第2話 中川馨の朝

 中川は、ちょっと憂鬱な気分で階段を降りていった。

 アダルトサイトを渡り歩いて、夜更かしした翌朝はいつもこんな気分だ。そろそろ二十歳にもなって童貞であることの劣等感が、彼に重くのしかかってきている。


 実際のセックスを想像しながら、みずからの行為で若さを鎮めることに対する、理由のない罪悪感はさすがに無くなったものの、そんな夜の翌日は、必ずついていない事が起きるような気がしてならないのだ。

 ダイニングルームに入る直前、中川は足を止めた。すえた整髪料の香りが鼻についた。やはり、朝からついていない。


「お父さん。おはようございます」

「ああ」


 中川の父親は、新聞から顔も上げずに応えた。


「馨さん。おはよう。今日は早いのね。朝から講義でもあるの」


 母親は中川に紅茶を差し出した。


「いえ。病理学の講義は午後からですが、午前中に自動車教習所へ行こうと思いまして…」

「たかが車の免許をとるのに、貴重な時間をだいぶ費やしているようだな」


 やはり父親は顔を上げずに言った。中川の紅茶をすする手が止まった。


「仕方ないわよね。馨さんも忙しい大学の講義の合間をぬって通っているんですものね」


 すかさず母親は息子を救ったが、もう中川の舌は紅茶の渋さしか感じなくなっていた。


 中川は父親に逆らうことができなかった。別に暴力で威圧してくるわけではないのだが、なにか得体のしれないところがあり、それが不気味であったのだ。

 幼い頃から父親は彼と彼の息子の間に活字や書物を挟み接していた。この二十年間中川は、父と視線を合わせて会話した記憶がない。父にしてみれば、激務の毎日の中で、目を通さなければならない医学書や書類が多すぎて、息子ごときに目を向ける暇が無いといったところか。当然息子の理解者であるはずもなく、息子も父を理解しようなどとさらさら思ってもいなかった。


 得体のしれない…そう、妖怪のようなものから発せられる低い声には、何とも不気味な威圧感があった。それが中川に幼い頃から絶対的な服従を強いるのである。自動車教習所の件にしてもそうだ。何も彼から頼んだ訳ではなかった。父親がやはり書物から目も上げずに『車の免許を取るつもりはないのか』と、言ったのが発端である。


 中川は母親の差し出すパンを受け取りながら答えた。


「ええ。でも仮免も取得済みですし、路上で総合までいきましたから、あと二,三週間のうちには終わりますよ」

「なに悠長なこと言っているんだ。一週間で済ませなさい」


 父親の言葉に、今度は母親も何も言わなかった。中川も返事をしなかった。それでも、やはり一週間で免許は取らねばならないという事実は誰もが受け入れていた。


 中川は今まで父親に与えられた課題を果たせなかったことがなかった。それは時に、中川の能力をはるかに上回る時さえあったが、彼は大きな努力と犠牲を払って何とか辻褄を合わせてきた。何の為かは考える余裕もなかった。そしてそれが、いつしか習慣となり自分自身で目標を作り、取り組むという姿勢を失っていった。なぜなら、課題は黙っていても後から後から雨のように降り続くのであるから…。

 この時も中川は、味気ないパンを噛みながら、この新たな課題にどう対処するかをひたすら考えていた。今日はやはりついていない、と思った。

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