徐羨之4 即位の詔    

劉裕りゅうゆうの皇帝即位が確定した段階で、

徐羨之じょせんしは鎮軍將軍に昇格、

近衛兵の配備が認められた。


そして、劉裕即位の日。


劉裕が、

いわゆる佐命功臣の名を読み上げる。


「徐羨之、王弘おうこう檀道濟だんどうさい傅亮ふりょう謝晦しゃかい

 檀韶だんしょう趙倫之ちょうりんし劉懷慎りゅうかいしん王懿おうい向靖しょうせい

 劉粹りゅうすい到彥之とうげんし


 中略。


 張邵ちょうしょう沈林子しんりんし


 後略。


 彼らは忠勤をもって

 我が覇業をよく助けた。

 あるいは内勤にて庶務を進め、

 あるいは外征にて慰撫に努めた。


 こうして多くの苦難を乗り越え、

 同じ道を歩み、多くの功績を積み、

 一堂に会することができた。


 彼らの功績をもたたえ、

 大いにここに祝いたい。


 宋国の始まりは、

 こうして古のルールに従い、

 スタートするのだ」




高祖踐阼,進號鎮軍將軍,加散騎常侍。上初即位,思佐命之功,詔曰:「散騎常侍、尚書僕射、鎮軍將軍、丹陽尹徐羨之,監江州、豫州之西陽、新蔡諸軍事、撫軍將軍、江州刺史華容侯王弘,散騎常侍、護軍將軍作唐男檀道濟,中書令、領太子詹事傅亮,侍中、中領軍謝晦,前左將軍、江州刺史宜陽侯檀韶,使持節、雍、梁、南、北秦四州、荊州之河北諸軍事、後將軍、雍州刺史關中侯趙倫之,使持節、督北徐、兗、青三州諸軍事、征虜將軍、北徐州刺史南城男劉懷慎,散騎常侍、領太子左衛率新淦侯王仲德,前冠軍將軍、北青州刺史安南男向彌,左衛將軍灄陽男劉粹,使持節、南蠻校尉佷山子到彥之,西中郎司馬南郡宜陽侯張邵,參西中郎將軍事、建威將軍、河東太守資中侯沈林子等,或忠規遠謀,扶贊洪業;或肆勤樹績,弘濟艱難。經始圖終,勳烈惟茂,並宜與國同休,饗茲大賚。羨之可封南昌縣公,弘可華容縣公,道濟可改封永脩縣公,亮可建城縣公,晦可武昌縣公,食邑各二千戶;韶可更增邑二千五百戶,仲德可增邑二千二百戶;懷慎、彥之各進爵為侯,粹改封建安縣侯,並增邑為千戶;倫之可封霄城縣侯,食邑千戶;邵可封臨沮縣伯,林子可封漢壽縣伯,食邑六百戶。開國之制,率遵舊章。」


高祖の踐阼せるに、號は鎮軍將軍に進み、散騎常侍を加わる。上の初に位に即かば、佐命の功の思い、詔じて曰く:「徐羨之、王弘、檀道濟、傅亮、謝晦、檀韶、趙倫之、劉懷慎、王仲德、向彌、劉粹、到彥之、張邵、沈林子ら、或いは忠を規め遠きに謀り、洪業を贊じ扶く。或は勤めを肆し績を樹て、弘く艱難を濟じ、始を經て終を圖り、勳の烈しきは惟だ茂り、並べて宜しく國と休ぜるを同じうし、饗を茲こに大いに賚せん。開國の制、舊章に率遵す」

(宋書43-4_政事)




原文まともに訓読したり訳に反映したりすると無駄に長くなるのでがっつりと削りました。なので、以下で原文の内容をもう少し整理します。



徐羨之

散騎常侍、尚書僕射、鎮軍將軍、丹陽尹

→南昌縣公


王弘

監江州、豫州之西陽、新蔡諸軍事、撫軍將軍、江州刺史華容侯

→華容縣公


檀道濟

散騎常侍、護軍將軍作唐男

→永脩縣公(改封)


傅亮

中書令、領太子詹事

→建城縣公


謝晦

侍中、中領軍

→武昌縣公


檀韶

前左將軍、江州刺史宜陽侯

→增邑二千五百戶


趙倫之

使持節、雍、梁、南、北秦四州、荊州之河北諸軍事、後將軍、雍州刺史關中侯

→霄城縣侯


劉懷慎

使持節、督北徐、兗、青三州諸軍事、征虜將軍、北徐州刺史南城男

→進爵為侯


王懿

散騎常侍、領太子左衛率新淦侯

→增邑二千二百戶


向靖

前冠軍將軍、北青州刺史安南男


劉粹

左衛將軍灄陽男

→建安縣侯


到彥之

使持節、南蠻校尉佷山子

→進爵為侯


張邵

西中郎司馬南郡宜陽侯

→臨沮縣伯


沈林子

參西中郎將軍事、建威將軍、河東太守資中侯

→漢壽縣伯



これ、踏み込んで考えるといろいろ面白い。その中で真っ先に言うべきは「張邵と沈林子の上司である西中郎将の名前省略してんじゃネーヨ!」でしょうか。ぶっちゃけこの佐命功臣、もともとあった佐命功臣読み上げのリストから桓玄かんげん打倒伝説にまつわる人物をピックアップ、かつ、そこに末席の一部を占めた張邵と沈林子の名前をちょこんと乗っけました、という印象がものすごく強いです。沈約さん! それ職権濫用って言いませんか! しかもこの二人何で侯爵から伯爵にランクダウンしてるんですか! もともと子爵か男爵ですよね! あるいは亭侯とか関中侯じゃないんですか!!!!!!(※) あんま盛らないでください! 公私混同!!!!


あと佐命功臣で名前呼ばれたんだから向靖さんへの下賜も漏らさず書いてあげてくださいよとか、劉裕の皇帝即位までの道のりに対する功績ランキングって意味ではぶっちゃけ与えられた褒美の方が重要度高いよねとか。それにしたってこの詔勅の全文が残っていない以上、この先はどうあがいても踏み込めない。うーん、これって武帝紀できっちり全文載せておくべき内容なんじゃないのかなあ。なんで武帝紀じゃなくてここなのかとか、どういう基準での省略がなされたのかとか、その辺を考えるヒントは他の場所にどっか残ってたりするのかしら。



※Wikipedia によれば、晋の頃の爵位は

 郡公・県公・郡侯・県侯

 伯・子・男

 郷侯・亭侯・関内侯・関外侯

というグレードになっている。

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