ネクタイをきつく。
「ふぁぁあ…。」
大きなあくびとともに僕はソファにひっくり返った。
都会の喧騒の中の迷彩服、黒のスーツを体から離さないまま、少しだけネクタイもきついまま、カバンを無理やり放り投げて。
五センチ先に投げ捨てたカバンは、ばんっ!
といった音をフローリングに響かせてくしゃんと潰れた。
「もう、どうしたんですか?」
だらしないですよ、と。
彼女が怒っているようだが、足が動かない。
パジャマの方が、部屋着の方が楽なのは言われなくとも分かっている。それを知っていても動かない僕の足はどうしてしまったのだろうか。
きっと疲れたのだろう、あぁ、きっと。
僕の体はとうにボロボロなのだろう、あぁ。
重い、まぶたが重い。
僕はそのまま何か言う彼女の顔をわすれた。
次に音を忘れた。
何かを忘れて潰れた。
__________________________
「ふぁぁあ…。」
僕は光を思い出した。
匂いを思い出した。
体の重さを思い出した。
ほかに思い出さねばならないことは
・飯を食っていない。
・彼女にハグをしていない。
あとは
・スーツのままだ。
ということ。
はぁ、飯を食うか。
僕は立ち上がった。
足が動かないほどの何かがいたことを思い出した。
が、すでに足は忘れていた。それを。
僕がレンジを弄っていると、お風呂上りらしい彼女がいた。
「起きたんですね?ぐっすりだからてっきりもう起きないのかと思ってました。晩御飯、温めて食べてくださいね?」
あぁ。と簡単に返した。
タンパクだろうか、
いや、
そんなことはないだろう。
仮に僕が発言した内容が、
RNAか何かにアミノ酸としてとらえられなければ。
それはタンパク質だと、そう自分に聞かせて。
でもなにか、いつもより淡白な味を覚えつつ、
食べきった皿にのこった残りのソースに、
すこし不安になって。
でもソレも寝ぼけた僕は忘れて。
いつまでも着ていていい加減に重たくなってきたしわしわのスーツを脱ぎ捨て、
浴槽につかる準備をした。
「首が…苦しくない?」
ここで初めて僕の首のネクタイは外れている、
ということを知った。
__________________________
シャワーを浴びて湿った己の肌にあたる風呂の外の温度は思わぬ寒さで思わず体がふるふるふるふると揺れる。
リビングの時計はもう真夜中だ、
相変わらずこの時期は寒くて頂けない。
スマホの時計も真夜中だ。
テレビの番組は深夜らしい。
この見渡す世の中のすべてがすべて
真夜中の星のイエローにいる。
僕の脳みそはまだまだこれからなのに。
「あぁ~、寝れない。寝れない寝られない。」
そんな脳みそは生き生きしてしまった僕の横では眠れないと寝室から戻ってきた彼女がいる。
「あ、お風呂あがりました?晩御飯、美味しかったですかね…。いや~、あなたがきもちよさそーに寝ているのが愛おしくて、その、なんというか、添い寝?してて…」
合点。
今日の夕食に感じた謎の違和感は彼女の手料理でなかったからで、彼女も結局寝ていたというわけだ。
「あぁ~、なんで寝られないんでしょう。いや、理由はわかっていますけども。」
寝られないなぁ…とゆらゆら揺れて寝室に向かっていった、その彼女の後を追う…前に麦茶を飲んだ。
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「あ、来た来た。待ってましたよ?」
ベッドの上にごろりんとそれはまあ大胆に体を預けた彼女はここに来てくれ、と手招きした後ぽんぽんとベッドを叩いた。
「あなたがいてくれたら寝られる」
とかいってベッドについた僕の腕を抱きしめてくる。
ほどよく育った彼女の身体がぐりぐりと僕の体にぶつかってくる、普段見えない手の肌が見えるシンプルだが可愛らしいパジャマは僕の興奮を誘う。
