第2話 静かな暴走

 ひなこの聴き取りは難航した。


 身元につながりそうな情報はいっさいしゃべらない。そう……名字も親の名前も、もしかしたら住所さえも、ひなこはちゃんとわかっている。わかっていてのだ。つまり、彼女を置き去りにした人間――たぶん親に、そう言いふくめられている。


 だとすれば、現時点で口をわらせるのはむずかしい。なにしろ相手は五歳(自称)の子どもだ。おさむはそうそうに聴き取りをあきらめ、通常業務――犬の散歩やら庭の手入れやら夕飯の買い出しやら――をこなしながら、潤也じゅんやがひなこを保護した場所を起点に調査を開始した。


 潤也が学校に行っているあいだは、多佳子たかこがひなこをあずかってくれている。どういう事情か、多佳子は現在青沼あおぬまのじいさんのところに身を寄せていて、高校も通信制だから比較的時間が自由になるのだという。じいさんの許可もとれたので厚意に甘えることにした。


 そうして、民生委員や病院とも連携しつつ調査を続けているのだが……なかなか思うような結果が得られないままに四日が過ぎた。



 一階の事務所で書類仕事をやっつけながら安物のウイスキーでのどを焼いていると、ひなこを寝かしつけた潤也も自宅になっている二階からおりてきた。


「治さん」

「どうした」


 ……なんだ? またずいぶん思いつめた顔してやがる。


「どうしても、うちで引きとることはできないのかな」

「……無理だろうなぁ。里親の条件とかすごい厳しいらしいから。おれひとりもんだし、その時点ではじかれる」


 ひなこを保護した翌日やってきた児童相談所の職員は、さんざんイヤミをたれ流したのち、『特例中の特例ですからね!』と、やたら恩着せがましくガミガミと念を押していった。

 うちでひなこをあずかれるのは一週間。それまでにしかるべき身内がみつからなければ、ひなこの身柄を児童相談所にうつさなければならない。


「じゃあ、治さん結婚する?」

「ゴフッ……!」


 あやうくふきだしそうになったウイスキーが気管にはいって、ゴホゴホむせこむ。鼻の奥なのか、のどの奥なのか、そこかしこが熱いやら痛いやら――まったく、なにを言いだすんだこいつは。



「……大丈夫?」


 グラスの水が差しだされる。こちらがむせているあいだにくんできたらしい。ありがたく受けとって慎重に飲みほした。


「……はぁ、おまえこそ、頭、大丈夫か」

「さぁ、どうだろう……」


 いつもなら軽口で返してくるところだ。けれど今は、それこそ迷子の子どもみたいに、長いまつ毛にふちどられた目を不安げにゆらしている。


 ――あぁ……クソッ。これは、うかつだった。


「……ひなこはおまえが保護した。この先施設にはいることになったとしても、縁が切れるわけじゃない。あの子はちゃんと安全に暮らせる。そうあるように見守ってやればいい」


 おそらく八年前に半分戻ってしまっている潤也の意識に届くように、治はゆっくりと、かんでふくめるように言葉をかさねる。


「なぁ、潤、大丈夫だよ。少なくともひなこは今うちにいて、その身が危険にさらされてるわけじゃない。わかるか? おまえの時とはちがうんだ」


 潤也は出し抜けに頬をひっぱたかれたような顔をした。


 思えば最初から、ひなこはうちで面倒をみるのだと、いつになく強引に決めてしまった。あの時点で気づくべきだったのだ。〝おなじ目〟だと思ったのに、勝手に『過去のこと』だと安心していた。かつておなじ目をしていた当事者が、冷静でいられるはずがなかったのに。


 ひなこと出会った瞬間、潤也はそこにむかしの自分をみつけてしまったのだろう。そして過去の混乱と恐怖に追い立てられるように、だけどまわりにはそうと気づかせないくらい地味に、静かに、暴走してしまったのだ。


 潤也は夢からさめたみたいに、一回、二回、ぱちくりとまばたいて、それから天を仰いで嘆息した。肺がからっぽになってしまいそうな、それはそれは長い、とても長いため息だった。



  *−*−*−*−*−*−*



 潤也はとてつもなくきれいな顔をしている。かわいい、でも、かっこいい、でもない。とびっきり『きれい』なのだ。

 近ごろでは少年のやわらかさと青年の凛々しさがいりまじって、ある種のすごみすら感じさせる。


 本来ならプラスに作用するはずの、そのきれいな顔のせいで、潤也は母親に殺されかけた。


 ――家事に育児に毎日毎日、おしゃれもできないネイルもできないエステにも行けない肌もガサガサ、あの子は男なのに男だから、どうしてどんどんきれいになって、ねえどうして治くん、なんであいつはあんなにきれいなのよねえ、あたしは悪くない、あいつがきれいすぎるのが悪いのよねえそうでしょ治くん――――


 ――どうやらおれは、子どもよりかみさんのほうが大事らしい。あいつのせいで亜紀あきがおかしくなったのかと思うと、憎しみすらわいてくるんだ――――



 たった八歳の我が子に嫉妬して、義姉あねは潤也を線路につき落とした。

 夕陽に照らされた潤也の顔が、この世のものとは思えないくらいきれいだったのだと、義姉あの人は供述した。


 そして、感情を閉ざし、表情を失った息子を目のあたりにしながら、兄は『こいつが憎い』と吐き捨てた。


 世の中には、親になってはいけない人間というのがいる。絶対的にいる。だけど不幸なことに、それは実際に親になるまで誰にもわからないのだ。



 潤也にとって幸運だったのは、線路につき落とされた際、現役の消防隊員と看護師という、いわば人命救助のプロがふたりも現場に居あわせたことだ。

 非常停止ボタンを押してもまにあわないところまで電車は近づいていて、しかも潤也は落ちた時に頭部を強打して意識がなかった。そんな状況で、とっさに線路に飛びおり、潤也を抱えて下の退避スペースに飛びこんだ消防隊員の青年と、救急車が到着するまでに適切な応急処置をほどこしてくれた女性看護師。彼らがいなければ、おそらく潤也の命は消えていた。


 この事件で、治は自分でもおどろくほど打ちのめされた。


 年に一度会うか会わないかという薄い関係で、正直、なにがそれほどショックだったのか、いまだよくわからない。たぶん、理屈ではないのだろう。心のどこか――もっともやわらかい、理屈ではない部分で思ってしまったのだ。


 なぜ自分は、幼い甥っ子がたすけを求められる場所にいなかったんだろう。日常的に虐待されていたという潤也が、きっと発していたはずのSOSを察知できる場所に――なぜ、いなかったんだろう――?


 あの時――真っ暗なうろのような、潤也のがらんどうの目を見てしまった時、それなりに誇りも愛着も持っていたはずの、刑事という仕事を続ける意味が、ふっと消えてしまった。見えなくなったのでも、見失ったのでもない。意義とか理由とか、そういったものがすべて、治の中からしまったのだ。


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