雨降る街の枯れた涙―③―
――死にたくない!!
”ガンビー”の巨木の様な右拳の咢が迫る中、死の空気の感傷に浸れる余裕は、サキの中から既に消えていた。
瞼に浮かぶのは、雨に濡れる紅い外套のロックと名乗る青年。
死への拒否、忘れかけた生への渇望なのか。
言葉は見つからないが、端的に言えば「生きたい」という意思なのかもしれない。
サキが、それを自覚した時に表れたのが、紅い外套の青年だった。
瞼を開け、深紅が彼女の前に大きく広がる。
翼のような剣。その護拳から伸びる刀身が縦に割れ、盾となって剛腕を止めていた。
大猩々の拳は、サキを挟んだ位置のロックで止まる。
ロックの護拳から放たれる盾に遮られ、拳の物理熱力が閃光に変換。
両者から放たれる力の作用反作用が激しく拮抗し、紅い外套の戦士の前で火花と電子を迸らせた。
サキの目の前でロックは、
「ブルース、見ていないですぐに倒せ」
気だるい言葉を放つと、目の前の大猩々の拳が弛緩。
ロックの翼剣の寸前で止まる拳から延びる腕関節に、二条の雷が迸り、大猩々の体を駆け回った。
硝子の目から火花が弾けるやいなや、巨体の腕と体幹から、雷撃の蛇が躍り出る。発光が巨体を蹂躙しつくし、鳩尾から大きな雷蛇が這い出た。
雷蛇の突き出た反作用が、巨猿を重力に乗せ、仰向けに倒す。
サキは、黒い炭しか残っていない”ガンビー”に思わず、息を呑んだ。
しかし、目の前にいるロックは、悩まし気に溜息を吐いて、眼を向ける。
紅い外套の青年の目に映るのは外骨格を身に着けたサキと、
「ロック……どれだけ、明け透けではない男女交際が流行りでも、力強さと頼もしさの古典的魅力は廃れないぜ?」
何時の間にか、彼女の隣に男が立っていた。
苔色のロングコートと同色の眼。整えられた茶色の髪は、上質な狐の毛皮の様な気品さがある。
両手には、半月に反った細い剣――エチオピアの刀剣で、ショーテル――が二振り。サキは電影遊戯で、その刀剣を見たことがあった。
彼女の記憶と唯一違うのは、苔色の外套を纏う美丈夫の得物の鍔と取手が、軽機関銃の銃身になっている点である。
「お前、共同作業って言葉を知っているか?」
「男二人背中合わせて、仕事も飽きるだろ? 仕事の中で見つけた一輪の花を愛でさせようという上司の粋な気遣いを無碍にするつもりか?」
サキの隣の、ブルースという苔色の青年が目配せをしながら言う。
それを好機と背後から爪を立てる”クァトロ”が二体。
彼は、ひと呼吸入れて、二振りのショーテルを交差。飛び掛かった”四つん這い”二体は勢いを宙に残したまま、四肢、胴体を刻まれる。
二体の分解された”クァトロ”が、ロックに降り注いだ。
「お前の気遣いという単語の使い方を見ると、”ウィッカー・マン”の方が、まだ意思疎通が出来そうだな?」
ロックは、逆手に持った翼剣を背面に突き出した。そこで、右腕を降りかかったまま”ガンビー”の動きが止まり、間もなく、爆散させる。
「”ウィッカー・マン”に、知的な会話は出来ないだろ? この状況でお前と話をして、反応が返ってくるから面白いんだよ。知性を感じられる……女の子にどう話せば良いのか、分からんお前の初々しさを見る度にね」
眉を顰めたブルースに、
「驚いたな。人様の苦しむ様を見て笑える知性と余裕を持ち得るのかよ。一層のこと、そこのガンビーの脳とテメェの脳を取り換えてみるか? 言語野のゴミ屋敷がすっきりして、人間として適切な言葉が使えるようになるかもな」
ロックは燃え盛る”ガンビー”に物騒な言葉を吐き捨て、鼻を鳴らした。
――武器だけじゃない。この人たち……余りにも、強すぎる。
サキの持つ電子励起銃は、”ウィッカー・マン”に対しては目くらましで、良くて足止めである。生存することもあるが、五体満足では叶うものではなかった。
