劉粋4  マージナルな男 

劉義隆りゅうぎりゅうが即位すると、

建康けんこうと江陵の中間となるエリアの長官、

褚裕之ちょゆうしが死亡したため、その後任に。

官位は征虜せいりょ將軍であった。


任地にあっては労務の軽減をなし、

良く住民を慰撫した。

またその数が膨れ上がっていた

仏僧およそ二千人を寺から引きはがし、

官庁の役人として採用した。


そして、426年。


劉義隆は謝晦しゃかい討伐のため、

劉粋のもとに劉道済りゅうどうさい沈敞之しんへいしを派遣。

陸路にて江陵こうりょうに進軍させた。

なお劉道済は劉粋の弟だ。


劉粋、劉道濟、沈敞之、

そして沈道興しんどうきょう沙橋さきょうに到着。

ここで謝晦軍の筆頭将軍である

周超しゅうちょうに惨敗を喫する。


その兵力のうち、死傷者は過半数。

そのため劉粋は寧朔さくねい將軍に降格。


実のところ謝晦と劉粋は

交流が深かった。

劉粋のもとから、嫡子の劉曠之りゅうこうし

軍幹部として出向させるほどだ。


それを知っていながらも劉義隆は、

劉粋に討伐の役目を任じた。

鬼か。


しかし劉粋、引き受けるのに

一切のためらいがなかった。

このことを劉義隆は

大いに喜んだという。


ただ、謝晦は謝晦で、

劉曠之を劉粋のもとに

送り返しはしてきたのだが。


この戦いでの心労がたたったか、

翌年に死亡。53だった。


劉粋のあとは、劉曠之が継いだ。




太祖即位,遷使持節、督雍、梁、南北秦四州、荊州之南陽、竟陵、順陽、襄陽、新野、隨六郡諸軍事、征虜將軍。在任簡役愛民,罷諸沙門二千餘人,以補府史。元嘉三年討謝晦,遣粋弟道濟、沈敞之就粋,自陸道向江陵。粋以道濟與敞之及沈道興步騎至沙橋,為晦司馬周超所敗,士眾傷死者過半,降號寧朔將軍。初,晦與粋厚善,以粋子曠之為參軍。粋受命南討,一無所顧,太祖以此嘉之。晦遣送曠之還粋,亦不害也。明年,粋卒,時年五十三。曠之嗣。


太祖の即位せるに、使持節、督雍、梁、南北秦四州、荊州之南陽、竟陵、順陽、襄陽、新野、隨六郡諸軍事、征虜將軍に遷る。任に在りて役を簡じ民を愛し、諸沙門二千餘人を罷じ、以て府史に補す。元嘉三年に謝晦を討ちたるに、粋の弟の道濟、沈敞之を粋に就け、陸道より江陵に向かわしむ。粋は道濟と敞之、及び沈道興を以て步騎にて沙橋に至れるも、晦が司馬の周超に敗るる所と為り、士眾に傷死せる者半ばを過ぎ、寧朔將軍に降號さる。初、晦と粋とは厚善にして、粋が子の曠之を以て參軍と為す。粋の南討が命を受くるに、一に顧る所無かれば、太祖は此を以て之を嘉す。晦は遣りて曠之を送らしめ粋に還じ、亦た害さざるなり。明年に粋は卒す、時に年は五十三。曠之が嗣ぐ。

(宋書45-28_衰亡)




上のえらい人たちの政争に巻き込まれる形の劉粋さんとしてはいい迷惑ですな。つーか襄陽とか、江陵のまさに目と鼻の先なんですよね。三国志でも関羽が江陵を拠点、襄陽を前線基地として戦ってたりとかもしていました。彼らの好む言い方をすれば歯と唇みたいな関係の位置。なんでそんなとこに敢えてマブダチ同士を置くかなー義隆さん……。まぁ抑止力、ってことなんでしょうけど。


ともあれ、このあとにはちらほら劉粋の親族の伝が続きます。

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