沈林子15 林子薨ず
422年に祖父は薨去いたしました。
36歳でした。
このニュースが劉裕様の病状を
悪化させてしまうのでは、と慮りました。
劉裕様が祖父をお呼びになるごと、
病状悪化のため家に戻った、
とだけを伝えます。
あるときには、祖父がまだ生きており、
祖父よりの言葉である、と偽造し、
劉裕様に伝えたりも。
そして、劉裕様も崩御。
ついには祖父の死を
知らぬままであった、といいます。
祖父の跡を継がれた伯父上、
朝廷より多くの下賜物がありました。
また、斯様なお言葉も賜っております。
「亡き
多くの功績も挙げられたが、
その本懐は遂げられずおったよう思う。
その喪失は惜しく、痛ましい。
生前の功績をたたえ、
その後、448年。
祖父は簡素清廉のお方、
みだりに世俗と関わろうとせず、
その謙譲の美徳は、
妻子にもよく伝えられておりました。
軍事に携わっておられたときにも、
その議論にはあまり
関わろうとなさいませんでした。
自宅では著述に邁進され、
残されたものは、詩、賦、贊、三言、
箴、祭文、樂府、表、箋、書記、
白事、啟事、論、老子など、
およそ一百二十一首。
これらを
「彼が生きておったならば、
と、嘆息なさったそうでございます。
祖父の家門は、
解散となっております。
私は沈邵様の弟、
宋、斉、
そして
著述されてまいりました
宋国の歴史をまとめ、
こうしてひとまとまりの本といたしました。
この沈約の才能は
及ぶとは、到底思えません。
それでもこうしてまとめ上げたのは、
ひとえに宋国、ひいてはその皇位を
継承なされた梁国の偉大なるを、
少しでも具にお伝えできれば、
と願ってのもの。
この書に不具あらば、それは全て、
この沈約の不徳ゆえでございます。
臣約誠惶誠恐,
頓首頓首! 死罪死罪!
永初三年,薨,時年四十六。群公知上深相矜重,恐以實啟,必有損慟,毎見呼問,輒答疾病還家,或有中旨,亦假爲其答。高祖尋崩,竟不知也。賜東園秘器,朝服一具,衣一襲,錢二十萬,布二百匹。詔曰:「故輔國將軍沈林子,器懷真審,忠績允著,才志未遂,傷悼在懷。可追贈征虜將軍。」有司率常典也。元嘉二十五年,諡曰懷伯。林子簡泰廉靖,不交接世務,義讓之美,著於閨門,雖在戎旅,語不及軍事。所著詩、賦、贊、三言、箴、祭文、樂府、表、箋、書記、白事、啟事、論、老子一百二十一首。太祖後讀林子集,歎息曰:「此人作公,應繼王太保。」子邵嗣。
永初三年に薨ず、時に年四十六なり。群公は上の深く相い矜重せるを知らば、實啟せるを以て必ずや損慟有りと恐れ、呼問さる毎、輒ち疾病にて家に還じたりと答え、或いは中旨有りとし、亦た其の答を假して爲す。高祖の尋いで崩ぜるに、竟には知らざるなり。東園の秘器、朝服を一具い、衣を一襲、錢を二十萬、布を二百匹賜う。詔じて曰く:「故き輔國將軍の沈林子の懷きたる器は真に審、忠績は允著なれど、才志は未だ遂げられず、傷悼を在懷す。征虜將軍を追贈すべし」と。有司は常典を率いたるなり。元嘉二十五年、諡し懷伯と曰う。林子は簡泰廉靖にして、世務と交接せず、義讓の美は閨門に著しく、戎旅に在りたると雖ど、語は軍事に及ばず。著したる所の詩、賦、贊、三言、箴、祭文、樂府、表、箋、書記、白事、啟事、論、老子は一百二十一首なり。太祖は後に林子が集を讀み、歎息して曰く:「此の人の公を作したらば、應に王太保を繼ぎたらんに」と。子の邵が嗣ぐ。
(宋書100-22_傷逝)
戎旅に在りたると雖ど、語は軍事に及ばず。
ぼく「えっ」
しかし沈約のオッサンおじいちゃん大好きな割に年齢10も間違えてんだよな。まぁ、36での死亡とかいくらなんでも若すぎるし、盛りたかったんだろうなぁとは思うんだけど。
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