繰り返す、自分一人だけの空間を気に入っていた。
そのときは確か、一時間ほどをかけて六十発ほどを撃っていた。腕と精神の疲れからか、うまく的に弾を当てることができなくなりつつある頃合いだった。息を吐き出して標的を狙うも、めまいを起こしたかのような視界の揺れとぼやけ具合がひどくて。
バツ印を狙ったにもかかわらず、その印は照準の先から逃げてしまう。
いよいよまともにターゲットを捉えることができなくなって、目の前でライン代わりとなっている小さなテーブルにピストルを置いた。手を離した瞬間にせり上がってくる全身のだるさに天井を仰いだ。
だるさが水のように注がれて頭に疲労がたまっていった。ああ、どんどん考えられなくなってゆく。思考がぼやけてゆく。頭が機能を止めてゆく。視界が白くなってゆく。上を向いたまま倒れてしまいそうだった。
頭を満たすそれはすんでのところで引いていって、見える世界に色が戻ってきた。白地に黒い色が墨流しのように点々としている天井、それから保護用に取り付けられた布の向こう側に非常口のサインが見えた。
視線を天井から戻して次に移ったのが隣のレーンだった。隣とは透けるほど薄くい布で区分けがされていて、五メートルレーンがいくつか並んで、その奥には十メートルレンジ、十五メートルレンジが並んでいる。奥のレンジでは誰かがオートライフルを撃っているらしい、時折激しい射撃音が連なって聞こえた。
隣りに並ぶいくつものレーンを眺めていれば、銃身が視界をさえぎりせり上がってきた。見覚えのある形だった。二つのパーツからなる姿。下には太いパイプのような、圧縮空気か液化ガスを蓄える部分。上部の部分は必要ない部分を極限まで削ったバレルと銃口側の照準器だけ。青色アルマイト加工と金属削り出しが織りなす機能的な美しさ。
僕はその美しさを知っていた。テーブルに置いた銃を見下ろせば、そこには青色ではなく赤色アルマイト加工が施された銃が横たわっている。僕の銃。
APS射撃のために作られたピストル。同じメーカーで作られたものだった。青色ということは、エアガン用液体ガスを充填して、ガスの圧を利用して発射するタイプだった。
ピストルをまっすぐターゲットに向けて狙いすます顔。腕と一体化するピストル。少しばかりの間があって発射音。いつ引き金を引いたのか分からなかった。
発射音をはるかに上回る着弾の音が響いた。
まるで僕が撃ち抜かれたかのような気分になった。疲れていた僕はどこに行ってしまったのだろうか。疲れていたのがまるでなくなってしまった。
銃口を下ろして、BB弾装填の操作をすると再び構えを戻した。まずはスタンバイの姿勢、肘を伸ばして、銃口を下に向ける。体を横に構えて、左手を腰に当てた。
一度顔を下にしてややあってから、ターゲットを補足した。すぐさまピストルを持ち上げる。目、腕、ピストル。全てを一直線に揃えるべく動き、たちまち静かになる。とどめをさす前の一瞬の静寂。
撃った。
当たった。
一糸乱れぬその振る舞いは、精密射撃の美しさに包まれているように感じられた。
ターゲットのどこに当たったのだろう。目を凝らしてみるが正確な場所は見えなかった。五メートル先の円のどこかにある六ミリメートルの痕跡を捉えようとしているのだから当然だった。自分が撃った結果だって見えないものだ。
こんなときに役立つ単眼鏡。バッグの中を漁って小さな革ケースを取り上げる。筒をのぞき込めば目の前にターゲットが出現するが、その痕跡につばを飲みこんだ。
着弾して破けた小さい痕跡、これがバツ印のごく近くに残されていた。十点は十点でも、十点よりも上の得点。一〇−X点。射撃における最高得点だった。
射手の射撃は続いた。変わらないフォームを繰り返す様子はロボットだった。スタンバイの構え、射撃の構え、それぞれの構えの間の静けさは、回を重ねても同じだった。滑らかに動いたかと思えばぴたりと止まるのだ。
メリハリのある動きの終わりにはターゲットを的確に捉える。単眼鏡でターゲットを取り寄せれば高得点帯に当たっているのを目の当たりにしてゾクゾクした。
「きれい」
青いピストルの動きがふいに乱れた。構えが揺らいで腕から銃口のラインはぐちゃぐちゃになってしまった。ターゲットを打ち抜かんとする視線が僕の方へと流れてくるのだ。
このときになって僕がしてしまったことを知った。声で彼女の気を引いてしまった。見とれている僕を見ようとしているのだ。心臓が暴れるのを感じて自分のターゲットに体を向けた。隣のレーンの振る舞いをただ見ているなんて気持ち悪がられてしまう。相手は知らない人なのだから。
これ以上隣を見ることはできなかった。視線が撃ち込まれているような気さえあった。単眼鏡を目から離すことすらできず、ただただ限られた視界の中にあるターゲットを見ることしかできなかった。
新しく張り替えたターゲットに刻まれた痕跡は二つ。両方とも八点だった。
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