あくまで、最悪から「運が悪かった」と喩えられる程度の安心しかない。
それに反して、目の前で起きている事態に、サキの中で驚きと恐怖が同居していた。
絶望的な布陣に気圧されず、サキの目の前の青年と美丈夫は、軽口を叩き合っている。しかも、恐怖で顔を引き攣ってもいない。
確かに、サキは命を救われた。
しかし、それは自分たちの理解を上回る力によって。
それらを持つ二人に、”ウィッカー・マン”とは別の恐怖を覚えるが、サキは喉に
押し込む。
だが、二人を無防備と見た、”四つん這い”の大群が、飛び掛かってきた。
「それって、俺が人間じゃない様に言っている?」
ブルースは、三日月に反った刀を一対、交差して逆手に構える。
一体の左前足の爪を、右の刀で止め、左の刀の鍔の仕込み銃で胸部を打ち抜いた。
二体目の両爪は、一体目の残骸で受け止めて、ブルースは跳躍。
苔色の外套を雨風に揺らしながら、二本の三日月剣で貫いた一体目の”クァトロ”を、そのまま二体目に叩き落とした。
「少なくとも、今の時点で人間と認めたくない。こんなに”ウィッカー・マン”を多く連れてきて、色事込みの嫌がらせをするお前は特に」
ロックの吐き捨てた口調に、サキは周囲を見渡す。
先ほど彼女とロックが囲まれていた時には、”クァトロ”しかいなかったが、”ガンビー”も加わりつつある。
今いるシーモア
くすんだ銀灰色の残骸に覆われ、逃げられる場所がない。
「ロック、元々サキを連れて来なければいけないのに、こんなところで頓挫していたら、そら囲まれるって。人の足を頼るな、自分の足を使えってね」
ブルースは苔色の風となり、”ガンビー”の鳩尾へ一直線。
ショーテルを交差し、腰と手首を利かせた連斬を見舞った。
三合目でよろけた大猩々の右肩に、左足の回し蹴り。
その反動で、大猩々が倒れると、周りの”クァトロ”も押しつぶした。
「足と言えば、ブルース。お前の脚線美は、ガンビーの頭に据え替えても、魅力的だ……と”クァトロ”も言っている」
倒れた”ガンビー”から離れようと、ロックは後ろに下がる。
しかし”クァトロ”の、三体の内の一体がロックに狙いを定めた。
一体目の咢が彼の左肩に貪りつこうとしている。
それに対して、ロックは両腕で頭を覆うと、左へ半身を切った。
引いた動作によって、腰が反時計回りの動力を得る。
その回転力によって弾き出された右の拳が、”クァトロ”の頭部を貫いた。
ロックの右手を覆う黒い護拳が、”四つん這い”の上顎の電極の様な牙諸共、吹き飛ばす。
ロックの戦い方に、サキは違和感を覚えた。
先ほど、ロックが”ガンビー”を倒したとき、彼の護拳には翼の様な剣が付いていた。
力任せの剣術だが、翼の剣が折れたところをサキは見ていない。
サキの戸惑いへの答えは、ロックに飛び掛かった残りの二体の”クァトロ”が明かした。
一体目を倒した拳の勢いを殺さず、ロックは腰を入れて、右足の甲を振り切る。
腰に構えた護拳から、水色の光に照らされたが翼剣が現れ、宙を飛ぶ。
推力となった右脚から、左の後ろ回し蹴りが二体目。
その勢いで三体目の”四つん這い”の右の前脚部と頭部を、ロックの周縁の雨粒が作る水の鋸が、水飛沫を上げながら分離させる。
「ヘーゲルのカント批判は、自分がいて他者をどう感じるかだ。”ウィッカー・マン”にも言えるだろ……少しは」
「ドイツ観念論って、少なくとも”ウィッカー・マン”と人間は同じに括ってないよね!?」
ブルースの異議は、ロックによって空から切り落とされた残骸により黙殺される。
しかも、ブルースの側に頭部だけが、ロックによって蹴り飛ばされた。
「サキ、そう思わない?」
