第7話 黄健の朝

 黄は、さびれた商店街の路地で輸入雑貨商を営んでいる。


 輸入雑貨といっても、どの国のどういうルートで輸入された商品なのか、黄本人ですらよくわからない。いたって怪しい品々である。

 狭い店内にはうす汚れた商品が雑多と置かれ、およそウィンドショッピングする気にもなれない。確かにこの店で物を買っている客の姿など、ここ数年目撃されていない。

 身寄りもなく家族もいない黄が、どうして生計を立てているのかと、商店街の店主の間で話題になった時もあったが、今ではその話題もとうに飽きられてしまった。たまに小柄ながら丸々太った黄の姿を見ても、商店街では挨拶するものもいなくなっている。


 黄は故郷を離れた中国人が誰しもそうであるように、人知れぬところで金を貯め込んでいた。現在でもその金額は着実に増えている。仮にそれを知ったとしても、まさか雑貨商での儲けとは誰も思わないだろう。確かに雑貨商はカモフラージュあり、彼の本業は『逃がし屋』だった。


 港を訪れる外国籍の船長とわたりをつけ、国外逃亡を望む人間に密航のコーディネートをする稼業。しかしそれはあくまでも、船に乗せてやるのが彼の仕事の範囲であって、異国に到着した客がどうなっているのか。いや、そもそも目指す国に到着しているのかすら、彼自身もまったく知らない。

 彼は離国後の生存率には、まったく関心がない。とにかく日本脱出成功率が百パーセントであることが重要なのだ。この稼業はその数字だけで多くの客と金を掴める不思議な商売であった。


 今日も黄は遅い朝を迎え、いつものように店を開ける作業にとりかかった。人目を引かないように毎日同じ時刻に店を開け、同じ時間に店を閉める。彼の本業を護る大切な作業なのである。


 その時、店の電話が鳴った。鳴り続けているが黄は受話器を取ろうとはしない。やがて機械的な接続音がすると無個性な女性の声の留守番メッセージに切り替わった。


『恐れ入りますがただいま留守にしております。御用の方はピーという発信音のあとにメッセージを録音下さい…ピー』

「津山だ。お前が電話の側に居るのは分かっているんだ。いますぐ受話器を取れ。いますぐにだ!」

「一体なにあるか」


 電話の相手を確認した上で黄は中国なまりのたどたどしい日本語で応えた。


「準備はできているだろうな。」

「話はつけたネ。でも話だけよ。準備するにはお金が必要」

「金は用意できた。どうしたらいいんだ」

「銀行に振り込みなさい。確認できれば、あたし二人分の準備するネ」

「いや、一人分でいい」

「どうしました。予定変わるの、これ不安なことネ」

「うるせえ。金は二人分払うんだから、くだくだ言うな。お前は船の準備だけすればいいんだ」

「不安の気持ちに正直になることは、とても大切。でも、お金が好きな気持ちに正直になることは、もっと大切ネ。わかったよ。船長さんに直接渡すお金も忘れてはだめヨ」

「ああ。出発は何時だ」

「前にも言ったはずネ。忘れたの。明日。朝6時。港北埠頭ヨ」

「わかった。」


 津山は乱暴に電話を切った。

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