「えへへ、安心できます。」
こうなるともう、粘着シートの罠にかかった虫のように僕から離れてくれない、悪い子だ。
僕の意思は無視して、
ぎゅうぎゅうとハグしてきて、
誘う、罠を誘う。
ふと、彼女にとられていた意識をよそにやると、寝室においてある棚の上に僕のネクタイがあった。外してわざわざここに届けてくれたのか。となりの簡易物干しのスーツやシャツを着て朝出ていくのだ。
「ねぇ、寝られないんですか?」
遠くを見つめた僕を心配してくれた、あぁ見上げる上目遣い。
もうなんとも筆舌しがたい想いに心を突き動かされ、でもすこし思いとどまり、
あぁやっぱり我慢できないので頭を撫でた。
そして寝られないのだ、と。
「あの、じゃあ。やってみたい事があるんですけど」
やってみたい事を告げながら君は着替える準備を始めた、なるほど少し勇気がいるなと思いながら、僕は己の姿を包む皮を脱ぎ捨てた。
_________
「じゃあ…お願いします。」
夢でも見ているのだろうかと己の瞳を疑ったが、すべて現実の出来事である。
そこには、ベッドの上で、普段観客に見せるあの姿で、あの美しい姿で、四肢をぐるぐるとネクタイで拘束された彼女の姿があった。
わざわざネクタイで拘束する必要ってあるのかと始めは疑ったが、コレが思ったより興奮を誘う。己の持ち物で大好きな相手を拘束するこの背徳感、はぁはぁと荒い息遣いの彼女はいつにも増して妖艶で、細いイエローの光が紅い頬を照らす。
これだけでも興奮冷めやらぬ事態なのに、その上に乗算されるのが彼女の服装。
どうせ今から脱がせるのに、もう既に胸の上辺りまではだけているのに、それでもこのアイドルの衣装は、見飽きるほど見てきたこの衣装は、
アイドルである彼女を己の勝手気ままに扱える、公共の物を己が物として独占している夢の情景だ。これ以上の興奮などあるだろうかいや無い。
「は…恥ずかしいです、まじまじ見ないで…」
自分からこの状態を望んでいたのに、こんなセリフを吐くなんて。
でも、この台詞さえ今は興奮を掻き立てるトリガーになる。
いわゆるロールプレイってヤツだろうか、
なりきって楽しむ。
今は、
普段ゲームをして笑ったり、
机を挟んでご飯を食べたり、
同じベッドの中で手を絡めて眠ったり、
そんな幸せいっぱいな夫婦関係を、
ドキドキし合う恋人の心を、
そんな物をすべて忘れて、
ただ占拠して支配して独占する悪と、
それに為す術ないままただいいようにされる者。
ただその関係に成り下がって、
そのありきたりだがあり得てはならない禁断の関係に、一晩だけ成り下がるのだ。
「あの、嫌だったら無理しなくていいんですよ?私のお願い聞いてくれるのは嬉しいけど…」
心配してくれているようだが、
今の僕はそんな事気にしていない。
ただこの状況に、
思ったより興奮をしている自分が少し恐ろしい。
それだけだ。
「うぅ…っむ、う、んちゅ…」
行動が口より早いのはもう既に脳が死んでいる証拠だが、死んでいていい。けものでいい。
四肢を縛られ横に転がる位しか出来なくなった彼女を抱きしめて口づけをした。それはいつも仕事に出る前や寝る前にする優しい物ではなく、強引に捻じこめる物を捻じこめるだけ捻じこむ物。
嫌がるように身をよじる彼女を強く強く抱きしめてする。猛獣が獲物を貪るよりも強く。
「かはっ…あっ、おぇ…」
少し苦しそうな彼女を見てまたゾクゾクとしてきた、ダメだ、妙な物に目覚めそうだ。
…もしくはもう、既に。
でもこれだけでは可哀想だ、これはあくまでちょっとぶっ飛んだごっこ遊び。
お互いに楽しめなくっちゃ、ダメだ、
「あぁ…やめ…あっ!」
無理やりに彼女の毛皮を引っ張って、そのあとゆっくりと下にずりさげる。
美しい健康的な素肌があらわになる。