ブルースに問われるサキ。
彼女の傍で、頭部がもう四体分、降り注いだ。
ブルースが彼女の左側から見下ろして、右瞬きを送る。
「サキ、正直は宝だ。日本特有の黴臭いドイツ観念論及びマルクス主義的解釈の突然変異で生まれた、”妖怪:勢いで空気読め”の所為にして、考えずに『似合う』とでも言っておけ。それと、ブルースの頭を『あの”四つん這い”の体に付けても悪くない』も加えろ」
ロックの知己に話しかける様な声と共に、”四つん這い”が五体、茫然と立ったままのサキの目の前に現れた。
しかし、程なく炎が覆う。
炎の出どころは、ロックの翼の剣。
炎に覆われた翼の剣が五体を薙ぎ払うと何を思ったのか、その中の一体の頭部を、彼は右の上段回し蹴りでブルースに飛ばした。
気化燃料特有の刺激臭が、サキの鼻腔を突く。
爆風を防ぐ為に彼女は、両手で覆った。
サキの横で、苔色の突風が吹く。
ブルースはロックへの反論として両刃を交差。
機械製の四肢を刻んで、”クァトロ”の”しゃれこうべ”を深紅の外套の青年へ送り返した。
”クァトロ”の頭蓋を避けた、ロックの視線をサキが辿る
紅い外套の戦士の眼差しの先で、”ガンビー”がブルースに、成人の胴程の両腕を振り下ろそうとしている。
危機的状況が迫る中、サキの目にはロックが焦っていない様に見えた。
ロックの目に映るブルースも溜息を付いたが、落胆の色は皆無。
「ロック、女の子にそんなこと振っても、答えられる訳ないじゃない」
鈴を転がした様な声と共に、両腕の槌を構える”ガンビー”の胸から突起物が生えた。
轟炎が巨猿の体の中で、炎花を彩る。
“ガンビー”が盛大な花弁になり、土瀝青の上に火弁を散らした。
異形の散華の背後に立つのは、一人の女性。
赤く癖毛の掛かった二房の長髪は、松明で艶のある髪が火の粉で更に煌く。橙色のインナーとレギンスは、鍛えられた褐色の四肢を弛みなく包んでいた。
丸い肩当てと、菱形の膝当ては、硬質というよりは、サキの目の前に立つ女性の持つ強靭さを引き立てている。
女性の瞳は、インナーの上に纏う、赤い拳闘用の洋袴と共に炎の様に明るい茶色だった。
「ブルース、ロックに教えたこと……”ガンビー”は、”クァトロ”を嗾けて背後に隠れるって忘れたの?」
「そうだぞ、ブルース」
「ロックもブルースに絡まない。ただ、ブルースの脚が長くて綺麗なところは、私含めた世の女性が、腹立てているのは認める」
炎の陰影で映える女性が、ロックとブルースを交互にいさめる。
「キャニス、そこに同意するな」
「大丈夫……どの”ウィッカー・マン”の頭でも、そのムカつく足癖の悪さは変わらない――というか、あなた達がバカなやり取りしている所為で、遅れているんだからね」
炎の肩当てとトンファーの少女――キャニスが顎で示した先から男性が現れた。
サキと同じ、外骨格を身にまとった日本人。
ただ、彼女と異なる点は、兜と外骨格が、銀色だったことである。
長髪と同じほどの長さを持った鞭を右手にし、その細い眼に浮かぶ黒瞳は何処か黒曜石の凛とした輝きを彷彿させた。
「スコットランド以来だね……ブルース、ロック君」
日本人男性は、紅色と苔色の戦士に笑みを浮かべ、サキに目を向ける。
「ナオトさ……いえ、ハシモト隊長」
知己からの眼差しに、思わず口から出かけた場違いな敬称を、サキは呑み込んだ。
彼女は中腰から背筋を伸ばし、電子励起銃で捧げ銃を作る。
ナオト=ハシモト。
電子励起銃を提供した側の人間で、サキの上司。
同時に、彼女の小さい頃をよく知る顔なじみの人物でもある。
彼の背後には、犬耳の黒兜と、白い装甲を身に着けた一団が続いていた。
兜の強化透明樹脂から薄っすら見える顔は、男女の性は愚か、肌の色も年齢も様々な者たちで構成されている。
