第4話 野崎浩一の朝
「野崎さん!居るんでしょ。分かってるんだから!」
野崎の朝はいつも大家のどなり声で始まる。狭い6畳間で抱き枕をかかえて寝ている野崎。布団を頭の上までかぶって大家の声から逃れようとしていた。
「野崎さん!また、夜生ごみ出したでしょ。もう、カラスがつっつきまわって大変よ!ゴミは朝出してって、いつも言っているでしょ。それに、ゴミ袋の中に燃えないゴミも混ざっていたわよ。野崎さん、ルール守らないなら出てってもらいますからね!ほんとにもう。家賃も満足に納めてくれないんだから…」
反応のない部屋に諦めたのか、大家は愚痴りながら、ようやく野崎のドアから遠ざかっていった。
野崎浩一は、まず枕元に置いてあるはずの鏡を探した。とにかく目覚めに、自分の肌の状態を確かめるのが彼の日課である。肌の状態が芳しくない。もともと脂性の汚い肌なのだが、それを夕べの酒のせいにして、彼は悪態をつきながらベッドから這い出した。
洗面場にいくと、次は大きな鏡の前で念入りに髪のチェックである。彼の中途半端に長い髪に何度もブラシを通した。何度ブラシしても、髪はまとまらない。諦めて、今度は歯ブラシを手に取り、あらかた絞りきった歯磨きチューブをさらに絞って、それをくわえた。何度歯を磨いても、彼の歯は白くならない。しかたなく歯磨きを諦めて、リステリンを口に含んだ。もちろん、それで口臭も消えもしないのだ。
彼はこれだけ、几帳面に体の手入れをするのに、なぜかいつも薄汚れて見えた。やはり大家が指摘するように、彼の根っこのところがだらしないせいだろう。
「毎朝、いい加減にして欲しいわ」
彼は、独り言を言いながら、ひげをそり始める。彼が女性の口調になったのはいつからだろう。別に、彼は性同一性障害ではない。ただなんとなく自分には女性口調が合っているような気がして、自然に使い始めた。
「だいたい、こんなボロアパート、私が住む場所には相応しくないわ。あたしはもっと、ランドタワーみたいな高級レジデンスがお似合いなのに…痛っ!」
アフターシェービングローションが肌に滲みて、顔をしかめながら服を着替えた。自動車教習所の教官である彼は、今日は早番で車に乗らなければならない。
「しかし、なに!この制服。大ダサだわよ、まったく」
彼は最後の身支度のために、ドア横の大鏡の前で自分の姿を映した。今日は、どうも髪のおさまりがしっくりこないように思える。こんな日は、一日機嫌が悪い。今日、彼の車に乗った教習生は気の毒だ。
野崎は、大家に気づかれぬよう、音をたてずにアパートの階段を降りていった。
「ちょっと、野崎さん!」
それでも大家はあざとく野崎を捕まえた。
「ごめんなさい、大家さん。今朝はちょっと急いでるの。お話は帰ってからね」
「野崎さん!あんたもいい年なんだから、ちゃんとしなさいよ!」
追いすがる大家の声を振り切って、彼は駅まで駆け出した。
「ちくしょう。いつか有名になって、金を稼いだら、こっちからあんなボロアパートおん出てやるわ」
電車の窓に写る自分の髪を、何度もチェックしながら、彼はそう吐き捨てた。
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