第3話―4―

 ……非常にヤバい。

 漫画やドラマ、映画なんかでよく出てくる「緊急事態!」や「絶体絶命!」という言葉があるが、あんなの全然緊急事態でもなければ絶体絶命でもない。だって、その後のシナリオがちゃんと準備してあって、必ずハッピーエンドで幕を閉じるんだもん。

 でも、今私が迎えているこの状況は、まさに絶体絶命の大ピンチなのである。

「――ねえ、律子、聞いてる?」

「は、はい! あ、えと、何? かな?」

 春子に声を掛けられて驚いてしまった。

 そう、私は今、律子として表に出ているのだ。帰りの途中、律子が『うっ!』と頭を抑えたかと思うと、突然私は外へ引っ張り出され、自転車に乗せられた。

 入れ替わった瞬間、自転車から転びそうになったけど、春子が「おおっと」と支えてくれた。

 弓をハンドルと肩に乗せているのだが、律子はひょうひょうと自転車を乗りこなしていたのに、私に替わってからはバランスを崩してばかりで、春子に「急にどうしたの?」と変な顔をされてしまった。

 八重子とは家の方向が違っていたようで、道場を出て、ものの数分で別れた。

 春子との会話は、一応律子が中から返答すべき台詞を言ってくれてはいるのだが、どうしても春子の質問からワンテンポ遅れてしまう。

「だから、駄菓子屋でかき氷食べてかない? って」

「かき氷いいね! ……あ、でも」

かき氷は食べたいけど、余計な会話はボロが出そうで怖い。一応、小さく「どうしよっか」と律子に聞くと、『どっちでもいいよ』と言ってくれた。

「行こっか!」

 律子の返事を聞くや私は春子に即答した。

「お、姉さんノリノリですね!」

 断る事も少し考えたが、早い内にこの生活にも友達関係にも慣れなければいけないし、どうせ練習するなら二人が相手より、一人ずつの方がボロも出にくいだろう。

 まずは春子から攻略してやる。

 未来にもあるのだろうが、一度も通った事の無い、住宅街の小さな道を幾つも通ると、駄菓子屋に着いた。

「ヤッホー!」

 春子はいかにも顔馴染みの様な挨拶を、お店のおばあちゃんにすると、おばあちゃんもしわくちゃの笑顔で、「あら、今日は二人かい」と返してくれた。

 お店は縦長で、左右にぎっしりとお菓子の棚が肩狭しと並べられている。左右の幅は、三人が並べるかどうか、と言った程しかない。

「おばあちゃん、かき氷二つちょうだい」

「はいはい。味はいつものでいいかい?」

「うん、お願いしまーす」

 そう言いながら春子は、三百円をガラスのテーブルにガチャっと置くと、椅子に座った。

 どうやら春子のおごりらしい。

「あ、ありがと」

「いいって事よ! 気にしないで!」

『沙美、お礼言わなくていいわよ。私春に二千円貸してるんだから』

 ……。

 太っ腹と思っていたが、律子に借金をしている上、自分で誘ったかき氷なのだ、律子にお金を出させる訳にはいかなかったのだろう。

 かき氷を待っていると、春子はそこにあったうちわを二つ取り、一つを渡してくれた。そして口を開いた。

「ねえ、今度うちでお泊まり会しない?」

「お泊まり会?」

「うん、八重子も呼んで、三人で」

 お泊まり会とはこれまたピンチのような気もするが、返事をどうしようか迷っていると、律子が『良いんじゃない? OKしたら?』と許可をくれた。

 ……まあ、どちらかと言うと許可を出さなければいけないのは、窮地を迎えるであろう私の方のような気もするが。

「い、良いねえ! お泊まり会しようか」

「じゃあ、来週くらいにする?」

 来週!?

