第28話 鳩場さん

「し、失礼します」


 恐る恐る空いた席に座ると、男の人はカッと目を見開いた。


「僕の名前は鳩場はとば。君、本を読むのが趣味なんだって?」


「は、はい」


 やけに強い口調と眼力に気圧されながらも、私は何とか返事をした。


「僕の趣味はね、歴史小説を読むことなんだ。城めぐりをしたりね」


「そうなんですか。いいですよね、お城とかお寺とか、古い建物って」


 とりあえず適当に話を合わせると、鳩場さんはふん、と鼻を鳴らした。


「だろ? 低脳な奴らには馬鹿にされるけどね」


「そうなんですか?」


 低脳って……。

 私が若干引き気味になっていると、鳩場さんは、ずいと距離を縮めてきた。


「ちなみに君、好きな作家は?」


「小野きよ子先生です。歴史物だったら、田辺恵理子先生の平安絵巻シリーズとか」


 正直に好きな作家を答えたのだけれど、鳩場さんはみるみる不機嫌な顔になった。


「ああ、ダメダメ。平安時代とか、女はこれだからダメなんだよなぁ。歴史と言ったら戦国だよ、戦国!」


「はぁ」


 呆気にとられる私に、鳩場さんは聞いてもいないのに好きな戦国武将について長々と話しだした。


 注文してた苺サワーをごくごくと飲み干し、小さく息を吐く。なんだか凄く疲れる。


 どうしよう。何となくだけど……私、この人と上手く会話をできる気がしない。できれば早く席替えをしてほしいんだけどなぁ。


 そう願っていたのだけど、席替えはその後起こらず、結局その後も、私は鳩場さんの相手をし続けることになった。


 参ったなぁ。鳩場さんは自分の好きな歴史の話を早口で話し続けるけど、私には全然興味のない話題ばかり。

 あまりにも向こうの話が続くので、私の好きな小説の話をして軌道修正しようとしても、すぐに自分の好きな話に持って行ってしまうし。


 最終的に、私は「早く帰りたいなぁ」と思いながらうんうん頷くだけの人と化した。


「果歩さん」


「はいっ?」


 適当に相槌を打っていると、突然強い口調で名前を呼ばれてビクリとする。


「びっくりしたよ。初めはタイプじゃないと思ったけど、君と僕は趣味が合うと思う」


「はぁ」


 私は全くそんな気がしないのだけれど、鳩場さんは一体私のどこを見てそう思ったのだろうか。


「ところで果歩ちゃんは、今まで男と付き合ったことあるの?」


「えっ……いえ……その、出会いがなくて」


 えっ、そんな事、今聞く?

 しどろもどろになりながらも正直に答えると、鳩場さんはフンと鼻息を荒くした。


「そうなんだ。僕もそうなんだよ。一応これでも一流企業に勤めているんだよ、僕は。でも低脳で軽薄な女ばかりで全然ダメ」


「そ、そうなんですか」


 鳩場さんは不服そうにビールをぐいと飲み干した。

 私には、鳩場さんがモテないのはもっと別なところに原因があるように思えるんだけど。


 愛想笑いを浮かべたまま戸惑っていると、鳩場さんはずい、と身を寄せてきた。


「僕はね、結婚するなら処女じゃなきゃ嫌なんだ。汚らしい中古女となんか結婚するもんか」


「え、えっと」


「その点君は合格だ。僕の趣味も分かってくれそうだし、生意気そうでもないし。僕と結婚しようよ」


 呆気にとられていると、鳩場さんはいきなり私の手を握ってきた。


 ざわり。


 手から何かどす黒いものが這い上がってくるような感覚がして、体が芯から冷えた。


「ひぇっ」


 反射的にその手を振り払って立ち上がる。全身に鳥肌が立つ。テーブルがガタリと大きな音を立てた。


 嫌だ。何なのこの人。気持ち悪い。気持ち悪い――。

 

 握られた手がガタガタと震える。


 辺りが静まり返り、全員の視線がこちらに向けられた。


 麻衣ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。


「どうしたのよ果歩、顔が真っ青――」


「あ、あ、あの」


 唇が震える。私はゴクリと唾を飲み込んで、やっとの事で声を絞り出した。


「その、私、用事があるので帰ります」


 大急ぎで鞄を引っつかむと、私は振り返りもせず一目散に店を抜け出した。


「果歩さん? 果歩さん!」


 後ろから鳩場さんの声が追いかけてくる。


 ひええ! 何で追いかけてくるの!?


 怖い。怖い、怖い!


 振り向くこともできず、泣きそうになりながらひたすら走っていると、店を出たところで不意に腕を掴まれた。


「果歩さん?」


「ひょえぇええ!」


 パニックになって声を上げると、がっしりと肩を掴まれる。


「果歩さん落ち着いて。僕だよ」


 私がパニック状態になりながら腕を振り払うと、目の前の男の人が私の顔を心配そうに覗きこんだ。


「果歩さん、何があったの。大丈夫?」


 その声を聞き、ようやく目の前の人物に焦点があった。


「……悠一……さん?」


 黒い少しクシャクシャの髪。優しそうな瞳、すっと通った鼻。その背後に、ぽっかりと夜空に浮かんだ月が見えた。


 大きく深呼吸をする。


 悠一さんだ。


 目の前にいるのは悠一さんだ。夢じゃないよね? 


「悠一さん、どうして――」


「果歩さんっ!」


 不格好なフォームで走ってきたのは今度こそ鳩場さんだった。

 でもなぜか、私の意識はさっきよりずっと落ち着いていた。


「は、鳩場さん……」


 私が悠一さんの後ろに隠れると、悠一さんがまっすぐに鳩場さんを見つめた。


「……あなたは?」


「え……あ……う……」


 悠一さんに見つめられた鳩場さんは急にしどろもどろになる。

 そしてギリと唇を噛み締めるとこう言い放った。


「な、何だよ、男連れかよ。彼氏持ちが合コンなんか来るなよな!」


 吐き捨てるように言って、鳩場さんが去っていく。


 私はようやく重い息を吐き出した。


「大丈夫? 果歩さん」


「はい。悠一さんはどうしてここに?」


「僕は、偶然この辺で買いたいものがあったから。果歩さんは合コン終わったの?」


「あ、はい。私はちょっと気分が悪いので先に抜けようと――」


 まさか悠一さん、私のことを心配して迎えに来てくれた?


 ……いや、そんなまさかね。


 でも悠一さんと話している内に、私は何だか気持ちが落ち着いてきた。


 だけれど冷静になると、さっきまでの事が急に鮮明に思い出されて、手足がガクガクと震える。血の気が引いて、目にじんわりと涙が浮かんだ。


 怖かった……。


 せっかくお洋服選びにも付き合ってもらったし、みんなに応援してもらったのに、まさかこんな事になるなんて。


「さ、帰ろうか」


「はい」


 腕にまとわりつく湿気はジメジメと蒸し暑かったけど、夜風はほんのりと涼しい。見上げると、夏の星がチカチカと輝いている。


 私と悠一さんは、二人並んで家へと帰ったのだった。

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