第3話―6―


 私の「沙美」や「由美」、それから「順平」についても、名前にどんな意味があるのかと考えていると、律子が、

『ねえ、その袋から“かけ”出して』

 と、二つ持って帰ってきた“かけ”を出すように言ってきた。片方の袋からは、茶色い皮の手袋が出てきた。律子が使っていた物は黒かったので、それとは別物のようだ。

 部活の時は、細かいところまで見ている余裕なんて無かったが、こうやってまじまじと見ると、親指の入る所がやけに堅く出来ていたり、その部分が真っ白くなっていたりと、色々な事に気が付く。律子に聞くと、親指の部分は木で出来ている事、「ぎり粉(こ)」という滑り止めを付けているから白くなっている事を教えて貰った。

 そして“かけ”の着け方を教わったところで、もう一つの袋も開けるように言われたので、こちらも取り出す。中には、律子が部活の時に使っていた黒い“かけ”が入っていた。

「ねえ律子、部活の帰り際にも聞いたけど、何で二つ持ってるの?」

『それはね……うーん、簡単に答えても面白くないわね。何でか分かる?』

「えー、急に問題? 面倒臭いなー」

 と言いつつも思考は正直なのか、すでに二つを見比べ始めている辺りが何とも悲しい。

「うーん、色が違う!」

『ブー』

「大きさが微妙に違う!」

『ブー。弦掛ける所見てごらん』

 弦は、親指の腹の部分に引っ掛ける構造になっているのだが、言われるがまま見てみると、黒い方にだけ、ここにハ虫類の鱗の様な物が貼り付けられている事に気付いた。触ると少しスベスベする。

「何これ?」

『鮫皮(さめがわ)よ』

「さめ……がわ?」

『鮫の皮よ。これを付けてると、山も削れないし、離れも出るのよ。部活始めたばかりの時は茶色い方を使ってたんだけど、今は鮫皮の付いてる方しか使ってないの。簡単に言うと、初心者用と上級者用ってとこかしら』

 ……山が削れない? 離れが出る? 何の事やらサッパリだが、質問するとまた長くなりそうなので、そこは「へえー」と返しておいた。

『でも、この鮫皮の方は、沙美はまだ使っちゃ駄目だからね。多分暴発しちゃうから』

「暴発!? 爆発でもするのか?」と思いつつも、やはり「へえー」と、返しておいた。

 私の「沙美」や「由美」、それから「順平」についても、名前にどんな意味があるのかと考えていると、律子が、『ねえ、その袋から“かけ”出して』 と、持って帰ってきた“かけ”を出すように言ってきた。

 ……ああ、また練習が始まる。

 その後、細々した事まで散々に教わると、寝支度を整えてベッドに倒れこんだ。

「あー、疲れたー!」

『慣れない事の連続で気疲れするかもね。でもまだ二日目よ。学校が始まったら、もっと疲れちゃうかもね』

「もう無理でーす」

『らしくないわね』

「なんて、冗談よ。少しずつ慣れていけば大丈夫だと思う。ま、私に任せときなさいって」

『あらあら、それは頼もしいわね』

 こう見えて(と言っても、私がどう見えてるかなんて誰にも聞いた事は無いけど)、昔から人付き合いには自信があった。春子と八重子とは、ちょっと異例なので別だが、初対面の人ともすぐに仲良くなって、会った次の日に二人でランチ、なんて事もあった程だ。

 ……でも、これから会う人たちって、結局は春子や八重子と同じ条件の人達なのか……。そう考えると、ちょっと滅入ってくる。


 暫くその流れで、未来ではどういう名物先生がいるのかだの、私に好きな人がいないのかだの、北浦の事で盛り上がった。

 そして一通り話すと、律子は突然あの話題を切り出した。

『ねえ、未来の学校には、進路についての指導、と言うか、授業は無いの?』

 さっきの“黙(だんま)り”の事もあったのでどう答えようかとも一瞬考えたが、同時に木札が頭に過(よぎ)り、建前で喋るのはやめる事にした。

「あるよ。てか、今まさにその宿題出てるからね。進路希望決めて提出しなきゃなんだけど、これが全っ然決まらないんだ。特にやりたい事も無いし、かと言って失敗したくもないし……。律子は? もう決まってるんでしょ?」