異なる顔が見え隠れするが、サキと同じ白黒二色の突撃銃を構えていた。
“ワールド・シェパード社”。
サキの所属する組織は、”クァトロ”や”ガンビー”を始めとした、”ウィッカー・マン”対策の専門家集団として、世界にその名を馳せている。
しかし、その中で、微かにさざめく言葉がサキの耳に入って来る。
「深紅の外套の守護者」
「”ワイルド・ハント”の生き残り」
口々に噂する犬耳の群れの視線が、赤い外套のロックへ向いた。
視線に混ざるのは、驚きと畏怖。
二種類の視線に混じる感情から、微かな敵意も醸し出されている。
様々な感情の孕んだ言葉の大きな断片を、サキの耳が拾い上げた。
”ワイルド・ハント”。
北欧神話の主神オーディン、又はアヴァロンへ渡ったアーサー王などの英雄が、地上での悪しき魂の狩りを楽しむ西洋の百鬼夜行――もとい、百騎夜行の名を持つ伝承を指す。
現在は”ワールド・シェパード社”も対応に苦慮した欧州戦線を指す言葉として、専ら有名となっていた。
バンクーバーで、サキたちが直面している事態すらも、霞むほどの”ウィッカー・マン”の襲来事件が数か月前に、欧州を中心に発生。
それを鎮圧したのが「深紅の外套の守護者」と称された戦士と言われている。
だが、サキはその戦士が、目の前にいる青年ということが信じられなかった。
集団の困惑の声色を、ナオトの毅然とした声が制した。
「カワカミさん、状況を」
サキは、ナオトに促され、手短に報告を行う。
一人の日本人女性である隊員を助けた後、ロックと邂逅したこと。
ブルースがその後に合流し、”ウィッカー・マン”が自分の周りで集まりだしたことを、サキが話し終えると、
「こっちもキャニス君に助けられて、どうにかガスタウンから抜けた。ウィリアムス隊員は、カラスマ校長と共にトリアージされた生存者を病院に搬送している。市外移送の手続きに追われている」
サキの報告を聞いて、状況を交換したナオトは暗い顔になる。
ブルースは、グランヴィル
ナオトは口を重く開け、
「東ヘイスティング
”ウィッカー・マン”は、少し前まで、“壁の向こう”側であるバンクーバー東部と南部に分布していた。
本来、動くことはあっても南部と東部の壁から、越えることは無い筈である。
「もしかしたら、ブルース達の話していたことと関係があるのかもしれない」
サキは、ナオトの言葉に息を呑んだ。
その話が意味することは、”ウィッカー・マン”は自分たちとは、知る由のない理由で動いている。
しかも、それはブルース達の側から、説明できること。
サキの好奇心は不謹慎と思いつつも、目の前で起きている惨状から、その原因に向き始めた。
「何かが”アナーシュト・ベハ”を提供している……だが、どうやって? 今まで動いていなかったのにか?」
ロックが、疑問と共に降り立った。
彼に続いて、銀灰色の”クァトロ”が、サキの目の前に一体落ちる。
悶える銀灰色の”四つん這い”の左胸は、無粋に作られた橙の穴の炎を明滅させて、消えた。
「それに、ロックとサキちゃんへ”ウィッカー・マン”が集まりだしたのも気になるわね」
キャニスが疑問の視線を、サキとロックに向けた。
その眼差しをロックは振り払う様に、
「ナオト。俺、ブルースとキャニスで、”ウィッカー・マン”を掃討するから、そこのサキを連れて、ここから逃げ――」
ロックの口から続けて出たのは、二の句ではなく、盛大に吐き出される溜息。
サキたちの後ろに”クァトロ”の群れと、その背後に控えていた”ガンビー”の集団が控えていたからだ。
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