11.

 その夜、また祖父が暴れた。

 一階から聞こえる「クァッ! クァッ! クァッ!」という祖父の叫び声だか気合の声だかで目覚めた。

 目覚まし時計を見ると深夜十二時半を回ったところだった。

 廊下へ出た。

 いつも通り突き当たりの両親の寝室は閉まったままで、父も母も出てくる気配は無かった。

 弟も、まだ目覚めていないようだ。

 僕は階段を下りて台所へ行き、冷蔵庫からエナジードリンクを三本出して手に持ち、祖父の部屋へ行った。

 蛍光ピンクとパステル・グリーンのツートン色に塗られたスポンジ製のオモチャを振り回している祖父の前に三本のエナジードリンクを並べた。

「どうぞ、お召し上がりください」

 言いながら、僕は畳の上に正座して頭を下げた。

「パキンッ、プシュッ」というプルタブを開ける音。

「ゴク、ゴク、ゴク」と祖父がドリンクを飲み干す喉の音。

「パキンッ、プシュッ」「ゴク、ゴク、ゴク」二本目。

「パキンッ、プシュッ」「ゴク、ゴク、ゴク」三本目。

 これで祖父は静かになって部屋の真ん中に敷かれた布団に入って眠るはずだ。それを確認したら、僕も二階の自分の部屋へ行って寝る。いつものルーチンだ……頭を畳すれすれまで下げながら、そう思った。

 でもその日は違った。

 ガラッ、と窓を開ける音がした。

 僕は、お辞儀じぎの姿勢をめて、畳すれすれまで下げていた顔を音のする方へ向けた。

 祖父が一階和室の窓を開けて裸足はだしのまま裏庭へ出ようとしていた。

 僕はあわてて立ち上がり、彼の背中に向かって「おいっ、じいさんっ」と呼びかけた。

 僕の声を無視して裏庭に降りた祖父の襟首をつかもうと窓際に駆け寄って手を伸ばした僕の指先はギリギリ届かず、祖父は小走りに裏庭から隣家との間の狭い通路へ向かった。

 そのまま僕も裏庭へ降りて追いかけていれば、彼を捕まえることが出来たのかもしれない。

 でもその時の僕は、裸足で土の上に降りる事に躊躇ちゅうちょし、急いで窓を閉めると祖父の部屋を出て玄関に向かった。

 四坪ほどの小さな裏庭は四方を家々の壁に囲まれていて、人がやっと通れる幅の通路で表の通りとつながっていた。その通路を抜けるしか庭の外へ出る方法は無かった。

 つまり、廊下を走って玄関から表に出れば、裏庭から通路を通って同じく表に出たであろう祖父に追いつく可能性が高かった。

 三和土たたきに降りてサンダルを履き、玄関のドアを開けた。

 家の正面の路地に飛び出し、左右を見る。

 右へ二十メートル行った先のかどを左に曲がろうとしている浴衣ゆかた姿の祖父が見えた。

「はぁ? じいさん、何であんな速く……」

 何であんなに早く走れるんだ?

 所詮しょせんはボケ老人、便所と風呂とエナジードリンクを飲むとき以外は一日中自室にこもって寝てばかりいる祖父が相手ならサンダル履きでもすぐに追いつくだろうと、たかをくくっていた。

 一瞬(玄関に戻ってスニーカーに履き替えるか?)と自問した。

 履き替えた場合の時間的ロスと走る速度の上昇分を天秤にかけ、結局サンダルのまま祖父の後を追うことにした。

 祖父が消えたかどまで走った。

 祖父は、さらに十メートル先の十字路を今度は右に曲がろうとしていた。

 少し距離が縮まった。

「おーい! 止まれよ! 待てよ!」

 叫びながら、僕は祖父を追った。

 大通りに出た。すぐ目の前の停留所にバスが停まっていた。

 祖父がそのバスに乗り込むのが見えた。

「待てよ! どこ行く気だよ!」

 僕の声が聞こえているのか聞こえていないのか、祖父は気にする風もなく、バスの中に入ってしまった。

 とにかく無我夢中で停留所まで走り、僕も祖父の後を追ってバスに飛び乗った。

 直後、プシュッという音と共にドアが閉また。

「発車しまぁす」という鼻にかかった声が車内放送のスピーカーから聞こえた。

 ゆっくりとバスが動き出し、徐々に加速していく。

 どこを目指しているのかも分からないバスの車内を見回した。

 運転手の斜め後ろの席に背広姿の男が座っていた。

 細長いケースのようなものを抱えていた。

 後部座席の方を見ると、浴衣姿の祖父がいた。

 最後部の五人がけの右端に座ってこちらを見てニヤニヤ笑っていた。

 背広姿の男と祖父と僕、乗客は三人だけだった。

(そりゃあ、そうか……こんな真夜中に……)

 そこで気づいた。

 祖父の奇声に起こされたのが確か十二時半だった。

 どこ行きであれ、こんな深夜に走るバスがあるのだろうか?

「次はぁ、異常技術研究所あとぉ、異常技術研究所あとぉ……」

 スピーカーから鼻にかかった声がした。

 聞いたこともない停留所……地名だった。

 とにかく事情を話してバスを停めてもらおうと、走るバスの中を吊り革を左右交互につかみながら前へと進んだ。

「あの……すいません……」

 声を掛けようと運転手の顔を見た。

 運転手は、黄金色の鱗の……龍だった。

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