第12話 中川と野崎の場合①

 中川は自分の体を運転席に沈めるとしっかりとシートベルトで固定した。


 今日二回目の実技教習である。これで大学の講義には間に合わなくなったが、朝に父親からプレッシャーを受けた彼にとっては、とにかく早く免許を取ることが最優先である。


 彼は今日実技を1回しか予約していなかったが、幸い次の時限に空きの車があり運良く乗ることができた。しかし、教習車番号が気にいらない。44号車。以前学科教習の合間に、他の教習生が魔の44号車と言っていたのを小耳にはさんだ事がある。

 何でも担当教官が、1時間教習生を苛めるだけ苛めて結局判を押さない、とてつもなく底意地が悪い人物らしい。彼は初めてこの番号の教習車に乗る訳だが、朝からの自分のツキのなさから考えると、どうしようもない胸騒ぎがした。


 ルームミラーの位置を自分の目線の位置にあわせていると、なんともなさけないブザーの音が教習所に響き渡った。事務棟の中から、揃いの紺のブレザーを着た教官たちが、ぞろぞろと出てきて、自分の担当車へ散っていく。中川の周りの車はほとんど動き始めたというのに、44号車の担当教官は何処にも見えなかった。じりじりとして待っていると、ようやくひとりの教官が髪に櫛をあてながら、のそのそと出てきた。身支度に時間がかかり出遅れたらしい。


 車のそばに着いたものの、今度はサイドミラーを使って髪のお手入れだ。神経質そうに髪を整える反面、緩めのネクタイ、ズボンにだらしなくおさまる汚いワイシャツ、袖が擦り切れ、ボタンがちぎれたブレザー。その姿は、人に物を教えると言うより、むしろ人に物をたかるといった類の人間と言ってふさわしい。

 何度やっても、自分の髪型が気に入らないようだ。彼は顔をしかめながら、櫛を胸のポケットに収めた。あれが次の時間の担当か。中川は絶望的な気持ちでその教官を眺めた。


「ねえ、君。どうしてそっちに座ってるの」


 教官は運転席に座る中川に言った。


「あ、はい。第4段階の総合ですから…」

「ちぇッ、路上なの」


 教官は不快感を露骨に顔に出して、助手席へと乗り込む。中川の差し出す実技ノートと仮免許証を受け取ると、それらに一瞥もくれずダッシュボードへ放り込んだ。車内に安物の整髪料の香りが充満した。


 日頃から中川は他人の言動には、無関心になろうと心がけていた。彼は父親から与えられる課題に忙しく、それに関係のない人間に積極的に係わる余裕が無くなっていたのだ。

 そんな彼は、男友達に言わせれば『つまらない奴』となり、女友達に言わせれば『冷たい人』と称される。必然的に彼は常に孤独だったが、そのことによって不自由は感じなかった。かえって父親からの課題を消化するには都合が良かった。


 しかしながら、限られた時間とはいえ密室の中で、教官とふたりだけの状況下では、どんなに他人に無関心な中川であっても、できることなら相手とうまくやっていきたいと願うのは当然だ。そういう意味では、この助手席にだらしなく座る44号車担当教官は、最悪な相手であると容易に予測できた。


「あんた何してんの。このままじっとして一時限終わりにするつもり」


 中川はあわててイグニッションキーをひねり、エンジンを始動させた。車はゆっくりと動きはじめる。それは、たまたまとはいえ、乗り合わせた二人の人生を変えてしまうドラマの始動でもあった。

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