第6話 福島修二の朝

 福島は、早朝からマクドナルドの窓際の席に陣取って、冷めた百円のコーヒーをすすっていた。ここからだと道路越しに銀行が見える。


 彼は誰かが近づいてくる度に体をこわばらせた。そして、何度も腹にしまいこんだ『もの』の所在を確認した。まもなく、銀行のシャッターが開く。彼は、利き手でその硬い感触を確かめながら、これが自分に授かった不思議な経緯を、思い出していた。それは、彼の家庭の平和な食卓から始まる。


「おい!昇龍組の牧田をなめているんじゃねえだろうな」


 男は茶卓を蹴り倒した。福島の息子である太一の食べかけていた夕食が、畳の上に散らばった。今日は太一の好きなハムカツだったのに。


「だから言ってるじゃありませんか。本当に何処へ行ったんだか知らないんです」


 太一の母は泣き声混じりに牧田をなだめた。


「奥さんよ。好きでこんなことやっているんじゃないんだよ。俺だってこんな粗末な飯を食っている子供の前で吼えたくもねえ。でもね奥さん、俺だって生活がかかってるの。わかる?」


 牧田は土足で上がってきた足で今度は襖を蹴り倒した。


「あんたの旦那が借りた金が百万。返済期日もとっくに過ぎて今じゃ利子も積もって三百万だぜ。早いとこ幕引いてくんなきゃ、こっちの明日食う飯にも響いてくるんだよ。それを何処へ行ったかわからん、はいそうですか。なんて簡単に帰れるか」


 部屋の隅で小さくなっている太一とその母親にこそ触れなかったものの、牧田はしゃべりながら部屋じゅうを歩き回って、足にあたるものはかまわず蹴り倒していった。

 この光景は小学二年になる太一には理解できなかった。どうして突然やってきた見知らぬ男に、父親が買ってくれた大切な超合金ロボットを踏みつけられなければならないのか。こんな大きな音がしているに、どうして近所の人は誰も助けに来てはくれないのか。


 ついに太一は我慢しきれなくなり、暴れる男の横をすり抜けて外へと飛び出した。お父さんを呼びにいこう。太一は走った。母親には禁じられていたが、こんなピンチになぜお父さんを呼んではいけないのか。お父さんならあんな奴一発でやっつけられる。アスファルトが裸足の太一の足の裏を冷たく打った。しかし、そんなことはおかまいなしに、港にある今は使われていない工事作業用プレハブへ向かって走った。そこに父親が隠れ潜んでいることを、太一は知っていた。


 もともと太一の父親は働き者だった。体を動かす方が頭を動かす事より得意で、ある種の愚直さで良く働いた。おかげで金もある程度は蓄えることができ、そしてその蓄えで古ぼけたトラックのオーナーになった。そのトラックは多少エンジンが息切れしていたものの、その分自分自身の馬力で何とか一城主として独り立ちした。

 太一はそんな父親をすごいと思った。なにしろ父親は、自分がどうやっても持てそうにない大きな荷物を、軽々と肩に担ぐことができた。とてつもなく大きなトラックを、自分の手足のように操ることができた。そして、どんなに働いて疲れた後でも、家に帰ってくればニコニコ顔で太一を高く抱き上げることができたのだ。


 太一の父親は疲れを知らなかった。いや、実は疲れを自覚する頭が、彼にはなかったのだ。深夜の産業道路で彼は事故を起こした。原因は彼の居眠り運転だった。相手は残業を終え帰宅を急ぐサラリーマン。トラックはセンターラインを大きくオーバーし相手の乗用車をこなごなに吹き飛ばすと、自らも横転して電柱に激突した。サラリーマンは重傷を負った。その事故以来、太一の父親も右足を引きずらなければ歩行ができなくなり、そして浴びるように酒を飲むようになった。乱暴な男達が太一の家へ押しかけるようになったのは、それから少し後のことである。


「おとうちゃん!早く家にきて。お母さんを助けて」


 太一は、建つけの悪いプレハブの戸を引き開けながら叫んだ。


 しかし太一の声にこたえるものはない。実は、福島は人が近付いて来る音に脅え、外へ逃げ出していたのだ。彼は自分を呼ぶ息子の声を確かに聞いた。しかし応える代わりに、彼は手にした一升瓶を煽ると、右足を引きずりながら息子から遠ざかっていった。


 夜の人気のない港を彷徨い歩くうちに、福島は防波堤の際に辿りついた。遠くで若者のはしゃぐ声を聞いたが、今の彼にはそれでさえ自分をあざけり笑っているように感じられた。彼は防波堤を越え、テトラポットを不自由な足で渡って、さらに海へ向かっていった。このまま、どこまでも進むのが一番自然な事の様に思った。


 頭に自信のない福島にとって、体に不具合が生じるということは重大な意味があった。過去にどんな失敗があったとしても、体が自由に動かせるうちは、その柔軟な肉体と強靭な筋力でなんとか乗り切ってきた。それが彼の自信であり、誇りでもある。

 しかし莫大な賠償金を背負った今、それがたとえたった一本の指だったとしても、自由に動く体を失う事は、生きる自信を失わせるに充分なことであった。そしてなによりも、不恰好に歩く惨めな父親の姿を、息子の太一に見せたくないと思った。


 福島は、水際に一歩足を踏み出した。その時、彼の背中に激痛が走った。息が止まるほどの痛さに、テトラポットの上でもがき苦しんだ。硬い石のような物が、彼の背に投げつけられたのだ。ようやく痛みも落ち着いてくると、彼は飛んできた物の正体を知った。それは拳銃だった。

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