第5話 津山恵美子の朝

 夢にうなされて目が覚めた。あれから何年経つだろう。未だに何回も同じ夢を見る。仕事のために身繕いをしながら憂鬱な朝を呪った。


 こんな時は、兄の事を考えると気が晴れる。たまに連絡をよこすだけで、いつも何処にいるのかわからない、いい加減な兄だ。しかし、自分が本当に寂しくて辛い時は、なぜか必ず現れて助けてくれた。


 恵美子に父はいない。死別したのか、離別なのか、とにかく父の記憶が全くない。母の記憶はある。女手ひとつで幼い兄妹を育ててくれた。しかし寂しかったのだろう。母は、とにかく多くの男達を家に連れ込んだ。それぞれの滞在は、一夜のこともあるし、半年のこともある。


 小学校から帰ると寝乱れた安布団に、全く見たこともない男がほとんど裸の姿で寝ていることもしばしばである。恵美子の大好きな兄は、こんな家庭の例に漏れず、判で押したような不良であった。


 ある日学校から帰り、台所で漢字の書き取りの宿題をやっていると、寝室から男が起き出してきた。母が最近連れ込んできた若い男である。その爬虫類的な目が恵美子は特に嫌だった。


「お嬢ちゃん、宿題かい。偉いねぇ」


 男はコップに水を注ぐと、下品な音をたてて飲み干した。恵美子は、口を拭う男の視線が自分に注がれている事を強く意識した。男はいきなり恵美子のセーターに手を掛けた。恵美子は必死に振り払おうともがいた。その時である中学から兄が帰ってきた。


「恵美子に何をするんだ」


 大声で叫ぶと兄は自分より大きい男につかみかかる。成人の男の腕力には、いかに喧嘩慣れしていた兄といえどもかなわない。一振りで飛ばされた。兄は、血で滲んだ口を拭うと、今度はそばにあった包丁を振りかざして男に挑んだ。男は寸前のところで包丁をかわしたが、右の耳たぶが血でまみれた。逆上した男は、今度は拳で兄を殴った。兄は一撃で床に叩きつけられ意識を失った。


 恵美子は、兄と男の戦いの一部始終を台所の隅で震えながら見守っていた。しかし、兄が動かなくなり、男が自分にじり寄ってきたところで、記憶は途絶えている。


 恵美子がそのあと覚えているのは、風呂場で自分の体を手ぬぐいでごしごし拭いている兄の泣き顔である。兄の顔は血と涙でぐしゃぐしゃだった。

 何年かの後母が亡くなり、兄妹は二人きりになった。苦労を重ね、恵美子は看護学校を卒業した。今では、見習いの看護師として、病院勤めをするようになっている。幸いなことに、あの出来事以来、爬虫類の目をした男に会っていない。しかし、不幸なことに、男はしばしば夢に出てくるようになった。


 兄は、しばらくあの男を血眼で捜していたようだった。

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