最終話 帰る場所
ひなこを保護したその日のうちに、
だけど――
『どうやら、おまえんとこで保護してる子どもの母親が死んじまったみたいだ』
そんな連絡は、ほしくなかった。
*−*−*−*−*−*−*
都内のホテルで発見された、無理心中とみられる男女の遺体。女が男を殺害したのち自殺をはかったものと思われる。
事件そのものは単純だった。ひとことで言うなら『男女トラブル』である。本気の女と遊びの男。結婚したい女としたくない男。まだ裏づけ捜査中だというが、大筋はまちがいないだろう。
新聞を閉じた瞬間に忘れてしまうような、ありきたりな事件だ。その女がひなこの母親でさえなかったら。
「
「そう。それがあの子の本名だ。母親は水元
夜、自宅リビングのソファーで、治はつとめてたんたんと話した。視線はテーブルに固定している。そうしていないと、叫びだしてしまいそうだった。
「……今日……なんの気なしに聞いてみたんだ。お母さんに会いたくないの――って。ひなちゃん……なんて答えたと思う?」
床にあぐらをかいている
「自分がいると、しあわせになれないって言うんだよ、あの子」
――ひながいるとね、ママはしあわせになれないの。ひなはパパにそっくりで、パパはママにひどいことした人で、だから、おもいだしちゃうから、ひなはママのそばにいちゃいけないの――
「あの子は……! 母親のしあわせのために、なにもしゃべろうとしないんだ。なのに、なんで……なんでそんなことになるんだよ!」
――……なあ、加奈子さんよ。あんた、日向子になんてもん背負わせたんだ。母親に捨てられたあげく、人殺しの娘になっちまった。その上自殺だと? 子どもがいなければ、男と一緒になれるとでも思ったのか? いったい自分がなにをしたか……わかってんのか、あんた。
「……水元加奈子には、身寄りらしい身寄りがいない」
「……それがなに」
治は心持ち姿勢を正してソファーに座り直した。潤也の頬からは血の気が抜け、病的なまでに白くなっている。目だけが怒りに血走っていた。
「うちで葬式を出してやりたいんだが、どうだ?」
「……どう、って……」
「加奈子はたしかに救いようのない大バカだ。日向子の背中にとんでもない荷物くくりつけて逃げちまった。それでもな、日向子は母親が好きなんだ。だから、かばう。あんなちっちゃい頭で一生懸命考えて、必死にかばってる」
「…………」
子どもは親を嫌いになれない。殴られても、ろくに食べさせてもらえなくても、殺されかけてさえ、嫌いになれない。どれほど憎んでも、絶望しても、嫌いになれない。だから、子どもは苦しむ。いつまでも、いつまでも苦しむ。それは潤也が一番よく知っているのだ。
「まぁ……おまえがどうしてもイヤだってなら、無理にとは言わないけどな」
「なんだよそれ! そんな言いかた、卑怯じゃないか……!」
「そうだな」
加奈子にどんな事情があったのかも、日向子の父親にどんなひどいことをされたのかもわからない。だけど、日向子を産んだ時、彼女はきっとよろこんだのだ。
日に向かう子――
娘の名前にどんな願いをこめたのか、透けて見えるようじゃないか。
でも、だからこそ、あわれだった。日向子も。加奈子も。
カタン……とちいさな音がして、ハッと振り向く。
リビングと廊下の境目に、パジャマ姿の日向子がぽつんと立っていた。いつからいたのか――不安げにこちらを見ている。
「ひなちゃん……」
潤也がよつんばいになって近づく。
「ごめん、起こしちゃったか」
治も日向子を怖がらせないようにそろそろとソファーからおりて、やはりよつんばいで近づいた。就学前のちいさな女の子の前に、絶世の美少年とむさいおっさんがそろって正座する。はたから見たその
――ああ……そうだ。ここでいくら深刻ぶったところで、なにも解決しやしない。
ひとつ咳ばらいをして、治は自分が出せる中で、もっともやわらかい声を出した。ほんとうにそんな声が出せたかどうかわからないが、努力はした。
「みずもとひなこさん」
日向子の目がまんまるにひらく。潤也もギョッとしたように治を見た。
「おじさんは、きみのお母さん、水元加奈子さんから、きみのことをたのまれました」
「……ママ、が?」
「うん。だけど、このままおじさんたちと暮らすことはできない」
治はできるかぎりかみくだいて、日向子がこれから暮らすことになる施設のことを説明した。どこまで理解しているかは不明だが、まばたきもせず、じっと真剣な顔で聞いている。
「あしたの午後にはここを出ていかなくちゃいけない。それでもここは、日向子の家だ」
「くらせないのに?」
こてんと首をかしげる。
「わからないか。わからないよな。おじさんにもわからない。でも世界は広いからな。そういうこともある」
ふっ……と潤也のからだから力が抜けたのがわかった。
「……雑すぎない?」
「しかたない、事実だ」
がくりと肩を落としてくすくす笑いだした潤也と、大真面目な顔をつくっている治を交互に見て、日向子がためらいがちに口をひらいた。
「なかなおり……?」
「え?」
「ん?」
潤也と顔を見あわせて三秒、同時に「ああ!」と声をあげた。
「そうか。おれたちがケンカしてると思ったんだな」
日向子がコクンとうなずく。
「ケンカしても、なかなおりすればだいじょうぶって」
「……ママが言った?」
先をうながすように治が聞くと、またちいさくうなずいた。
「…………治さん」
「うん」
「……なんだろう……わからないけど、わかったよ。送って、あげよう。おれたちで」
誰を、とも、なにを、とも言わなかった。それでいい。今はまだ、この幼い少女に母親の死を伝えるべきではない。治が
「もう遅い。おいで、一緒に寝よう」
両手を差しのべると、日向子も両手をのばして潤也の首にぎゅうっとしがみついた。潤也は口の中にある苦いものを、吐きだすのではなく、のみこむことに決めたのだ。日向子のために。
よいしょっと日向子を抱きあげた潤也のまだ薄く細い背中が、ひとまわりおおきく、たくましくなったように見える。
「ひなちゃん、おじさんにおやすみって」
「おやすみなさぁい」
「うん、おやすみ」
人生ではまれに、一瞬で人をおとなにしてしまうようなことが起こる。治は今、潤也のその節目を
――さて、それじゃあおれは、あしたまでに考えておこう。
実家? ふるさと? ひとりじゃないと伝わればなんでもいい。
これから日向子は、うんざりするような苦難を乗り越えていかなければならないだろう。自分たちにできることなんて、たぶんほとんどない。だからこそ、伝えなければならない。一緒に暮らせなくても、自分たちはずっと、いつまでも日向子の味方だと。
言葉をおしまずに、心をつくして。
何度でも、何度でも、伝えるのだ。
【いつかどこかにつづく――かもしれない】
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