顔も声も嫌そうだが、
これは演技だと一瞬で判った。
体は正直とかそういう話じゃなくて、縛られた手が僕の服を優しく握っている。これはする前にささっと決めたサイン。
「もっとどうぞ。」
のサイン。
彼女のお言葉に甘えて、いや、
要望に応えてもっともっと調子に乗る。
「はっ…ふ、ふぅぁっ…あ…」
僕に出来て、ホンモノの悪人に出来ない事は、
一発で弱点に行きつく事。
何が好きで何が嫌いか、これは知りつくした僕にしか、ごっこ遊びのワルモノにしか出来ない。
縛った腕のせいでマトモに毛皮を脱がせられなかったが、むしろコレの方が良い。
無理やりに力で押さえつけるこの感覚が、どう言おうか悩むほど今の僕に突き刺さる。
膨らみを撫でながら今にも泣き出しそうな表情を気にせずに麗しい唇を奪い続ける。
あぁ、私には、大好きな相手がいるのに、
目の前の人に、いいようにされて。
なんてしっかりしたビデオかなんかじゃ彼女の声が聞こえて来るのだろうか。
それも背徳感というかなんというか、火薬として十二分の効果があるな。とか考えては忘れて、
左手で膨らみを撫でて、時折ぶつかるモノを念入りに触ってやっては右手で顔を少し強めに支えてキスをする。
「はぁ…やめ、て…」
そう言って僕の服を引っ張る。
行動と言動の矛盾は行動を優先する。
百聞は一見にしかずと一緒だ。
いや違うか。
ええい一緒でいいんだそんな事。
下着はどうせ邪魔なんだって脱ぎ捨てておいたんだった、彼女は下半身にスカートしか着ていない。もちろん両足をまとめて縛られているので抵抗できるはずもなくするすると脱げていく。
全身の露出が広くなったが、脱がせきれず残った服がまたたぎる。
「やめて…下さい…!私は…あぁ…」
僕は彼女の足を縛り付けるネクタイを解いた、
普通ならこんな事をすれば、例えその姿が全裸同然であっても逃げ出すだろう。
町へ駆け出しそこで誰かに助けられる。
これもまぁあり得るかどうかあやしいか。
だが、コレはあくまで。
あくまでごっこ遊び。
小学生が絶対防御バリアを生み出すノーベルもビックリな力を身に付けたり、5歳の少女が一家の家系を助ける母になったりする。いわゆるご都合主義ってヤツ。
力が残ってないのか、
はたまたこの快楽に溺れたのか
それは、定かではないが。
ただし一つ言えるのは、彼女が
「もう、待ちきれない」
そう言わんばかりに僕のはだけた服を勢いよく引っ張り、普段観客を酔わせるための音色が嫌がる声に変わった中に混じる興奮の自己申告を聞かせてくる、つまりはゴーサインをくれているという事だ。
「逃げないんですか?」
わざとらしく声を掛けた。
「そ…それはぁ!」
どうにか体を起こそうと自由になった両足をガバッと開いて立ち上がろうとした彼女の顔は
「早く逃げなきゃ」
の仮面を被った
「早くしてよ。」
だった。
ふわふわのベッドにバランスを持って行かれふらついた瞬間、無防備とかそんな次元を通り越した彼女の躰をつかんだ。
「きゃぁ!?」
今宵の勝負は僕のストレート勝ちだ。
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「う…うーん。おはようございます。ってアレ!?今日お仕事でしたっけ!?」
朝、飛び起きた。
上司からいきなり電話がかかってきた。
しょうがないけど行くしか無い。
スーツを着てさっと用意した自分の弁当をもって仕事の鞄にあれコレ全部突っ込んで、
「ん…ま」
ツガイとしてのキスをして。
行ってきます。
おっと、いくら夜遅くまでごっこ遊びしていたからと緩んではいけない。
顔をパチンと軽く叩いて、
ネクタイをきつく締めた。
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