第3話 恩と呪い

潤也じゅんやくんに、恩を背負わせないでください』


 待ち合わせたレストランでおさむにそう言ったのは、潤也の命を救ってくれた若き消防隊員、山岸やまぎしくんだった。


 基本的に治は楽天家である。どんな問題が起こっても、そのつど対処すればいいと思っていたし、実際そうしてきた。だから、先のことを考えすぎて足がすくむなんてことは、それまで一度もなかったのだ。

 けれどこの時ばかりは、勝手がちがった。すでに潤也を引きとる方向で準備を進めていたものの、子どもどころか結婚もしていない、三十路みそじに足を踏みいれたばかりの若造が、子どもを――それも、ひどく傷ついた子どもを育てることなんてほんとうにできるのか――という不安が日に日におおきくなっていく。しかし両親はすでに他界していたし、義姉あちらの親類にあずける気にはとうていなれない。あるいは施設にいれて、外からサポートしたほうがいいのではないか。どうしてやることが潤也にとって一番いいのか。


 考えれば考えるほどにわからなくなっていた時、ふと思い立って会いに行ったのだ、潤也の命の恩人に。ただの親戚としてではなく、もちろん刑事としてでもなく、潤也の保護者として、誰かに決意表明をしたかったのかもしれない。


 もとから恩に着せるつもりなんてこれっぽっちもなかった治としては、山岸くんの言葉は心外だったのだが――彼が言ったのはそういうことではなかった。


『できることなら、事件のことなんて忘れたほうがいいんです。それが無理でも、できるかぎりはやく、遠くにかたづけてしまったほうがいい。でも、そこに〝恩人〟がくっついていたら、どうなります?』


 感謝を忘れるな――と言われ続けたら?

 立派なおとなになって、恩を返せ――と言われ続けたら?

 きっと、いつまでもいつまでも――事件の記憶が心の真ん中にいすわる。


『そうなったら――それはもう、呪いです』


 恩を一生背負うなんてばかげてる。悲劇とセットになった恩なんて忘れたほうがいいと、山岸くんは力説した。この日、仕事の都合で急遽こられなくなった、もうひとりの恩人である看護師の女性もおなじ意見だという。どうやら、ふたりはもとから恋人同士だったらしい。


『恩も感謝も、今日この場かぎり。ぜんぶここに置いて帰ってください。砂原さはらさんに感謝してもらえて、ぼくはとても気分がいい。それでぜんぶチャラです』


 口調こそ軽やかに笑っていたが、その目は、いっそ必死と形容してもいいほどに真剣だった。もしかしたら彼自身、にかけられたことがあるのかもしれない。


 なんにせよ、『悲劇とセットの恩なんて忘れたほうがいい』という山岸くんの意見には、おおいにうなずけるものがあった。

 さらに、彼はこうも言った。『無責任に断言しちゃいますけど、大丈夫ですよ。だって、砂原さんは恩とかなんとか、そんなもの関係なく、潤也くんの家族になるんでしょう?』と。


 その時、どうしたわけか『そうか……おれは、潤也の〝親〟になる必要はないんだな』という思いがぽとんと胸に落ちてきて、肩からふっと力が抜けた。同時に覚悟も決まった。治は治のまま、ひとりの人間として、たとえ親にはなれなくても、『家族』になら、きっとなれる。

 決まった覚悟に誓ったことはただひとつ。今後なにがあっても、潤也の味方でいること。それだけだった。


 そうして治は、警察を辞め、潤也を引きとり、なんでも屋をはじめた。


 すべてが手さぐり状態で、いろんな人の力を借りながら右往左往うおうさおうする中、潤也が口をきいてくれるようになるまでに数か月。それから、いわゆる『おためし行動』というやつに、右に左に上に下にとぐるんぐるん振りまわされ、やっとほのかに信用してもらえたかなぁ……と感じられるまでに約一年。そこからまた進んだりさがったり、あがったり落ちたりしながら、少しずつ笑顔も見せてくれるようになって、どうにかこうにかふたり暮らしが安定するまでに三年ほどかかっただろうか。


 その頃からだ。潤也がトラブルの気配にみずから飛びこんでいくようになったのは。


 最初は、それもおためし行動の延長だと思っていた。けれど、なんでわざわざ自分からトラブルに首をつっこむんだと聞いた治に、潤也はきょとんとこう返したのである。


『だって――なんでも屋って、困ってる人をたすける仕事なんでしょ? 治さんそう言ってたじゃない』


 ――……言った! たしかに言った!!


 けどなんかちがう……!! と思いながらよくよく聞いてみれば、潤也は事務所の〝営業〟をしていたのだとわかった。実際、潤也が持ちこんできたトラブルの八割はしっかり仕事につながったのだ。が、しかし。

 ストーカーに悩まされているキャバ嬢とか、引きこもりの家庭内暴力とか、持ってくる話がいちいち物騒で、子どもが首をつっこむことじゃないだろう! と何度となく悲鳴をあげそうになりながら、それでも強くとがめられなかったのは、トラブルを抱えている人たちとかかわることで、潤也もみずからの過去を整理しているように見えたからだ。


 そのうち潤也の精神状態もすっかり落ちついて、最近では純粋な営業活動――というか、トラブルに頭からつっこんでいくクセだけが残ったような、いたって平和な毎日だったのに……なぜ、こんなことになってしまうのか。



 事態が動いたのはひなこを保護して六日目。

 治は最悪な知らせに叩き起こされた。


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