 少し早すぎるんじゃないかとも思ったが、律子が『おっけい!』と言ったので、つられて返事をしてしまった。

 そしておばあちゃんがかき氷を二つ持って来ると、春子は「待ってました!」と両手をすり合わせた。

 元気な子だ。

 私もかき氷を受けとる。と、手を滑らせ、ボトッとかき氷を落としてしまった。

 私は固まってしまったが、春子は「ククク、アハハハハ!」と笑いだし、私も、その爆笑につられて一緒になって笑った。

 おばあちゃんは、「あらあら」と、ただでもう一つかき氷を作って、すぐに持って来てくれた。

「あーお腹痛い」

 春子は涙を浮かべながら言うと、「もう落とさないでよ。次落としたら私死んじゃうから」と、また笑い出してしまった。

 私も笑いながら、おばあちゃんが追加で作ってくれたかき氷を受け取った。すると、「今度は取れたー!」と、春子は更に笑い転げてしまった。

 春子は笑い上戸のようだ。隣でこんなに笑われると、嫌でも笑いを誘われてしまう。

 私も、落ち着きつつあった笑いが、またしても込み上げて来て、二人して手のついていないかき氷を片手に笑い転げた。

 かき氷を食べ終える頃には、私たちの笑いはようやくどこかへ行き、落ち着いてお喋り出来るようになっていた。そして春子が口を開いた。

「ねえ律子、私さ、やっぱり医者目指してみようと思う」

 突拍子もない春子のシリアスな告白に驚いてしまった。今の今までゲラゲラと笑い転げていた人が、突然の医者になる発言。 今このかき氷の一件で、医者を目指す事を決意する程の何かがあったのだろうか。

 いやいや、ある訳ないか、と自分へ突っ込みを入れると同時に、律子が『春は、中学二年生になる弟が入院してるのよ。病気でね。秋人(あきと)君って言うんだけど。多分その事だと思う』と教えてくれた。

「秋人君の、事?」

 私がそう聞くと、春子は口を真一文字に引っ張り、無言で頷いた。そしてこう続けた。

「秋人言ってたんだ。“僕は将来医者になって、人を救う仕事をするんだ”って。“たくさんの命を救うんだ”って」

 そう言うと春子は、口角を上げて無理に笑ってみせ、更にこう続けた。

「でも秋人、もういつまで持つか分からないんだ。本人には言ってないんだけど、容態が悪化すれば、命の保証は出来ませんって、お医者さんにそう言われてるから。 だから私が、代わりにって訳じゃないんだけど、秋人の意思を汲んであげたくて 」

 秋人君はどうやら重い病気らしいが、詳しく聞ける雰囲気でもなかったので、また改めて聞くことにした。

「ごめんね、律子には“話すべきじゃない”と思ってたんだけど、やっぱり相談できるの律子しかいなくて」

 律子はそれを聞くと『私の事は気にしないで。でもそんなにひどかったんだね、秋人君』と言ったので、そのまま春子に伝えた。すると春子は空を見上げた。

「人間はいつかは死ぬ。それは分かってるはずなのに、どうしていちいち悲しいんだろう」

「愛があるからだと思う」

 私は即答した。自然と口から出た言葉だった。

 人が人の死を悲しむのは、それまでの付き合いによって、愛という情が生まれているからこそだ。そして、その愛の生まれた人との永遠の別れ。ただでさえ、人との別れは悲しいのだ。死別というものを、誰が悲しまずに済ませられるものか。

「そうだよね。愛してるからこそ悲しいんだよね」

 そこから暫く沈黙が続くと、春子は浮かないながらも笑顔を見せ、「よし、天気も悪くなってきたし、帰りますか」と立ち上がった。

 春子とはそのまま駄菓子屋で別れ、真っ黒な雨雲が頭上を覆い始めたので、足早に帰路についた。

 春子は別れ際、「なんか湿っぽくなっちゃってごめんね。また明日!」と、今度は満面の笑みを見せてくれた。

 帰りながらも、 春子の無理をして作った笑顔が思い出され、これが何とも胸に突き刺さる。私は会って二日目だし、まともにお喋りしたのは今回が初めてだ。それなのに、彼女の苦痛が直接胸を締め付ける。

 そして最後の笑顔も、しっかりと笑えてはいたものの、私の事を気遣っての笑顔だったのだろうと思うと、これまた胸が痛くなる。私は自転車を漕ぎながらも、もう溜め息しか出なかった。

 律子も分かっているのだろうが、この気持ちを共有したくて、「ねえ律子……なんだかねぇ」と溜め息混じりに言うと、律子も『うん、何だかねぇ』とため息をついた。

 そこに、特に言葉は必要なかった。

 その後お互い言葉は無く、溜め息が重なるばかりだった。

 そしてもうすぐで家に着くという時、律子が口を開いた。

『ねえ沙美、人間ってさ、簡単に死んじゃうんだよね。命より重いものは無いとか言ってる割りに、そんなにも重いくせに簡単に。突然事故に遭ったり、自殺したり、……余命を宣告されたり』