『う、うーん、私も……その、決められないんだ。大事な未来の事だから、簡単にはね。“取りあえず就職”とか“取りあえず進学”とか……今の私には、決められない』

 律子は何故かばつの悪そうに、半ば口ごもりながらそう言った。しかしごもっともです律子さん。私もその意見に激しく同意です。

 それにしても意外だ。律子の事だから、先の先まで人生プランは立ててあると思っていたが、「どんなにしっかりしていても、やはりは同い年の女の子なんだな」と、改めて実感させられる。目の前の弓道の事ばかりに熱くなり過ぎて、その先にあるモノは私と同じで見えていないようだ。いや、私は目の前に熱くなるものすら無いのに、それでいて見えていない。私なんかと一緒にするのは失礼な話か。

 それに比べて、春子は立派だ。医者になりたいだなんて、そうそう言える事ではない。律子ですら進路が決まっていない事に若干の安堵はしたものの、その春子の決意を思うと、現時点で進学か就職かで悩んでいる自分が、とても浅ましく思えてくる。

 と、そんな事を考えていると、律子が続けて口を開いた。

『沙美は、とりあえず生きなきゃね。私が必ず助けてあげる。未来へ送ってあげるから』

「うん、ありがと」

『……でも未来へ送ったら、私はまた一人。ハハ、何か、ちょっと切ないな』

「……ね、ねえ律子! 未来で私を訪ねてよ。二〇一四年の八月一四日に事故に遭うから、その後に。あ、私の住所教えておく――」

『ありがと! ……ありがとう』

 律子は私の言葉を途中で遮ると、こう続けた。

『沙美の気持ちは嬉しい……けど、ダメなんだ。私も、未来で沙美に会えたらって考えたけど、出来ないのよ、それだけは、どうしても。……ごめんね』

 その言葉があまりにも寂しそうだったので、私は鏡に映る律子を見続ける事が出来ず、思わず目をそらしてしまった。

 口振りからして、律子が何か隠しているのは分かった。いや違う、“隠している”のではない、“言いづらい”だけ。きっとそう。そうでなければ、私の心が張り裂けてしまう。

 「私達は一心同体」だとか言っておいて隠し事なんて、そんな悲しい事があってなるものか。私は面と向かって、気持ちに嘘をつかずに接してきたのだ。それを、「上辺だけの付き合いでした」などと片付けられては、私の気持ちのやりようが無い。

 頭の中は、「何で言えないの?」「どうして?」という疑問で一杯になっていたが、それを口に出して聞く事が出来なかった。最後の“ごめんね”という言葉が、“もうこの話はおしまい。何も聞かないで”という潜在的な意味なのだと、そう感じたからだ。

 まだ沢山聞きたい事が有るのに、そんな私の気持ちを、この子はこんなにも簡単な言葉でねじ伏せてしまう。

 確かに、昨日出会ったばかりなのだ。勝手に“私達は何でも話し合える仲”だと、そう思い切っている私がいけないのかもしれない。それに、『どうして私の全てを教えてあげなければいけないの?』と問われても、答えは何も返せないだろう。


