第10話 昇龍組と服部①

 派手なネオンの雑居ビル街にあるまったく場違いな地味なビル。昇龍組の事務所は、その中にある。看板には岡野興業株式会社とあるものの、辺りに住む誰もがそのビルを正式社名で呼ぶことはなく、ただ昇龍ビルと称し、できるだけ近付かないように心掛けていた。


 今日はそのビルの前に、何台も黒塗りの大型車が違法駐車しており、出前の自転車がかろうじて通れるほどに車道を占領している。もちろん警察に通報する者などいない。たまに他県ナンバーの車が迷い込みクラクションを鳴らすことはあるが、それもビルから出てきた男たちに脅かされて、バックを余儀なくされていた。


 突然二階のガラス窓を破って路上に灰皿が落ちてきた。二階は社長室。そして、その部屋の主の岡野は、昇龍組の組長。彼は、興奮すると手につかめるものは何でも投げつける悪い癖があった。


「銀次、すると何か。俺がたまの休養で気持ち良く温泉につかっている間に、勝手に伊沢が金庫から金を持ち出したって言うのか!」


 銀次と呼ばれた男は、額にハンケチをあてがいながら頷いた。組長の投げた陶器製のペン皿が額に当たり、そのハンケチは真っ赤な血で染まっていた。彼にしてみれば、たまたま事務所の泊まり番だったのが運のつきである。岡野は銀次を今回のトラブルの主犯のように睨めつけながら、座っている椅子の肘掛けを強く握り締めた。机の上にはもう投げられるものが何もなかったのである。


「逹、説明してもらおぅかッ」


 岡野は自分を落ち着かせるために低い声で言おうと努めたが、出てきた声はぶざまに裏がえっている。呼ばれた組員は、ほかの組員に背中を小突かれて、まるで鬼神への生贄のように組長の前に差し出された。彼は伊沢の直系の子分である。


「あの・・・。伊沢の兄貴の所に変な包みが送られてきたんです」

「どれくらい前だ。」

「一週間くらいまえだと思いますが。それが少ねえけれど、極上のシャブだったもんで、俺たちびっくりして。それから何回か兄貴のところに電話があって。相手が商売したがっているらしいって兄貴が…。山形さん使って探らしたら、相手は津山とかいうバックもないただの若僧で。それでどんな理由でこんな極上のシャブを手に入れたか知らねえが、とにかく全部いただこうって、山形さん、影山さん、それに牧田さんの3人連れて…」

「組の金で買うつもりだったのか。」

「いえ、見せ金にして社長が帰って来る前に戻しとけば心配ないって、兄貴が…」

「伊沢の野郎!」


 握り締めていた肘掛けが、岡野の力でついに引きち切れ、達に向かって投げつけられた。達はかろうじて避けたが、後ろにいる組員の口に当たり、かわいそうに唇から血が吹き出した。


「てめえ、あの金がどんな金か知ってるんだろうな。あの金はおじきから…」


 突然机の上の電話が鳴った。さすがの岡野も、これだけは引きちぎって投げつける材料にはしていなかったようだ。岡野と彼の組員達は、しばし音の主を見つめた。事務所に電話の音だけが不気味に鳴り響く。ようやく一番近い所に立つ銀次が受話器を取り上げて、組の全員の視線を集める。いくつかのことばのやり取りのあと、受話器を岡野に差し出した。


「社長、三和組のおじきからです」


 岡野は生唾を音を立てて飲んだ。腹を据えなくては。彼の人生で最大のピンチである。大きく息をした後、受話器をとった。


「いゃあ、おじき。ご無沙汰じゃないですか」

『岡野か。俺もなにかと用ありでな。おめえはどうだ』

「ビンボー暇なし。なかなか楽できませんや」

『それが一番だぜ。若いころは、どんどん苦労せいや。温泉巡りなんかしている暇はねえぞ』


 岡野の脇の下に、冷たい汗が伝わった。


『ところでなぁ。国税監査のために隠してもらっていたあの金だが、そろそろほとぼりが冷めたんで受け出してもらえるか』


 岡野は思わず受話器を取り落としそうになった。


『どうした岡野』

「い、いや。いつ頃ご入用で?」

『できるだけ早い方がいい。これからうちの若い衆をお前の所にやるから…』

「おじき、待って下さいよ。受け出すにはちょっと時間がかかるんだ」

『何を。まさか勝手に金を動かしたんじゃねえだろうな』

「おじき。俺が勝手に動かす訳ないでしょうが。あん時、おじきが俺に金を預けたいって言ってくれた時には、俺も心底嬉しかった。だっておじきから信用されている証拠だからね。それだけにしっかりお役目を果たさなくてはと思ってさ。事務所の金庫じゃまだ安心できない。思案に思案を重ね、とんでもなく安全な所に移したんですよ」

『試案だと…お前にそんな頭があるわけないだろうが』

「ひでえ事言うな、おじきも…」


 岡野は高まる緊張感にも、平静を装い声が震えないよう話を続ける。


「だからさ、そこから金を出すのに少々手間がかかるんでね。なぁに、明日中にはこちらからおじきの所にお持ちしますよ」

『確かだな』

「いやだなぁ、おじき。信用してくれたから俺に預けたんでしょ。」

『わかった。明日だな』


 岡野は張り詰めた息をほっと吐き出した。


『ところで岡野。最近お前の組は評判だぜ』

「えッ。何が評判なんです」

『みんな噂してるぜ。お前の組が妙に羽振りがよくなったってよ』

「そんなことありませんよ…」

『気をつけなよ。この稼業では、噂になってる組にろくな事は起きないからな』

「ええ。ご忠告ありがとうございま…」


 岡野の礼のことばが終わらないうちに、電話は切られた。


 プレッシャーが頂点に達した彼は、ついに爆発した。電話を両手で頭にかざすと、力いっぱい組員に投げつけた。しかし、細いながらも電話線はかろうじてふんばり、受話器が彼らに届く手前で足元に転がった。電話器のどこかが欠けたらしく、乾いた亀裂音が響いた。

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