劉穆之10 劉穆之卒す  

418 年、劉穆之りゅうぼくしは危篤の病床に就いた。

安帝は劉穆之に見舞いの使者を遣わせた。


11月、死去。58歳であった。


この時劉裕りゅうゆう長安ちょうあんに滞在していたが、

劉穆之死亡のニュースを聞いて驚愕、

そして数日の間慟哭した。


もとはと言えば長安を拠点として、

更に北魏ほくぎとの戦端を

開こうとしていたのだが、

政の要、劉穆之を失ってしまえば、

そうも言ってはいられない。


劉裕は急ぎ長安より彭城ほうじょうにまで引き返す。


劉穆之の副官である徐羨之じょせんし

代理を務めこそしていたものの、

重要な決定は、全て劉穆之が下していた。

なのでそのクラスの案件は、

全て劉裕に諮られねばならない。


これでは、国内が上手く回らない。


なので劉裕は、

引き返すしかなくなったのだ。


劉穆之が主宰していた前軍ぜんぐん将軍府には、

二万ものスタッフがいた。


これらのうち、特に政務に関する三千を

徐羨之の建威けんい将軍府に割り当て、

残りの二万七千は劉義符りゅうぎふ

ちゅうぐん将軍府に割り当てた。


劉穆之には

散騎常侍さんきじょうじえい將軍、開府儀同三司かいふぎどうさんし

が、追贈された。




十三年,疾篤,詔遣正直黃門郎問疾。十一月卒,時年五十八。高祖在長安,聞問驚慟,哀惋者數日。本欲頓駕關中,經略趙、魏。穆之既卒,京邑任虛,乃馳還彭城,以司馬徐羨之代管留任,而朝廷大事常決穆之者,並悉北諮。穆之前軍府文武二萬人,以三千配羨之建威府,餘悉配世子中軍府。追贈穆之散騎常侍、衞將軍、開府儀同三司。


十三年、疾い篤く、詔して正直黃門郎を遣わせ疾を問わしむ。十一月に卒す、時に年五十八。高祖は長安に在り、問を聞き驚慟し、哀惋したること數日たり。本にては關中に頓駕し、趙、魏を經略せんと欲す。穆之の既に卒せるに、京邑の任の虛しかれば、乃ち馳せて彭城に還り、司馬の徐羨之を以て管を代え留任せど、朝廷が大事は常にて穆之の決したる者なれば、並べて悉く北に諮る。穆之が前軍府の文武二萬人は、三千を以て羨之が建威府に配され、餘りたるは悉く世子中軍府に配さる。穆之に散騎常侍、衞將軍、開府儀同三司を追贈す。

(宋書42-10_衰亡)




劉穆之伝の全体のトーンを支配するのは、武帝伝説の重要な一部を占める人の、これもやはり「伝説」が描かれているな、というものだった。必要以上に文学化され過ぎている。もちろん武の劉裕を飛び抜けた辣腕で支えた文のひと、というのは間違いないのだろうが、クーデター以後の部分にどうしても功績を「文学的に」盛っているのを見ると、宋書さんお前さぁ……という感じにはならざるを得ない。この辺り晋書辺りから探ってみたいものだが、見れそうな人材が枯渇してるのがなぁ。劉毅りゅうき伝もあんまあてにならなさそうだし。あるいは袁湛えんたん以下文官たちの伝から、もうちょいこの辺の実態を見通せるとよいのだけれど。


ところで今更ですが、劉義符のついている「中軍将軍」が、ちょっと面白い。官職と言うのは基本的に品官が等しければグレードは一緒という建前ではあるのだが、劉裕が一度車騎しゃき将軍(※臨時階級である驃騎ひょうき将軍を除けば最上位の将軍位、ついでに言うとその次に高いのが劉穆之に追贈された衛将軍)からしょく遠征の失敗を受けて中軍将軍に降格したのを受けて、「皇帝になるべき人がつく将軍位」としてこの段階で別格化されているのが伺える。


このような感じで官職に様々な色がつくことによって、どんどん名目と内実がズレていった。ここに大々的なメスを入れたのがりょうの武帝、蕭衍しょうえん。それまでは逐次的措置程度しか、確か取られていなかったように思う。元嘉げんかの治の次の南朝華やかなりし時代が蕭衍なことを思うと、なかなかに官職からうかがえる政体の厳密性って侮れねえよなって思うのでした。


これで宋書は終わり。この後は南史のエピソードを二つやります。

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