 ――所詮は、まだ二日の付き合い。――


 そういう事なのだろうか。


 私が「あ、あの、その……」と、何と言おうかと考えていると、律子は態度を一変させ、少しおどけて見せながら欠伸(あくび)をした。

『ふぁあー、私何だかちょっと眠くなってきちゃった。何か変な感じにさせちゃってごめんね。特に深い意味は無いから、気にしないで』

「……う、うん」

『私先に寝るけど、ちゃんと歯磨きして寝なさいよ。あ、あと薬も飲んでね。えーと、机の引き出しに入れたっけ?』

「え? 律子、テーブルの箱にそのまま戻してたじゃない」

『あれ、そうだっけ? 引き出しに入れたと思ったんだけど。ま、いっか。じゃあ、ちゃんと三錠飲んで寝てね』

「ん、二錠でしょ? 自分で袋見ながら教えてくれたじゃない」

『え? あ、ああ、そうだったわね。ごめんごめん。何だか、今日はちょっと疲れちゃったみたい』

 律子はそう言うと、『おやすみ』と付け足してすぐに寝てしまった。

 袋から薬を取り出すと、錠剤の入っているヒートからは既に半数以上の薬が抜かれていた。更に袋を見てみると、「診療日:七月十日」となっていた。飲み始めたばかりと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。一月近くも飲んでいるのに用量を間違えたり、今朝自分で置いたばかりの場所を勘違いしたり……。物忘れが少し酷いように感じる。

 私が来た事によっての生活の急激な変化に、律子自身、と言うよりその体や脳が順応しきれていないのかもしれない。

 薬を飲む為にリビングへ降りると、既にお父さんと江梨子さんはおらず、そこは何とも暗く寂しい空間となっていた。流しで水を出すと、シンクに叩きつけられる音がいやに響く。一旦水を止め、振り返ってリビングを見渡す。

 ……。

 ここへ来て、最初に思った事があった。「うちのリビングに間取りがソックリ」という事だ。ソファーの置いてある場所に始まり、テレビの位置、本棚の位置にテーブルの位置、ほとんどが一致している。

 こうして改めて見ていると、家族のいる風景が浮かんでくる。

 テーブルではお母さんが由美に、その日職場であった出来事を一方的に愚痴り、ソファーではお父さんと順平がバカ笑いしながら何かの映画を観ているのだ。

 今まで、町内会の“子供旅行”に参加した時も、修学旅行に行った時も、全くホームシックになんてなった事が無かったのに、今は家が、家族が恋しい。

「皆に、会いたいな」

 そして、ハッと気付く。今ではどんなに手を伸ばしても掴むことの出来ない、“家族”という「大切なモノ」に。美鈴の事で気付かされていた筈なのに、また“やってしまった”。

 きっと、持っているものを見ない訳ではなく、常にそれを見ているからこそ、それが自分の生活の一部と化しているからこそ、大切なモノに気付けないのかもしれない。身近なモノ程見えにくく解り辛い。だがきっとソレこそが、本当に大切なモノなのだろう。でも、そう解っていても、きっと私はまた、同じ過ちを繰り返してしまうのかもしれない。

 そして今度は“あの”「早すぎる誕生日会」の一幕が浮かんできた。

 ソファーの前のテーブルに、少し小さめのケーキを置いて、美鈴と私と由美、それから順平でそれを囲んでいるのだ。

 クラスメイトの数人を呼ぶのかと思っていたのだが、美鈴がこのメンバーでやりたいと言って聞かなかった、謎の誕生日会だ。

 あの時は、美鈴の肘が順平にあたり、その拍子にジュースがソファーにこぼれてしまうというハプニングも起きた。

 今こうして振り替えると良い思い出だが、当時は、「お母さんに怒られる!」という恐怖に、私達三人はパニックに陥ってしまった。美鈴が咄嗟にタオルを持ってきてくれたお陰で、ソファーに染みさえ残らなかったものの、臭いだけが取れず、由美が順平を生け贄としてお母さんへ捧げたのは忘れられない。

 結局、美鈴を家に呼んだのは、その一度きりだ。もっと呼んであげれば良かったと、少し後悔をしている。美鈴の一件は、解決しないままこの時代へ来てしまったけど、彼女の安否も気掛かりで、何かがずっと胸につっかえたままだ。

 この時代でこう考えるのもおかしいけど、みんな元気かなあ。そして私、助かるのかなあ。


 暗く静かな空間に、激しい雨の音だけが虚しく響いた。




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