2
新月の夜が来たのはそれから数週間の後のことで、森はもうすっぽりと夏に覆われていた。
生い茂る下生えに足をとられ、鳥獣の嘶きをぽつぽつと聞きながら、僕は何度めかの後悔をはじめていた。
「だいたい、なんで妹まで連れてきたんだよ」
「何度も言わせるなよ、見張りだよ」
そうだろと振り返った兄に、後続のウルシュラはこくこくと頷く。くりくりとした瞳の輝きを見ていると、夜目が利くというのももっともらしく、それ以上何か言うのも馬鹿らしい。兄妹お揃いの鮮やかな金髪が、
ふいに遠くで赤子鳥が啼いて、ウルシュラの泣き顔がよみがえる。
涙に顔を濡らしながら、兄が妹を抱きかかえたあの日、男たちは列をなして村へと帰ってきた。雀の涙ほどの見舞金と、塩漬けにされた友人の屍体、いかにも唐突な休戦の知らせが、彼らの持ち帰ったすべてだった。
父親の、夫の帰還を喜ぶ家族たちの中で、ウルシュたちは体を硬直させていた。彼らの父親は魚のように、血の気の失せた死に顔をさらして横たわり、そのどうしようもなく間の抜けた有様が、元には戻らないもののことをことさらに思わせた。
歓喜と悲嘆を一度に目の当たりにして、胸中のわだかまりに形を与えることは難しかった。幼かった僕は助けを求めるように、生還した自らの父の方をうかがった。ところが――もう何ヶ月も前に置き去りにしてきた死について、あらためて考えるはめになったんだから、致し方なかったろうと今では思うが――父親は僕以上に困っているように見えた。
あれからもう何年もが過ぎたわけだけども、解きほぐす方法を僕は知らないでいる。飲み下しようのない経験はあって、ただ摩滅するに任せるしかないのだと、そう片付けてしまうにもためらってしまうような、僕にとってはそんな思い出だった。
ウルシュが立ち止まってウルシュラに合図し、角灯の火を慎重に消す。暗黒に目が慣れるまでの間、あたりは完全な闇に覆われる。
身をかがめ、息を殺して、気配を常にうかがいながら、僕らはそれからの行程を進んだ。森を抜けると星々が見え、遠くに揺れるちっぽけな灯が、警備兵の居場所を知らせてくれた。
どうにかこうにか塀にたどり着いたところで、目的について何も考えていなかったことに僕らは気づいた。度胸試しになればそれでよく、行ってどうするというものでもなかったのだが、塀際を歩いてそれで終わりでは、どうにも収まりが悪いことも確かだった。
後ろにいたウルシュが僕を小突き、どうすんだと囁くようにして尋ねる。こっちが聞きたいと切に思うが、ここで口論をはじめるのは明らかにまずい。
ひとまず入り口を探そうと僕は提案する。少しでも中が見えれば土産話には充分だろうし、警備が厳重なほど度胸試しには向いているだろう。それでよしとしてさっさと帰ろうとは、声に出しては言えなかった。
角を曲がった先には警備兵が控えていて、僕らはまともに光を浴びてしまう。とっさに森へと駆け出した兄妹を、何歩も遅れて追うわけにもいかず、僕は来た道を死にものぐるいで引き返す。
塀沿いにどこまでも逃げようとしても、その先で別の兵と鉢合わせしないとも限らない。身を隠せるような茂みか何かに、手っ取り早く隠れないことには命がなかった。
懸命に行く先を探る眼が、闇が淀んだような一角を見つけ出し、急いで僕はそこへ潜り込む。壁際に出来た子供一人分ほどの窪みに、丈の高い草が密生したそこは、幸いなことに身を隠すには絶好の場所だった。
向こうでまたたく角灯の明かりが、男が近づいていることを示していた。巡回をやり過ごすために、少しでも奥の方へと入ろうとしたところで、僕は何やら妙なことに気づいた。
行き止まりのはずの壁の向こう側から、こちらに向けて空気が流れているのだ。