「うーん、簡単に無くなっちゃうような命だからこそ、重いんだと思う。死なない人の命なんて、全然ありがたみ無いもん」

『……確かにそうね。簡単に無くなっちゃうからこそ、大切にするんだよね。だからこそ、輝くんだよね。私も……大切にしなきゃね』

 律子はそう言うと、少し間を空けて『ねえ沙美』と、再び切り出した。

「何?」

『沙美の、誰かの命を救う課題ってさ、病気の人も対象に入るのかな?』

「え、どうかな。対象に入るとは思うけど、でも私病気とか治せないからなあ。私が医者で、それを治したり出来ればそれで課題クリアになるとは思うけど……」

『……そっか』

 どうしたんだろう。いつになく落ち込んでいる様に感じる。もしかしたら、私の課題で秋人君を救えたらと、そう考えたのだろうか。私も、春子から話を聞いた時にそれは考えたが、私がカナタの力を借りて人の命をどうこう出来る訳ではないのだ。

 律子には元気を出して欲しかったが、律子の期待に答える事は、今の私には出来なかった。

 そして、雨がポツポツと落ちてきた頃、丁度家に着いた。何だかあの人へ素っ気ない態度を取るのが嫌だったので、そそくさと二階へ上がった。

 すると意外にも『ただいまくらい言いなさいよ』と、律子に注意されてしまった。何だかんだで、あの人の事は気にかけているらしい。

 部屋に入り弓や部活道具を置くと、リュックをベッドに投げやり、私もベッドに体を投げやった。

『それ好きね』

 律子は少し元気が出たのか、フフフ、と笑いながらにそう言った。

「これ超気持ちいいんだよ」

『あ、出た! 超!』

 律子は何故か嬉しそうに言うと、『超! 超!』と、私をからかった。私はわざと、「あー、超うるさい」と笑いながらに言うと、律子は『ハハハ! 変なのー!』と、とてもご機嫌な様子だった。

 そして律子の指示で、弓を取り出すと早速練習が始まった。

 まずは弓に弦を張るところからだった。律子は、『壁を使って弓をしならせて、弓の一番下に、輪になってる白い部分を掛けて――』と簡単に言うのだが、それだけで十分少々かかってしまった。弦を張れたらそれを外してまた張って、の繰り返しをし、二、三分もすると、それなりに素早く張れるようになった。

『弦は大丈夫そうね。それじゃあ次は素引(すび)きね』

「すびき?」

『矢をつがえないで、素手で引く事よ。手痛いからそこにあるタオルを使って引いてみて。あ、立ったままだと天井突いちゃうから、膝ついてやってね』

 律子に言われるがまま、膝をつくと、テーブルの上に置いてあったタオルを取り「ぐぬぬぬぬぬ!」と声を出しながら(と、言うより勝手に声が出た。)引いてみたが、まったく引けなかった。

『で、普通に引いても引けないから、一旦弓を上げて、そこから均等に引き分けてこなきゃいけないの』

「それ早く言ってよ!」

 そう言われて初めて、律子が部活で弓を持ち上げてから均等に引いていたのを思い出した。

 姿鏡で体を映し、律子に形を教えて貰いながらゆっくりと引く。が、これがきつい。そして怖い。途中まで引いたところで、律子に『あーちょっと危ない!』と止められ、弓を戻した。私が「え、何?」と聞くと、『左手が危ない』との事。

 左手の事を「押手(おして)」と言うらしいのだが、私がこの押手の、手のひら全体で弓を握り締めており、弓が手から逃げて顔に激突してしまう恐れがあったと教えられた。

 顔に激突とは穏やかではない。「まあ、どうせ臨時だし」と、どこかなめてかかっていたが、気持ちを入れ換える事にしよう。

『押手はね、弓握っちゃだめなの。親指の付け根だけで弓を支えるイメージよ。あとは小指を軽く閉めて、残りの指は添えるだけ。あと、引き分けてくる時は押手の親指を反らせながら、ぐぅーっと前に伸ばしていく感じで、ああそれから左腕の肘も入ってないし――』

「あー! もううるさい! そんなに一気に言われても分かんない! 私初心者なんだから、子供に教える様に教えてよ!」

『……それは悪かったわね、じゃあ沙美ちゃん、お父さんかお母さんはいるかな?』

「ねえ、本当に悪いと思ってる?」



第3話-5-へ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る