ごく穏やかな流れではあったが、確かに動きは感じられた。衛卒が目の前を通り過ぎ、灯火が見えなくなるまで待ってから、僕は風の吹き出る方に頭を突っ込んだ。
痩せた子供が通るには充分なだけの幅が空洞にはあった。少しずつ這うように身体を進めると、生あたたかい風が顔面に吹きつけた。恐る恐る半身を持ち上げあたりを見回して、ようやく塀の向こう側にいるのだと気づいた。茂みに隠れて普段は見えないのだろうが、それは塀をくぐって中へと通じる通路なのだった。
しばらくあたりを歩いてまわったが、歩哨は敷地の中にはいないようだった。怖気づいていた心に余裕が生まれると、自慢の種が増えたという事実に胸が踊った。
なにかもっと面白い、土産話に華を添えるようなことはないのだろうか、浮ついた気持ちで僕は館の軒を見上げた。
壁に並んだどの窓からも、明かりは洩れい出ていないようだった。少しの物音も感じられず、誰もが寝静まっているのがわかった。
見つかる危険が少ないというのはよいとして、こうも平穏だと張り合いがないなと、そんなことすら僕は思うようになっていた。こうなったら寝室の窓を覗いて、子爵の寝顔を拝んで来るくらいはしないと、ここまで来た甲斐がないんじゃないか。
ひときわ立派な窓はどこかと、外周をひととおりまわることを考える。円塔の頂上に設えられた、大きく美しい
こんな様子では昼間だって、満足に日の光は射し込まないんじゃないか。心配になるくらいに暗いそこらを、館を物色しながら歩く。二階の隅に開いた小窓から、微かに光が洩れるのが見えた。
見咎められる恐れを感じながらも、好奇心に抗えず直下までゆくと、光は閉ざされた
無理があるかとあきらめかけ、視界の中心から窓を外すと、横へと延びた太い枝が目に入った。ゆうに建物三階分の樹高をもった、立派な樫の幹が屹立していた。
森や川岸、畑の近くで、さんざん木のぼりはしてきたけれど、いかにも登りやすそうな枝ぶりに見えた。目の前に現れた格好の手段に、僕は一も二もなく飛びついた。
音もなく幹をよじのぼり、窓へと延びた枝にとりつくと、窓掛の隙間ははっきりと見えた。こわごわ中を覗き見ると、明るい室内がうっすらとうかがえた。
窓とは反対側の壁に、どうやら扉があるようだった。大枝の上で姿勢を変えると、小さな寝台が目に入った。
寝台の上に小柄な人影が、こちらに背を向けて座っているのが見えた。驚きに思わず身じろぎすると、身体のどこかが小枝に触れた。
こすれあう木の葉のざわめきは、思いの外に大きなものだった。窓の向こうで銀色の髪が、さっと振り散らされるのが見えた。
見つかった! とにもかくにも逃げるしかなかった。一瞬硬直した身体は、瞬時に逃れようとする意志に応えた。音を気にせず幹を滑り降り、塀をくぐる穴を目指して走る。館を走る知らせよりも速く、ここを抜け出さなくてはならない。
塀の外で警備兵とまた鉢合わせることを、僕は最も恐れていたが、運命は僕に味方した。森に溢れる闇をぬって、まんまと僕は逃げおおせた。
つかのま垣間見えた光景は、強く心に刻まれたものの、翌日顔を合わせたウルシュには、無事に逃げたとだけ話した。いつまで待っても付いてこないものだから、捕まったのかと諦めて帰ったんだと、不満と安堵が混じった声でウルシュはとがめ、近くを警備兵に囲まれて、隠れた場所から身動きがとれずにいたのだと、しぶしぶ釈明するはめにもなった。
あれだけ自慢しようと思っていたのにと、思い出すように考えたのは、それからもうずいぶん経ってからのことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます